脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

Hungry Spiderと吉原の堕胎と金ヶ崎の退き口について

http://alfalfalfa.com/archives/1409032.html
個人的に「アニメ及び歴史上の人物の年齢は実際の8掛け」理論を提唱しています。例えば、アナゴさん27歳は現実の35歳手前。そう考えると意外と違和感なくなりますよ。


 会議の司会役を任せられたのですが、予想以上のグデグデぶりに自己嫌悪。いつかしっかり仕切れるようになりたいなあ。

運命は水のようにひとりで動きはじめる

Hungry Spider

Hungry Spider - 脱積読宣言

Hungry Spider
唄:槇原敬之*1、作詞曲・編曲:槇原敬之
日本テレビ系ドラマ『ラビリンス』主題歌。
初出:『Hungry Spider』(1999.6.2)
収録音源:『Hungry Spider』、『Cicada』、『Song Book“since 1997〜2001”』、『槇原敬之box 1997-1999』、『Completely Recorded』、『Noriyuki Makihara 20th Anniversary Best LOVE』
歌詞はこちら

 槇原敬之の22ndシングル。この曲がでたすぐ後に覚醒剤使用で逮捕されたので、ああやっぱりやってたかと子供心にも納得してしまうような病んだ歌詞が魅力の一曲です。好きな曲なんですが、他の槇原楽曲とは一線を画す難易度で、何度かカラオケで玉砕した記憶があります。
 さて、文化論的に歌詞を分析すると、通常日本では悪女の隠喩である蜘蛛を、スパイダーマンに代表される闘士・ハンターの象徴として扱う西洋風の捉え方をしているのが興味深いところかと。これを槇原氏のホモセクシャル的嗜好の無意識の露出と捉えるのは牽強付会に過ぎるでしょうか。

Hungry Spider

Hungry Spider

吉原+江戸+堕胎

最強○×計画pt2 - 脱積読宣言

吉原
 江戸の傾城街。1617.3日本橋葺屋町東の葭原の開発許可を受け、市中に散在していた遊女屋を集めて作られ、'18.11開業した。これが元吉原で、廓内は五町から成っていた。「あづま物語」('42)によれば、遊女数はすでに987人もあったという。江戸の発展によって周辺が市街の中心となったため、明暦の大火('57)後に浅草寺裏の千束村に移転、これを新吉原とよんだ。当初は高級遊女である太夫も多く、上方に対抗して意気と張りを誇ったが、市中での岡場所の盛行に押され、取締りによる淫売女が遊女の大半を占めるようになったことから、岡場所との差異も少なくなり、十八世紀中頃には太夫は一人もいなくなった。『守貞漫稿』によれば、嘉永元 (1848)年の遊女数は5111人。(『岩波日本史辞典』より引用)

江戸
 現在の東京都中心部の旧名。江戸時代、将軍徳川氏の城下町で幕府政治の中心地。中世までは武蔵国豊島郡、荏原郡下総国葛飾郡の一部。12世紀初めに武蔵平氏の一支流、秩父四郎重継*2がこの地に居館を営み、子の重長*3が地名を取り江戸の氏を名乗ったのが、江戸の語の初見である。1457扇谷上杉定正*4の家臣太田道灌*5江戸城を築城、上杉氏、後北条氏の統治を経て1590徳川家康*6が入城。その後寛永期にかけて大規模な埋立て、堀の開削、街道の整備、町割により城下町として整備された。1657大火により約6割が灰燼に帰するが、新たな町割りに基づき都市域は更に膨張した。将軍直参の旗本・御家人、また参勤交代により参府する大名の居住地として武家地が約6割を占め、町人地・寺社地が約2割ずつとなっている。支配系統はそれぞれ大目付・目付、町奉行寺社奉行と異なっていた。人口は武家が60-80万、町人が40-50万、宗教者などを含めて総計100万人を越える、世界的にも最大規模の都市であった。上方・伊勢などの商人が多く進出したが、特に膨大な下層貧民の流入と滞留が江戸の特質である。前期には経済的・文化的に上方都市に従属していたが、中期以降、江戸地廻り経済が発達し、化政文化の開花に象徴されるように文化的にも独自性が強まった。1868.7東京と改称、'69明治国家の首都となる。(『岩波日本史辞典』より引用)

堕胎
 胎児を自然の分娩期に先立って人為的に母体外に排出させること。こおろし。(『広辞苑 第五版』より引用)

 ピルは愚かコンドームすら夢のまた夢だった江戸時代において、堕胎は結構な死活問題。貧村などでは養育キャパを越えた妊娠に際して、自己流の堕胎*7による死者が後を絶ってません。
 一方、需要さえあれば、どんな突飛な職業でも存在しうるのが、都市の利点。江戸時代の都市部、特に吉原に代表される花街では中条流と呼ばれる堕胎専門医が存在し、川柳に歌われるほどに人口に膾炙していました。そこでは、水銀などの胎児のみに致命傷を与える各種成分を配合された薬が流通しており、長期的な薬害にさえ目を瞑れば、短期的な堕胎の安全性はそこそこ確保されていた模様です。抗生物質もない当時、一発で商品価値を暴落させる性病ロシアンルーレットの方がおそらく遥かに恐怖の対象だったのではないでしょうか。

図説 吉原入門

図説 吉原入門

木下藤吉郎捨て駒

永遠のために君のために - 脱積読宣言

豊臣秀吉
 天文五(1536)*8〜慶長三('98)年。豊臣秀吉政権の主権者、関白。織田信秀*9足軽木下弥右衛門*10の長男。尾張国愛知郡中村出身。幼名:日吉丸、通称:藤吉郎。
 1550家出して今川家の臣松下之綱*11に仕え、'53織田信長*12の草履取となり次第に重用される。'66墨股城築城に功を立て、'70頃武将の地位を得、羽柴姓を称する。信長の朝倉・浅井戦に活躍し、'73近江の浅井氏滅亡後その旧領を与えられ、'76長浜に築城する。'77中国平定の主将となり、播磨・備前・美作・因幡の毛利氏属城を攻略する。'82備中高松城を包囲中に本能寺の変が起こり、直ちに毛利氏と和睦して兵を返し、山崎の戦い明智光秀*13を滅亡させる。清洲会議織田信忠*14の子三法師(秀信)*15織田家家督に推し、織田(神戸)信孝*16柴田勝家*17と対立。'82従五位下近衛権少将。'83賤ヶ岳の戦いで勝家を破り、次いで信孝を滅ぼし北陸を平定し、'83従四位下参議。'84尾張国小牧・長久手に織田(北畠)信雄*18徳川家康と戦ったが、のち和睦する。'85紀伊の根来・雑賀衆を討ち、また四国の長宗我部元親*19を屈服させる。'85内大臣、次いで藤原姓を称し従一位関白となる。'85大坂城が完成。五奉行を置き公武を統轄する体制を作る。'85豊臣姓勅許。'86太政大臣。'87九州征討軍を出し薩摩島津氏を征し、'90後北条氏を滅亡させ、奥州を平定して全国を統一する。'90関白を辞して養子秀次*20に譲り、太閤となる。'87以後朝鮮・明国征服を策し'92朝鮮へ出兵(文禄の役)したが、李舜臣*21率いる朝鮮の水軍の活躍や民衆の抵抗にあい戦局は不利となり講和を図ったが不調、'97再度派兵(慶長の役)する。'98実子秀頼*22の将来を案じつつ苦悩の裡に没した。信長の事業を継承発展させ、大名の減封・転封を強行して専制権力の確立に成功。また都市豪商との提携・貨幣統一・兵農分離太閤検地・石高制などの施行によって幕藩体制の基礎を作った。その豪奢遊楽の気質が桃山芸術を開花させた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

捨駒
 将棋で、局面を有利に展開していく為、相手に取られることを承知で打つ駒。(『広辞苑 第五版』より引用)

 蜂須賀小六竹中半兵衛の調略により、美濃攻略に大きな貢献を果たし、織田家中での出世の階梯の第一段に足をかけた木下藤吉郎秀吉。続く上洛戦や京都経営でも順調に実績を積み、信長の信を得ることに成功します。
 そんな元亀元(1570)年、度重なる上洛命令を無視する朝倉氏征伐の為、越前に侵攻した織田軍。金ヶ崎まで進出したところで義弟だった近江の浅井長政の突如の変心に遭い、挟撃の危機に瀕します。妹のお市の方の機転により逸早く凶報を知った信長。逃げ足の速いのも英雄の要件とあって、あっさり退却を決断します。しかし、敵もそんな好機を見逃してくれるはずもなく、殿は決死の捨て駒たる決意が必要でした。運悪くそれに抜擢されたのが秀吉。能力と忠義に絶対の信頼が置けて、尚且つ見殺しにしても誰からも文句の出ないベストポジションに成り上がりの彼はばっちり当てはまってしまったのです。普通ならここで悲劇の英雄譚の一丁上がりと成るのですが、ここで天下の英傑を見殺しにできるほど日本史も人材過多ではありません。あっさり見殺されて置き去りにされた同盟軍の徳川家康との合流に成功し、朝倉軍に付け入る隙を与えぬまま無事虎口から生還するのでした。
 というのが、巷間伝わる秀吉の金ヶ崎の退き口の武勇伝ですが、近年の研究では、殿軍には明智光秀*23池田勝正*24も加わっていたことが判明しています。なので、フィクションで良く用いられる秀吉が自ら殿の大将を志願したというのはどうも眉唾のようです。しかし、のちの秀吉・光秀の軌跡を見る限り、この一戦が彼等が成り上がりながらも織田四天王に数えられる程重用される切欠になったのは間違いなさそうです。人間やはり本気で信用得ようと思ったら、泥をすすって死線を越えなきゃいけないんですね。

太閤立志伝IV

太閤立志伝IV

この手は汚され続けていくのかまだ夢見れるか聞かせて

 衝突ビデオ流出により新たなステージに入った尖閣諸島問題。仙谷の独断による屈辱的日中密約の発覚などまだまだ当分鎮火の気配を見せません。sengoku38氏の英断がなければ、これらの醜聞も闇に葬られていたかと思うと薄ら寒いものを感じます。Hungry Spiderの如くに虎視眈々と日本を狙う中国の食指の存在を暴露し、日本国民を吉原の如き苦界に叩き込まんとする売国奴の陰謀を堕胎させた、彼の偉業は木下藤吉郎に比肩する英雄と言ってしまっても過言ではないでしょう。
 しかし、最近の菅総理の影の薄さや、仙谷官房長官の江戸時代の悪代官のような分かり易い敵役っぷりを見るに付け、仙谷を捨て駒にしてこの難局を乗り切ろうって民主党の姑息な計算が見え隠れするのが腹立ちます。さあ小沢さん今こそ伝家の宝刀たる離党カードを抜いて下さい。今なら今だけなら多分喝采を浴びる英雄になれますよ。さあ、解散総選挙は何処のどいつに投票してくれようかなあ。

blast of wind/ひとりきりの空

blast of wind/ひとりきりの空

帰ってきた今日の一行知識

水子供養は本来墓地・地蔵は不要
最近でこそ水子こそ手厚い供養が必要と喧伝されて、霊感商法の温床となっていますが、近世以前は流産や夭折が余りに多く7歳までは「人間」として扱ってなかったので、それまでに死んだ子の為に簡易供養として行っていたのが本来の水子供養です。気持ちは分からないでもないですが、過度の罪意識は不要ではないでしょうか。自称フェミニストの皆さんももう少しここら辺突っ込んで欲しいものです。

*1:ワーズアンドミュージック所属。代表作:「どんなときも。」、「もう恋なんてしない」、「ムゲンノカナタヘ〜To infinity and beyond〜」他。

*2:父平重綱、母小野氏。秩父に本拠を構えていたが、江戸郷に移動し江戸氏の祖となった。

*3:頼朝の挙兵に際しては平家方に属し衣笠山合戦に勝利するも、のち帰順。鎌倉初期の諸豪族粛清の嵐を乗り越え江戸氏の繁栄の基礎を築いた。

*4:河越城々主。修理大夫。父持朝。家臣の太田道灌の活躍もあり長尾景春の乱で勢力を伸ばすも、本家の山内上杉氏との対立が深刻化した。

*5:資長。江戸城々主。備中守。父資清、母長尾景仲女。扇谷上杉家の家宰として享徳の乱長尾景春の乱で多大な功を挙げるも、その絶大となった権勢を憎まれ暗殺。

*6:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。織田家のち今川家の人質として不遇の少年時代を過ごし、青年期は今川家の客将とて頭角を顕す。桶狭間の戦い後に独立し、織田信長清洲同盟を結び武田氏と東海地方の覇権を争った。本能寺の変小牧・長久手の戦いを経て秀吉に臣従するも、五大老の筆頭として強大な存在感を保った。秀吉死後政権の主導権を石田三成と争い、関が原の戦いに勝利、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開闢した。将軍引退後も大御所として権勢を揮い、大坂の役で豊臣氏を滅ぼしたのち病死。

*7:雪や川に下半身を浸すとか、もっと直接的に陰部に小枝を挿入して強制的に子宮口を傷つけるetc

*8:天文六(1537)年とも

*9:末森城々主。三河守。父信定、母含笑院殿。本家たる守護代織田家の分裂に乗じ、尾張に一大勢力を築き、美濃や三河にも進出し、「尾張の虎」の異名をとった。

*10:昌吉。織田信秀足軽組頭。父吉高。名主級の豪農の家に生まれ、一時は織田信秀に仕え足軽組頭まで累進するも戦傷により帰農。

*11:遠江久野藩初代藩主。石見守。父長則。今川氏家臣飯尾連龍の寄子として活躍。今川家滅亡後は徳川家康に仕える。独立後の秀吉に旧主だった縁によって召し出され遠江久野に6000石を与えられた。

*12:尾張・美濃の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。尾張の大うつけと蔑まれる幼年時代を過ごすも、家督相続後頭角を顕し、尾張統一に成功した。上洛途上の今川義元桶狭間で討つと、美濃制圧・上洛と天下布武に邁進。二度の信長包囲網により危機に瀕するも幸運にも助けられ打開。天下統一を目前にするも、腹心惟任日向の裏切りにより本能寺の変で横死。

*13:惟任。亀山城々主。日向守。父光綱。濃姫との遠い血縁を用い、信長と足利義昭とを仲介。その功で織田信長に仕え、京都経営や山陰攻略により累進。織田四天王の筆頭として将来を嘱望された。本能寺の変により信長を弑逆し独立を図るも山崎の戦いで敗死。

*14:岐阜城々主。左近衛中将。父信長、母(生駒)吉乃。信長の嫡男として、武田征伐の総大将として活躍。後継の地位を磐石にするも、本能寺の変により横死。

*15:美濃岐阜の大名。権中納言。母徳寿院。清洲会議により織田家督を継承するも、豊臣秀吉の台頭により勢力は漸減。成人時には単なる一大名に転落していた。関が原の戦いでは西軍に属した為、高野山に配流。

*16:岐阜城々主。侍従。父織田信長、母坂氏、養父神戸具盛。豪族神戸氏の養子となり北伊勢の経営に着手。四国攻めの総大将として渡航準備中に本能寺の変に遭遇。中国大返し後の羽柴秀吉に合流し山崎の合戦に勝利。その功で織田家督に擬せられるも、清洲会議では甥の三法師を擁する秀吉に敗北。柴田勝家と組んで頽勢挽回を図るも賤ヶ岳の戦いでの敗北により頓挫、賜死。

*17:北ノ庄城々主。修理亮。父勝義。当初は織田信行を擁立し信長と対立するも、後臣従。織田家宿老として織田四天王の一角に君臨、「瓶割り柴田」の雷名を轟かした。本能寺の変織田信孝を擁立し羽柴秀吉と対立するも、賤ヶ岳の戦いで敗死。

*18:大和宇陀松山藩初代藩主。内大臣。父織田信長、母生駒吉乃、養父北畠具房。旧名:具豊→信意。伊勢の名族北畠氏を継承するも、生来の暗愚から信長には冷遇。本能寺の変後の清洲会議でも主導権を握れず、徳川家康と組んで小牧・長久手の戦いを起こすも、独断で秀吉に臣従。以後は秀吉の茶坊主として活躍。関が原の戦いでの傍観的立場を咎められ一度は改易されるも、大坂の役に際して、逸早く徳川方に参陣した為宇陀五万石を安堵された。

*19:土佐の大名。侍従。父国親、母(斉藤)祥鳳。幼年時は姫若子と揶揄される柔弱も、長じては鬼若子のちに土佐の出来人と称えられる英雄に。土佐を統一したのち、織田信長との提携で四国統一に成功するも、秀吉の四国攻めにより降服。土佐一国を安堵された。

*20:豊臣。関白。左大臣。父三好吉房、母瑞龍院日秀、養父宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉。旧名:信吉。秀吉の数少ない一門衆の一人として根来攻め・四国征討に活躍。実子のない秀吉に後継指名され関白職を継承するも、実子秀頼の誕生と共に秀吉に疎まれ賜死。

*21:이순신。李氏朝鮮水軍統制使。字は汝諧。京畿道開豊郡の人。父貞。文禄の役で亀甲船を用い日本水軍を苦しめるも讒言に遭い更迭。慶長の役復権し明水軍と共に再度奮戦したが露梁海戦で戦死。

*22:豊臣。摂津・河内・和泉の大名。右大臣。父秀吉、母淀殿。秀吉の唯一の実子として豊臣政権を継承するも関が原の戦いによりその権力基盤は崩壊。一大名として命脈を保つも大坂の役により敗死滅亡。

*23:殿に抜擢される条件は秀吉と全く同一

*24:最新参の外様が先鋒・殿などの一番危険な部署を押し付けられるのは今昔も変わらぬ定め