脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『信長の親衛隊』

痛いニュース(ノ∀`) : 【大津・いじめ自殺】 自殺前日、加害者少年らが男子生徒の自室荒らす 自殺原因か - ライブドアブログ
まあ出るわ出るわ。惨いの域を通り越してますね。ただ、せめてもの救いは、この事件以降いじめの検挙や隠蔽解除が相次いでいること。こんなことが鎮魂歌になるとも思えないけど、無駄死にじゃあなかったんだよ。


 夏が来た!運が良ければ日の高いうちに帰れる生活ってのは非常に精神衛生上よろしいですね。目指せ、サービス残業撲滅!!


SRWZⅡ再世篇進捗

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

24時間穴があくほどあなただけを見つめたい

織田信長 
 天文三(1534)〜天正十('82)年。戦国・安土桃山時代の武将。尾張守護代織田一族の清洲織田家の奉行信秀*1の長男。幼名:吉法師、通称:三郎、仮名:上総介、法名:天徳院。
 尾張国那古野城で生まれる。1546古渡城で元服。'51父信秀の死去により、18歳で家督を相続、'55清洲城に移る。'60桶狭間今川義元*2を討ち、'62徳川家康*3と同盟、'63小牧に要害を構える。'64浅井長政*4と同盟すると共に尾張をほぼ統一、'68将軍足利義昭*5を奉じて入洛。しかし、義昭と不和になり、義昭は武田・浅井・朝倉・三好・比叡山本願寺・毛利らの反信長派を引き入れて対抗、この為信長は一時危機に陥った。しかし、'71比叡山を焼打し、'73朝倉・浅井氏を滅ぼし、'76安土城を築城してここに本拠を移した。この前後'74-'80本願寺一向一揆を討ち、'75長篠の戦いから'82天目山の戦いにかけて武田氏を滅ぼし、'77以降毛利氏と戦う。'82天目山の戦いの後、備中国高松城を攻城中の羽柴(豊臣)秀吉*6援助の為出陣。'82.6京都本能寺で明智光秀*7に襲われ自殺した(本能寺の変)。信長は尾張・美濃を基盤に全国統一に乗り出し、'68堺に矢銭(軍用金)をかけたりして畿内諸都市を掌握し、楽市楽座令を出して商工業者を歓迎・掌握した。更に関所の撤廃、検地(指出)を実施し、寺院勢力との対抗上キリスト教を保護し、儒教思想を支配の理念とした。戦術としては兵農分離を進めて馬廻衆を中核とする常備軍を強化すると共に、鉄砲を組織的に利用した。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)


 村井貞勝から森成利まで、暴君信長に仕えた近習連の活躍を豊富な資料とともに紹介。といった体の新書なのですが、取り上げている方々の職掌上、血沸き肉躍る男子の本懐かくあるべしな英雄譚とは程遠い、一歩間違えれば幇間すれすれのいじましいまでの活動日誌の連続なのでカタルシスには欠けます。これを自分の人生の指針にできる様な人が出世のできるひとなんでしょう。
 とまあ、最近悪馴れしたかご主人様にキャンキャン吼えかかってばっかの身の程知らずの飼い犬の遠吠えはさておけば、普段君側の奸として十把一絡げに分かり易い悪役扱いばかりの方々にしっかりとスポットライトが当てられている名著だと思います。多少作者の文章と立論がふらつき気味なのはまあケンチャナヨで。勿論前田利家森蘭丸だのの「そっち」方面での活躍が噂される方々もしっかり自己主張してくれてますのでお好きな方はそっち方面での楽しみ方もありかと。

希望!だってあなたと言うトキメキに出会えた

 最近自分が何故左翼活動に身を投じてないのかが不思議に思えてくるほどの、ブルジョアジー及びアンシャンレジーム嫌いが板についてきた私ですが、取り敢えず「上の人」に言いたいのはただ一つ。「自分も部下から評価されているんだ」というのを忘れないでください。多分それが権力者の孤独を避けることのできるかもしれない、たった一つの冴えたやり方なはずです。

ずっと Be with you

ずっと Be with you

帰って来た今日の一行知識

国防長官も事務総長も書記長も逐語訳すると秘書
秘書ってーと「いろっぺーおねいさん」てイメージついちゃいましたけど、本来は君主の傍に侍って機密を壟断する事実上の事務方トップの役職なんですよね。なぜかちょっと油断すると単なる雑用係になっちゃいますけど。目指せ平成の十常侍

*1:尾張戦国大名三河守。父信定、母含笑院。主家との臣従関係は保ちつつ、西三河や南美濃に進出し勢力を伸張するも、晩年は今川・斎藤両氏の圧迫に苦戦した。

*2:駿河遠江三河守護。三河守。父氏親、母寿桂尼花倉の乱に勝利し家督継承。三河から織田氏を駆逐し東海道の覇王として君臨。太源雪斎の輔弼を受け、今川仮名目録を制定するなど領国統治も充実していた。甲相駿三国同盟により後顧の憂いを断ち上洛を目指すも、その途上の桶狭間の戦いで戦死。

*3:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。今川家の青年武将として頭角を顕すも、桶狭間の戦いを期に独立、信長と清洲同盟を結び今川武田両家と相対した。本能寺の変後は信長後継の座を秀吉と争うも、小牧・長久手の戦いを経て臣従。五大老の筆頭として豊臣政権でも重きを成した。秀吉死後、関ヶ原の戦い・大坂の役により対抗勢力を駆逐し、江戸幕府250年の泰平の基礎を築いた。

*4:近江の戦国大名備前守。父久政、母小野殿。旧名:賢政。観音寺騒動に乗じ六角氏より再独立。織田信長と同盟を結び、近江全域を支配するに至るも、信長の朝倉征伐の際、旧臣らの反対により断交し、信長包囲網に参加。姉川の戦いでの敗北などで頽勢に至り、小谷城の戦いで敗死滅亡。

*5:室町第15代将軍。権大納言。父足利義輝、母慶寿院、養父近衛尚通。旧名:義秋。永禄の変の際に細川義孝に擁され越前の朝倉義景を頼るも上洛は果たせず。その後、明智光秀の仲介により織田信長に迎えられ上洛し将軍就任。信長の傀儡の地位に飽き足らず独立を目指し暗躍するも敗北下野。毛利氏を頼り再度の信長包囲網を斡旋するも失敗。豊臣政権下では秀吉の御伽衆として厚遇を受けた。

*6:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母朝日姫、養父竹阿弥→近衛前久。信長に寵愛され、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いを経て、信長後継の座を確立し、豊臣政権を樹立、天下統一に成功した。側近の秀長・千利休を失ってからは耄碌が目立つようになり、朝鮮出兵や秀次事件などで政権の求心力を動揺させ、幼き秀頼の将来を憂いつつ病死。

*7:惟任。近江坂本城々主。日向守。父明智光綱、母お牧の方、養父明智光安足利義昭を紹介した縁により織田信長に仕え、織田四天王の筆頭格として京都経営や山陰攻略に活躍累進するも、本能寺の変により離反。政権奪取を目指すも山崎の戦いで敗死。