脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『北政所と淀殿~豊臣家を守ろうとした妻たち』

なんJ PRIDE : 渡辺直美を侮辱した佐々木宏がやったことwwwwwww
森の失脚も含めて完全無欠の報復ですね。無駄なプライドの老害既得権益の亡者がのさばれなくなってきていると思えばいい傾向なんでしょうか。


 二か月ぶりの飲酒で白ワインを痛飲ってのは自殺行為だった。もう若くないんだから気を付けようよ俺。


聖剣ⅢToM進捗

  • 3周目ドラン撃破。主人公の職業:セージ

友達になったならすごく仲良くなれるかもしれない

高台院
 天文十七(1548)~寛永元(1624)年。織豊・江戸前期、豊臣秀吉*1の妻。尾張杉原定利*2の娘、浅野長勝*3の養女。初名は、ねね、のち寧子。
 1561木下藤吉郎豊臣秀吉)に嫁す。'85秀吉が関白となると従三位に叙せられ北政所と称され、'88従一位に昇叙。糟糠の妻として内助の功多かった。秀吉没後落飾して高台院と号し、京都三本木に隠棲。秀吉の後嗣豊臣秀頼*4の生母淀殿と対立。1605徳川家康*5の助力で京都東山に高台寺を建立。徳川氏から河内に一万三千石を賦与され、高台寺で晩年を送った。(『新潮日本人名辞典』より引用)

淀殿
 永禄十(1567)~元和元(1615)年。豊臣秀吉の側室。浅井長政*6の長女、母は織田信長*7の妹小谷方*8。別名:茶々、野々。
 1573父長政の死後、母の小谷方は柴田勝家と再婚。'83賤ケ岳の戦いで勝家が敗れると、妹とともに秀吉に引きとられる。のち、秀吉の寵愛をうけ側室となる。山城国淀城にいたので淀君と呼ばれる。'89鶴松*9を生んだが3歳でなくし、'93豊臣秀頼を生み権勢をにぎる。'96秀吉の命により大坂城へ入り、石田三成*10らと結ぶ。1614-'15大坂の陣では籠城して徳川勢と戦ったが落城し、秀頼とともに自刃した。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)


 みんな大好き小和田大先生の一冊。つい最近『鬼滅の日本史』で見えてる地雷に引っ掛かったばかりだったので少し構えましたが、読んでみればいつもの小和田節で実に良質な知的興奮を得られました。「淀殿がガチ揉めしてたのは松の丸殿で北政所とはむしろ仲が良かった」「武家の通例だと長男を産んだ淀殿が『正妻』扱いされるのが普通のところを、秀吉が糟糠の妻の北政所の顔を立てて無理に正妻扱いしてた」とか「大坂の役の時北政所が仲介役してないのは丁度その時家康の勘気をこうむっていたから」とか、目から鱗というか今後の安土桃山時代史理解の基礎になりそうな知見が沢山。テーマというか論調が「北政所淀殿は通例面白おかしく言われているほどは仲悪くはなかった」という抑え目というか面白エピソードを否定していくものなので、盛り上がりには欠けますが一級品の名著に間違いありません。

瞬火花が散ってた気のせいだけじゃない

 ハーレムは全男性の夢!なんですが、医療機関とかの女の園勤めが長いと、想像するだに小便ちびりそうになります。頼むからみんな仲良くしてよというのが男性陣の偽らざる本音です。


WONDER3

WONDER3


戦いの火蓋 DREAMS COME TRUE 歌ってみました♪
 

帰ってきた今日の一行知識

血天井で有名な養源院は元々浅井長政菩提寺として建てられた

そう考えると、鳥居元忠の血で彩られた床材をわざわざ移築してるって色々考えさせられますね

*1:関白。従一位。父木下弥右衛門、母大政所、養父:竹阿弥→近衛前久尾張の貧農の子として生まれるも、継父との不和から出奔。織田信長にその才を愛され累進し、織田四天王の一角に数えられた。本能寺の変山崎の戦いで復仇を果たすと、賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いを経て豊臣政権を樹立。惣無事令を発し、全国統一を果たし、唐入りを目指し文禄・慶長の役を起こすも、その壮図は挫折。豊臣政権の行く末を悲観しつつ病死。

*2:秀吉の岳父として数少ない一門衆の一角として活躍した。

*3:浅野城城主。父長詮。織田氏の弓衆として活躍し、安井城や浅野城の城主となる。養女ねねの夫秀吉の出世に伴い彼の与力となり、一門衆の長老格として重きをなした。

*4:大坂の大名。右大臣。秀吉の死後豊臣政権を後継するも関ケ原の戦いにより有名無実化。その後も大坂城にて二重公儀体制を維持するも大坂の夏の陣に敗北滅亡。

*5:徳川幕府初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。織田家後今川家の人質として成長。桶狭間の戦いを機に独立し、織田家との清州同盟を背景に東海地方に勢力を伸張。本能寺の変後秀吉と織田政権の後継を争うも小牧長久手の戦いを経て臣従。豊臣政権で五大老の筆頭として活躍。秀吉死後関ヶ原の戦いに勝利し徳川幕府を樹立。

*6:近江の戦国大名。父久政、母小野殿。旧名:賢政。野良田の戦いの活躍により家中の声望を集め、父久政を強制的に隠居させ家督継承。六角家から独立を果たし、織田家との同盟により勢力伸長を図るも、織田家の朝倉攻めを期に親朝倉の父久政一派の復権を招き同盟は破綻。信長包囲網に参加するも姉川の戦いの敗北などにより勢力は減衰し小谷城の戦いにより敗北滅亡。

*7:近江の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。家督継承後、岳父斎藤道三の後見もあり尾張統一に成功。足利義昭を擁立し上京し、天下布武を唱え織田政権を確立。二度にわたる包囲網を破り天下統一目前まで迫るも本能寺の変により横死。

*8:市。夫:浅井長政柴田勝家。父織田信秀、母土田御前。子に淀殿常高院崇源院

*9:豊臣秀吉、母淀殿。幼名:棄。老境に至った秀吉の後継者として将来を嘱望されるも夭折。

*10:近江の大名。治部少輔。父正継、母瑞岳院。秀吉の寵遇を受け、豊臣政権で累進し五奉行の一人に数えられる。太閤検地をはじめとする統一事業の中心的役割を果たした。秀吉死後豊臣政権の護持を図り徳川家康と角逐するも、関ケ原の戦いで敗死。