脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

王嘉六と千利休と三筆について

http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/5855716.html
これは面白い。話の種に使おっと。


 かなり重篤な気管支系の風邪でダウン気味。鼻づまりは全く頭回んなくなるから嫌いだ。


SRWZⅡ再世篇進捗

  • 3周目第43話「闇を断つ牙」暗黒の軍団と交戦中。トップエース:飛鷹葵@ダンクーガノヴァマックスゴッド。

それぞれの季節刻む昨日を語らず声重ね合えばいい

王逸+毛沢東

2008-07-08
2007-01-06

王逸 ワンイー
 『蒼穹の昴』に登場する架空の人物。
 文秀*1と同年の進士。科挙に第三等「探花」で合格。翰林院から李鴻章*2配下の軍人となるが、同僚の袁世凱*3と対立する。後に袁世凱の力が強大化するのを危惧した李鴻章の命により、袁を暗殺しようとするが失敗して捕らわれた。(wikipediaより引用)
初登場:『蒼穹の昴』第一章「科挙登第」
登場作品:『蒼穹の昴

毛沢東 Mao Ze-dong
 光緒十九(1893)〜西暦1976年。中国の政治家。中国共産党主席。字は潤之。
 湖南省湘潭県の人。湖南第一師範に入り、「五・四」時期、長沙で活動。1921中国共産党創立大会後、各地で労働運動を指導。'23.3全大会で中央委員。五・三〇事件後、湖南の農民運動に着目。'27「湖南農民運動視察報告」を発表。国共分裂すると、湖南・江西で蜂起して、井岡山地区に根拠地を樹立。'28朱徳*4軍と合流、紅軍第4号を編成し、政治委員となる。以来、江西省を中心に活動し、'31中華ソヴィエト中央政府主席となる。国民党軍の包囲を受け、'34長征。'35遵義会議で秦邦憲*5らの軍事路線を批判し、指導権を掌握。'35以来陝西北部に根拠地を移し、抗日民族統一戦線を提唱し、西安事件後に第二次国共合作を成立させた。日中戦争が始まり、'38「持久戦論」「新段階論」や「実践論」「矛盾論」を発表。'40「新民主主義論」を発表、理論面でも指導的地位を確立。'41整風運動を起こし、'45.7全大会で中央委員会主席に就任。'49「人民民主独裁論」を発表、中央人民政府主席となる。'53過渡期の総路線を提起、社会主義化の道を示し、農業集団化などを推進。'57講演「人民内部の矛盾」で社会主義社会での矛盾の存在を強調。'58.8全大会で人民公社化を含む大躍進政策をとる。その失敗の為、'59国家主席劉少奇*6に譲る。大躍進政策の調整過程で、ソ連社会主義のコースを取る劉少奇らに対し、'63農村社会主義教育運動、また'66文化大革命を提起。'69.9全大会で実権派劉少奇・鄧小平*7らを排除し、毛・林彪*8体制を打ち立てる。林彪の反逆を抑え、続けて実権を握り西側諸国との協調路線をとるも'76北京の自宅でゲーリック病により死去。(『コンサイス人名辞典 外国編』より引用)

 王逸というとまず思い浮かぶのは後漢の詩人ですが、毛沢東が彼の詩を賞玩したという話は寡聞にして存じ上げませんので、ここでは浅田次郎の小説『蒼穹の昴』に出てきた毛沢東の家庭教師王嘉六を取り上げます。

 探花登第の駿才王逸が毛沢東と出会ったのは、世紀末押し迫る戊戌の頃と推定されます。袁世凱暗殺に失敗し、投獄され命からがら脱獄に成功したものの、生きる希望を失い野垂死のうとしていた王は偶然沢東と出会い、彼に拾われ毛家の家庭教師となりました。以降の事跡は浅田氏の小説では杳として知れませんが、後年の毛沢東の多筆と論旨の精巧ぶりは王逸の教育の確かだったことが伺われます。
 さて、白太太や乾隆帝から「龍玉の守護者たるべし」の宿命を託された王逸。そのことを念頭に於いて『中原の虹』以降の龍玉を行方を妄想すれば、父張作霖の復讐に燃え、抗日の鬼と化した張学良は、自身の政治生命と引き換えに第二次国共合作を斡旋しますが、この時、おそらく龍玉は学良の手から毛沢東に渡ったと思われます。この時、嘉六・史了の義兄弟の数十年ぶりの再会があったとしたらロマンチックですね。是非浅田氏の筆で描かれるこの情景を読んでみたいものです。

 さて、蛇足ですが、現在の中国の体たらくを見るに最早北京に天命ありとは到底思えません。おそらく1960年頃に龍玉の守護者王逸は天寿を全うし、林彪が逃亡の際龍玉を持ち逃げし、哀れ龍玉はモンゴルの地で一握の炭と化してしまったのではないでしょうか。さすれば、天命なき大国中華人民共和国はどんな断末魔を迎えるのでしょうか。いまから楽しみ不安でなりません。

蒼穹の昴(下)

蒼穹の昴(下)

千利休+納屋衆

2006-12-16

千利休
大永二(1522)〜天正十九('91)年。安土・桃山時代の茶人。堺三十六人会合衆(納屋衆)の一人である魚問屋田中家一忠了専*9の子。祖父千阿弥*10が将軍足利義政*11同朋衆であったと伝え、その一字をとって千家を称したという。通称:与四郎、法名:宗易、号:抛筌斎・不審庵。
 茶の湯を堺の茶人武野紹鷗*12・北向道陳*13に学び、大徳寺の笑嶺宗訢*14に参禅して、名を宗易に改め、1555千宗易会が初めて記録に見える。草庵での簡素で静寂と清浄を旨とする侘数寄の茶道を大成し、茶器及び諸道具に創意工夫をこらした。今井宗久*15・津田宗及*16に随伴して織田信長*17に殊遇されてその茶頭となり、更に豊臣秀吉*18に寵遇されてその茶頭となった。'85利休居士を名乗り始め、'87秀吉主催の北野大茶会では宗及らと後見役を務め、聚楽第の利休屋敷に設けられた茶席不審庵の名は、大徳寺の僧で宗祖の法嗣である古渓宗陳*19の語から名付けられたものである。小田原の役後、大徳寺山門に寄進した金毛閣上に自像を配したことから秀吉に罪せられ、'91自刃した。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

納屋衆
 戦国期〜織豊期、港湾沿いの倉庫を所有した堺の問屋衆。納屋貸とも。
 倉庫業などで富裕化し、廻船業・貿易業も行い、堺の中心的豪商となった。『糸乱記』に有力者は会合衆として町の運営に携わったとある。今井宗久千利休もその出である。(『岩波日本史辞典』より引用)

 茶聖として後世にその名も名高き千利休もその出自をたどれば、堺の納屋衆に辿り着きます。納屋衆とは上記辞書的説明の如く、海運都市堺の倉庫業を生業とし国内外の海上貿易を一手に牛耳った豪商連のことを言います。資金力から、堺の事実上の最高意思決定合議体にもなっていました。今でいうと、商社と港湾系ヤクザと市議会いっしょくたにまとめた感じでしょうか。同時期の納屋衆からは、今井宗久・呂宋助左衛門などのビッグネームも輩出しており、その権勢の程がしれます。で、納屋衆が特異なのは、その有り余る財力と人脈を文化方面にも存分に振り向けたこと。当時の納屋衆の外交用必須教養として茶道がありました。豪奢を旨とする堺の豪商から、侘び寂びを重んじる千利休が出たのは皮肉と言えば皮肉ですが、現在茶道がセレブのおもちゃに成り果ててる現状を見ると、それはそれで正当な先祖返りだったのかもと思えたりもします。

千利休 (講談社学術文庫)

千利休 (講談社学術文庫)

三筆

2006-02-19

三筆
 平安初期の代表的な3人の能書家、空海*20嵯峨天皇*21橘逸勢*22
 漢詩文の盛行など唐文化の強い影響下に、唐風の書法を発展させたといわれる。三筆の称が使われるのは江戸時代かららしく、これに倣い寛永の三筆、黄檗の三筆、幕末の三筆などの称も生まれた。(『岩波日本史辞典』より引用)

 9世紀初頭遣唐使の帰還による一大唐風ブームの波に乗って登場した三人の能書家の総称。由来としては、書を愛好し自身も能書家として有名だった嵯峨天皇が自分の書の師の空海とお気に入りの書家の橘逸勢とでチームを組んで大内裏の門額を書き直したのがきっかけ。
 書風は王羲之顔真卿らの王道の書流を受け継ぐ本格派の唐風書道ながらも次代に繋がる和様の萌芽を見せるというのが一般的理解。過度の形式主義やオリジナリティに堕さず飽くまで実用の美を残すバランスの取れた名品揃いで、学生の臨書にはうってつけのお手本ではないでしょうか。自分も空海の「風信帖」と橘逸勢の「伊都内親王願文」は模臨した記憶があります。

伝播から受容へ 三筆 (書の宇宙)

伝播から受容へ 三筆 (書の宇宙)

 

誰にもそれは築けない白いセカイ未来図描いたeyes

 「ゴルフとキャバクラと車以外に金の使い道を知りません」って社長さんの多い現代日本千利休を育んだ納屋衆や三筆を輩出した平安朝廷の如くに風雅な趣味に耽溺しろたあ言いませんので、せめてもう少し文化的なことにも興味関心を持っていただきたいものです。それがたとい王逸のような傑物であろうとも貧乏学者の絶賛では芸術家の腹はふくれません。結局振興の為にはパトロンたる無学な社長の賞玩が必要なのです。金は天下の回りもの。どうせどっかで浪費するなら、キャバのねーちゃんよりは奇矯な芸術家に捨て銭恵んで上げてください。あまり、ゲージツカの育成に無関心なままだと、毛沢東文化大革命後の大陸みたいなメインカルチャー不毛の時代を招きかねませんよ。

Trinity

Trinity

帰って来た今日の一行知識

弘法は筆を選ぶ

むしろ本場中国の多種多様な筆を日本に持ち帰ったパイオニアだったようです。むしろプロほど道具と環境にこだわるのが世の常。「ありもので大丈夫っすよ」って言われたら、なおざりにされてるんだと思いましょう。

*1:梁。軍機章京。字は史了。静海県の人。母朱蓮子。状元登第後、岳父の楊喜楨の重遇により累進。戊戌の変法に参画するも戊戌の政変により日本に亡命。早稲田大学教授として隠棲するも、第三革命により招聘され政界復帰した。

*2:北洋通商大臣。字は少荃。安徽省合肥県の人。太平天国の乱平定に功を挙げ、淮軍を創設し、清朝末期の近代軍の中心となり洋務運動を主導。曾国藩死後、外交を掌握し「眠れる獅子」のイメージを列強に植えつけた。日清戦争の敗戦で失脚するも、清国の人材の払底は著しく死去までの間影響力を保持し続けた。

*3:洪憲帝。中華帝国初代皇帝。字は慰亭。河南省項城県の人。壬午軍乱・甲申事変などで功を挙げ、李鴻章から北洋軍閥を継承。義和団事件後政権を掌握し、光緒新政を主導するも、宣統帝即位に伴い失脚。辛亥革命に乗じて復権し、中華民国初代臨時大総統に就任。その後、国民党を政権から逐い、独裁権力を確立し中華帝国皇帝に即位するも、第三革命により失脚憤死。

*4:第2代全人代常務委員長。字は玉階。四川省儀隴県の人。南昌蜂起を指導し毛沢東と合流。八路軍のち人民解放軍総司令官として、日中戦争及び国共内戦の勝利に貢献。中共建国後はNo2として毛沢東を支え続けた。

*5:博古。新華社責任者。28人のポリシェヴィキを名乗り、一時は中国共産党を主導。毛沢東に奪権されて後は、ジャーナリストとして活躍するも、志半ばで事故死。

*6:第2代国家主席湖南省寧郷県の人。中国共産党に初期から参画し、理論的実務的リーダーを務めた。大躍進政策の失敗後、毛沢東の後を襲うも、文化大革命により失脚、非業の死を遂げた。

*7:国家中央軍事委員会初代主席。四川省広安県の人。フランス留学中に中国共産党に参加し、日中戦争国共内戦を通じて累進。大躍進政策の失敗を期に実権派のNo2として台頭するも文化大革命で失脚。周恩来の工作により復権するも第一次天安門事件で再び失脚。毛沢東死後再度復権し、独裁体制を確立。改革開放路線を推進した。

*8:周恩来内閣常務副総理。湖北省黄安県の人。南昌暴動に参加し、日中戦争国共内戦を通じて累進。毛沢東の重遇により、彭徳懐の失脚に伴い国防長官に就任。『毛主席語録』の編纂により文化大革命の端緒を作り、劉少奇の後継者に擬せられるも、林彪事件により横死。

*9:与兵衛。納屋十人衆の一人。

*10:義政の同朋衆として活躍するも、応仁の乱で内通を疑われ堺へ移住。義尚将軍就任に伴い再出仕するも、死没に伴い隠棲。

*11:室町8代将軍。左大臣。父義教、母日野重子。旧名:義成。細川勝元畠山持国らに擁立され将軍就任。後嗣問題により応仁の乱を誘発、政治への情熱を失い東山に隠棲し、世間の混乱をよそに東山文化を花開かせた。

*12:南宗寺大黒庵主。父武田信久、母中坊氏。三条西実隆に師事し、連歌師として擡頭。村田珠光流の茶の湯を大成させ侘び茶の精神を完成させ、千利休・津田宗及・今井宗久らの後進を育てた。

*13:堺舳松町で医師として活躍。唐物の目利きに秀で、台子の茶・書院の茶と呼ばれる絢爛な茶道をものにした。

*14:大徳寺住持。大林宗套に師事。

*15:兼員。豊臣秀吉御咄衆。大蔵卿法印。旧名:久秀。武野紹鷗に師事し茶人として台頭。堺町衆の和平派の中心として織田信長に接近。天下三宗匠の一人として活躍。織田・豊臣両政権で重きを成した。

*16:宗達。武野紹鷗・大林宗套に師事し茶人として台頭。堺町衆の和平派の中心として織田信長に接近。天下三宗匠の一人として活躍。織田・豊臣両政権で重きを成した。

*17:近江の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。弟信行ら一族衆との抗争に勝利し、尾張を統一。桶狭間の合戦で今川義元を返り討ちにし、美濃進出。美濃統一後、前将軍の弟義昭を奉じて上洛し、室町幕府の主権者となる。その後、将軍義昭を放逐し、安土に織田政権を経営。二度に亘る信長包囲網を撃破し、天下布武の目前に迫るも、本能寺の変にて横死。

*18:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母朝日姫、養父竹阿弥→近衛前久。信長に寵愛され、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いを経て、信長後継の座を確立し、豊臣政権を樹立、天下統一に成功した。側近の秀長・千利休を失ってからは耄碌が目立つようになり、朝鮮出兵や秀次事件などで政権の求心力を動揺させ、幼き秀頼の将来を憂いつつ病死。

*19:大徳寺住持。父朝倉宗滴。江隠宗顕に師事し、大徳寺の住持となる。千利休との親交から、秀吉に重用されるも、石田三成との対立から博多配流。利休の後援により復権なるも、大徳寺山門事件に連座し失脚。

*20:佐伯真魚真言宗開祖。大僧都。父田公、母阿刀大足女。諡号弘法大師遣唐使に同行し入唐、青龍寺の恵果に師事し密教大法を伝授。帰国後嵯峨天皇の寵遇を得て、高野山や東寺を賜り真言宗を開闢した。能書家としても著名で三筆の一人に数えられる。代表作:「風信帖」(書)他。

*21:第52代天皇。諱は神野。父桓武帝、母藤原乙牟漏。空海最澄らの唐から帰国した文化人らを保護し、唐風文化を花開かせた。内政では弘仁格式の制定や公営田・勅旨田の設置などが有名。詩文家・能書家としても著名で三筆の一人に数えられる。代表作:「光定戒牒」(書)他

*22:但馬権守。従五位下。父入居。遣唐使から帰国するも病の為逼塞。承和の変連座し配流の途上に客死。能書家としても著名で三筆の一人に数えられる。代表作:「伊都内親王願文」(書)他。