脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

ヌードの受容における西洋と日本の違いについて

 十数年ぶりの「女の子に聞かれたけどうまく答えが返せなくて悔しかったので色々調べてみました」のコーナー。今回のお題は「西洋だとストリップやSMショーなんかで裸を見せるのがアートとして社会的地位を認められてるのに、日本だと徹底的に蔑まれるのなんで?」です。といいつつ今回は仕事が絶賛トラブってて全く時間がなかったので調べ物はなしの純粋な思考実験です。有志の皆さまファクトチェックよろしくお願いいたします。それでは、修羅場の中での現実逃避にお付き合いくださいまし。

担い手の違い

 まずは前提として西洋と日本における「(性風俗を含む)文化の担い手」の差異が大きいのではないでしょうか。西洋においては貴族層がパトロンとして絵画音楽舞踊などの文化を育成してきたのに対し、日本においては少なくとも近世以降は支配者層はエンタメとしての文化に全くの興味を持たず*1、当時勃興した商人を中心とする庶民が消費者層として文化が根付いてきたという違いがあります。

日本の事情

 「小人閑居して不善を為す」だの「君子は怪力乱神を語らず」だのと歌舞音曲を忌み嫌い朴念仁こそ大丈夫の理想形とする儒教朱子学)を「国教」としてしまった江戸幕府にとって、商人層が享受する芳醇な文化などは資本や労力を浪費し治安を悪化させる「悪徳」として規制すべきものでしかありませんでした。明治維新以後も儒教こそ廃れたものの、ドイツのプロテスタントナチスファシズムアメリカのピューリタンソ連共産主義と、日本の上層部が影響されまくった信仰がどれもこれも禁欲的抑圧的なものばかりだったこともあり、「文化は規制されるべきもの」という固定観念が定着してしまっています。なお、日本におけるヌードと文化の関係ですが、浮世絵なんかが花開いた化政文化の舞台である江戸が、7対3とすら言われる凄まじい異常な男女比による圧倒的な男余りだった所為で、実際の恋愛や肉体的接触の機会に乏しい下級の男性たちの生活必需品として春画や見世物興行の需要が高まり発展したと考えます。そう考えると現代日本の我ら弱者男性が萌え絵やVtuberにブヒブヒ言ってんのは江戸時代から続く伝統だったんですね。

西洋の事情

 一方でヨーロッパでは、文化の担い手は日本と違い飽くまで貴族層。ルネッサンスによりギリシアローマ時代を活力と享楽主義を取り戻したカトリックは上流階級のたしなみとしてのハイカルチャーを形成することに成功します。後の宗教改革によりプロテスタントピューリタンなんかの禁欲的な新教も登場しますが、北欧や東欧とついでにアメリカ以外は旧教の影響力が強い*2ので、今回は一旦無視させてもらいます。ドイツ・オーストリアで花開いた権威主義全開の文化も掘ると面白そうなんですけどね。閑話休題。で、「西洋」におけるヌードと文化の関係はというと、男のサガとしてエロ絵を所望したパトロンの要求に応えるべく、絵師たちが、当時ルネッサンスリバイバルブーム真っただ中のギリシア文化を、「古代オリンピアは全裸で行われるなどギリシア文明は肉体美を重要視していた」→「肉体美を愛したギリシア人は日常生活でも肌を露出していたに違いない」→「当時の風俗をそのまま絵に移しただけだからやましいところは何もない」という天才の発想により、合法的倫理的にエロ絵肉体美を賞玩する至高の芸術としてハイカルチャーの一部に定着させることに成功させてます。改めて三段論法に直すとホントこれ凄まじい論理展開してるなあと。

まとめ

 以上結論としましては、西洋ではルネサンス期に天才の手により肉体美の表現は尊崇されるべきハイカルチャーとして支配階層のたしなみとして定着したのに対し、日本においては化政期の男女比の特殊事情も相俟って、女性の裸を芸術wとして楽しまざるを得ないのは汚らわしい弱者男性に過ぎないという観念が定着した所為で、西洋では女性の裸をアートとして昇華できるのに、日本においては女性の裸を賞玩することを汚らわしいものとして忌避してしまう。というものでいかがでしょう。

*1:中世以前は奈良朝以降綿々と続く勅撰和歌集平安時代の王朝文学、後白河法皇の今様や絵巻物・足利義満世阿弥観阿弥といったパトロン文化、織豊政権による茶の湯政道など枚挙に暇ないんですが、朝鮮征伐の大失敗で膨張政策を放棄して極端な低成長路線に舵を切った江戸時代に入ってからは、ほぼ支配者層による文化の育成は見られなくなります

*2:イギリスの国教は分類的には新教ですが、何をどう考えても文化的には旧教の系譜なので今回はカトリックと一緒くたに扱います