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そう考えると日本のアニメや漫画で取り上げられてないヒロイン属性って探す方が難しい気がする。
ジム雑感続き。事務でのトレーニングは基本ボディメカニクスの影響を極力排除して、普段使わない筋肉を無理矢理稼働させるものが主流。そらマシンでついた筋肉は役に立たないって言われるわと一人納得。冷静に考えると、運送業とか土木のおっちゃんたちにガチムチな人ってそんないないですもんね。
幼い頃よく聞いた話いまもこの胸にいつまでも
織田信長
天文三(1534)~天正十('82)年。日本の戦国時代の武将・大名。説明不要の戦国時代の天下人であり、三英雄の一人。「第六天魔王」にして「覇王」な「尾張のうつけ」である。
尾張の武将織田信秀*1の子。幼少の頃は行儀が悪かったりしたので「大うつけ」と呼ばれた。(演技だったが)。当時織田信秀は今川義元*2、斎藤道三*3と戦うも劣勢が続き、斎藤道三の娘である斎藤氏(濃姫)*4を信長の正室に迎える。その後、織田信秀が病によって病没すると、織田信友*5、織田信清*6、織田信勝*7といった尾張での抗争を経て、隣国の大大名今川義元を桶狭間の戦いで破り、義元を討ち取った。その後も戦い続け、尾張平定を成し遂げた。元今川家臣であった徳川家康*8との同盟を経て、織田信長は美濃攻略へと向かう。美濃は斎藤道三を敗死させた斎藤義龍*9やその子斎藤龍興*10が治めていた。当時の美濃は武田信玄*11などがその勢力を伸ばさんとしていたが、織田信長は7年かけて大国美濃を攻め取る。家中の不穏分子も取り払い、この時点で120万石を領する大大名となった。一方当時中央では、足利義輝*12を弑逆した三好三人衆と、三好義継*13・松永久秀*14らが抗争を続けていた。信長は足利義昭*15の依頼を受け、上洛。浅井長政*16に妹(または従妹)とされるお市の方*17に嫁がせ、その麾下に加えた(と本人はそう思っていたらしい)。道中六角義賢*18を破って南近江を取り、見事足利義昭を上洛に成功させる。しかし、信長の躍進を快く思わない三好三人衆らは、朝倉義景*19、浅井長政、六角義賢、石山本願寺らと語らって挙兵。信長は多方面に敵を抱えるようになり、後世信長包囲網と呼ばれる反信長勢力との戦いの始まりである。ことに浅井長政の離反は、信長自ら「虚実あるべし」と述べたとされるほど、信じがたい話であったという。しかし織田信長は持ち前の戦術采配を発揮し、朝倉義景・浅井長政らを打ち破っていく。しかし、戦争のうまい信長との直接対決を避け、志賀の陣で浅井朝倉は比叡山に籠城。長期の戦争で他方面の敵を不安視した信長と、朝倉景鏡*20をはじめ家中統制が不安視される朝倉義景の間で和睦が成立。機を見るに敏とされ、戦況不利とあらばなりふり構わず戦争を終らせる信長の、また1つの真骨頂であった。そしてもう1つの真骨頂といえば、その怒涛の如き殲滅性であった。桶狭間の戦いで今川義元本陣を強襲し、義元以下重臣を数多く討ち取った戦術的采配は、以後も真価を発揮していく。1572浅井長政や朝倉義景を追い詰め、'73反信長勢力が期待していた武田信玄が病没すると、いよいよ後世魔王と言われる織田信長の躍進を止められるものはいなくなった。織田信長は'73足利義昭を速攻で攻めて降伏、追放させると、'73.8朝倉義景を一気果敢に攻めてこれを滅ぼす。この時信長は自ら馬廻とともに先頭に立ち、暴風雨の夜の中大軍の朝倉勢を散々に打ち破った。同時期に羽柴秀吉*21に命じて浅井長政を攻め、これも滅ぼす。'74織田信長は伊勢長島を攻め、2万人を焼き殺した。これには降伏しようとした一揆勢が一門衆を急襲したことや、織田信興*22を自刃させたことに対する報復と言われている。'75織田信長は徳川家康と組んで長篠の戦いで武田勝頼*23を撃破。精強武田軍を数多討取り、多数の武田重臣が戦死した。武田家の資料と言われる甲陽軍鑑では「長篠で勇士100人中98人が死んだ」とまで言われるほどであった。'76天王寺において3000の兵で15000の本願勢を撃破。内政面では絢爛豪華な安土城を築き、その後も荒木村重*24、松永久秀、別所長治*25、武田勝頼といった多くの勢力を滅ぼした。'82織田信長は朝廷から太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに就任するように要請を受けた。既に織田信長の直轄勢力は日本の過半を占め、東北・九州などの遠隔地でも信長と通じ、その影響を受けた勢力を含めれば日本のほぼ全てが彼の勢力下にあった。もはや織田信長の天下は定まり、新しい時代が来ると皆が思った。織田信長へ徹底抗戦を続ける上杉景勝*26も「冥土の土産」と述べるほどであった。だが、織田信長は朝廷の要請を保留。そして、信長の返答が来ることはなかった。'82.6.2京の本能寺にて、明智光秀*27の謀叛にあい自刃。息子である織田信忠*28も自刃した。その後、織田家は勢力を縮小させたが、織田信雄*29らによって命脈を保ち、江戸時代ひいては近現代までその子孫が続いている。織田信長がやり残した新時代への体制構築は、その後豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれた。
ニコニコ動画では、織田信長を直接扱った動画いくつかと織田信長を題材とした作品(ゲーム、ドラマ、…)をもとにした動画が投稿されている。(ニコニコ大百科より修整引用)
伝説の同人誌がついに商業出版に。世に氾濫する漫画アニメゲームで織田信長というIPがどれほど濫用されているかを網羅した力作。古の学習漫画から現代のソシャゲまでその範囲は幅広く、研究資料としては必携としかいいようのない完成度。読み物としてみた場合は前世紀の漫画アニメへの登場パターンの紹介は非常に読みごたえがあって面白いんですが、ソシャゲとなると正直食傷の一語。間違いなく一読の価値はあるので是非チャレンジを。同シリーズの秀吉名鑑とか龍馬名鑑も読んでみたいなあ。
忘れないで…キミがくれた強さと勇気をいつも思い出して…
これ読むと改めて日本人は信長大好きなんだなあと。それだけ普段から既得権益のアンシャンレジームに悩まされまくってるんだと思うとそれはそれでちょっと暗鬱な気持ちに。なんにせよ閉塞感漂うこの時代令和の信長の出来が強く望まれます。高市さん期待させてもらっていいですか?
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*1:尾張末森城城主。三河守。父信定、母含笑院殿。尾張下四郡守護代の家臣清州三奉行の一人である父信定から家督を継承。主家筋の敏定と争い独自勢力を確立。外敵の松平・斎藤・今川各氏との抗争により「尾張の虎」の雷名を轟かせた。
*2:駿河・遠江守護。治部大輔。父氏親、母寿桂尼。花倉の乱に勝利し家督継承。武田氏との同盟を背景に織田・後北条両氏と抗争を繰り広げ、「海道一の弓取り」の雷名を轟かせた。甲駿相三国同盟により後顧の憂いをなくし上洛を図るも桶狭間の戦いで戦死。
*3:利政。美濃国守護代。山城守。父松波庄五郎。旧名:規秀。油商人として諸国を放浪中に土岐頼芸の殊遇を受け、長井氏のち斎藤氏を継承。頼芸を放逐し美濃国を掌握するも、息子の義龍の反逆に遭い長良川の戦いで戦死。
*5:尾張国下四郡守護代。大和守。父達広、養父敏定。旧名:広信。斯波義統を擁立し尾張下四郡を勢力下に置くも、家臣であった織田信秀・信長親子の台頭により勢力は漸減。義統を暗殺し勢力回復を図るも、安食の戦いに敗れ失脚粛清。
*6:尾張犬山城主。下野守。父信康。信秀死後犬山城の根拠に独自勢力を構えるも、信長の姉を娶り臣従。織田信賢の遺領を巡って離反するも敗北、甲斐に亡命。
*7:信成。尾張国末森城城主。武蔵守。父信秀、母土田御前。旧名:達成。別名:信行。兄信長の「うつけ」の評判から家中の人心を集め、父信秀死後末森城に独自勢力を確立するも、稲生の戦いに敗北し信長に臣従。織田信安との通謀を疑われ謀殺。
*8:徳川幕府初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母伝通院。今川義元に臣従していたが桶狭間の戦いを期に独立。織田信長との清州同盟を背景に東海道に勢力を確立。本能寺の変後はポスト織田政権の主導権を争い秀吉と角逐するも、小牧・長久手の戦いを経て臣従。豊臣政権では五大老筆頭として存在感を示し、秀吉の死後関ヶ原の戦いに勝利し徳川幕府を開闢。大坂の役により豊臣秀頼を討ち天下統一を実現した。
*9:美濃国守護代。左京大夫。父道三、母深芳野。母が土岐頼芸の側室だったため土岐氏の血脈を継ぐものと擬せられ、父道三を押籠め家督継承。その後長良川の戦いで道三を討つも、舅の復仇を掲げる織田信長との抗争に明け暮れた。
*10:美濃の戦国大名。治部大輔。父義龍、母近江局。父義龍の死により家督継承。竹中半兵衛・美濃三人衆の離反により家運は衰退、稲葉山城の戦いにより戦国大名としての斎藤家は崩壊。以降も三好三人衆や朝倉義景の客将として信長への抵抗を続けるも、刀禰坂の戦いで戦死。
*11:晴信。甲斐・信濃守護。信濃守。父信虎、母大井の方。父信虎を追放し家督継承。小笠原・諏訪・村上各氏を駆逐し信濃を、桶狭間の戦い後今川氏を滅ぼし駿河を平定。第一次信長包囲網に参加し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、信長を窮地に追い込むも陣没。
*12:室町幕府第13代将軍。左大臣。父義晴、母慶寿院。旧名:義藤。父から譲られ将軍就任するも、細川氏綱・細川晴元・三好長慶・松永久秀らの抗争に翻弄され亡命帰洛を繰り返した。諸大名を召喚し将軍権力の再興を目指す姿勢を三好三人衆らに憎まれ永禄の変で横死。
*13:河内国若江城城主。左京大夫。父十河一存、母九条稙通女、養父三好長慶。旧名:重存→義重。松永久秀に傀儡として擁立され三好氏の家督を継承。永禄の変後、三好三人衆の後援により久秀と対立。東大寺大仏殿の戦いにより再度久秀と提携し、信長の上洛に伴い共に臣従。信長包囲網に参画し離反するも若江城の戦いで敗死。
*14:大和国信貴山城城主。弾正少弼。三好家の家宰として台頭。主君の嫡子三好義興の暗殺、永禄の変、東大寺大仏殿の戦いなどを経て、三好政権の実権を掌握するも、信長の上洛に伴い臣従。第一次信長包囲網に参画するも降伏。再度叛いて第二次包囲網にも参加するも信貴山城の戦いで敗死。
*15:室町幕府第15代将軍。権大納言。父義晴、母慶寿院。旧名:義秋。興福寺に出家していたところを永禄の変後細川藤孝に擁されて還俗。帰洛を目指して朝倉氏を頼るも逼塞。明智光秀の斡旋により織田信長と提携し入京後将軍就任するも、信長と不和になり信長包囲網を企画するも頓挫し鞆に亡命。毛利氏の庇護下で鞆幕府を経営するも、豊臣政権による全国統一後秀吉に臣従。
*16:北近江の戦国大名。中納言。父久政、母小野殿。旧名:賢政。六角氏への臣従に反対する家臣団に擁立され家督継承。織田信長との同盟により六角氏を逐い近江に勢力を確立するも、織田信長の朝倉氏侵攻に反対する家臣団の抵抗に遭い同盟破棄。信長包囲網を形成し信長を追い詰めるも、姉川の戦いの敗北により勢力は後退。小谷城の戦いで敗死。
*17:柴田勝家正室。父織田信秀、母土田御前。前夫:浅井長政。子に淀殿・常高院・崇源院(浅井長政)。
*18:近江守護。左京大夫。父定頼、母呉服前。号:承禎。六角式目の制定などで南近江に強大な勢力を構え、足利義晴や義輝を後援して三好長慶と対立。観音寺騒動により勢力を後退させ浅井氏の独立を招き、三好三人衆と和睦し足利義栄を擁立するも、義昭を奉じた信長の上洛戦に抵抗し観音寺城を失陥。その後は各勢力の客将として信長と対立するも、豊臣政権では御伽衆として臣従。
*19:越前守護。左衛門督。父孝景、母高徳院。旧名:延景。朝倉宗滴の輔弼を得て幕府にも大きな影響力を持ったが、宗滴死後は足利義昭を保護しながら、織田信長に上洛の栄を譲るなど退勢が明らかに。信長包囲網にも参加するも姉川の戦いの敗北などで勢力は後退し、一乗谷城の戦いで敗死滅亡。
*20:土橋信鏡。越前亥山城城主。式部大輔。朝倉氏一門衆の筆頭として金ヶ崎の戦いや志賀の陣で活躍。織田信長の越前侵攻に際し離反し、義景の首級を手土産に臣従。所領安堵されるも越前一向一揆により戦死。
*21:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父近衛前久。本姓:豊臣。織田信長に草履取りとして仕えその才を愛され累進。美濃攻略における竹中半兵衛及び美濃三人衆の調略の成功により部将に昇進し、近江攻略での功により長浜城主となる。その後も織田四天王の一角として活躍し、本能寺の変後、柴田勝家徳川家康らと織田政権の後継を争い、豊臣政権を確立し全国統一。征明を企図して朝鮮出兵を断行するも、志半ばに病死。
*22:尾張古木江城城主。父信秀。弟として信長に寵愛され、古木江城を任され長島を牽制するも、第一次信長包囲網に勢いづいた長島一向一揆に攻められ戦死。
*23:信濃守護。大膳大夫。父信玄、母諏訪御料人。諏訪氏を継いでいたが、父信玄の死に伴い武田本家を継承。信長包囲網に参加し三河に侵攻するも長篠の戦いで大敗し、人心は離反。上杉景勝との同盟を背景に再興を図るも、織田信忠の武田政伐に抗しえず天目山の戦いで敗死滅亡。
*24:摂津有岡城城主。摂津守。父義村。号:道薫。池田氏から三好氏を経て織田信長に臣従。若江城の戦いなどで功を挙げ摂津一国を任されるも、本願寺と連携し離反、有岡城に籠城し抗戦。側近の中川清秀・高山右近らの離反により敗色が濃厚になると単身逃亡。本能寺の変後茶人として復権、利休十哲にも数えられる活躍を見せた。
*25:播磨三木城主。侍従。父安治、母浦上氏。父の代より織田氏に臣従し播磨平定の拠点を提供するも、毛利氏の調略により国人衆と共に離反。羽柴秀吉の三木の干殺しにより敗死。
*26:出羽米沢藩初代藩主。権中納言。父長尾政景、母仙桃院、養父上杉謙信。旧名:顕景。御館の乱に勝利し家督継承。早くから秀吉に臣従し、五大老の一人として会津120石を領し豊臣政権で重きをなす。秀吉死後、徳川家康の専横に対抗し挙兵するも敗北、米沢30万石に移封となった。
*27:近江坂本城主。日向守。父明智光綱、母お牧の方、養父明智光安。本姓:惟任。遠縁の濃姫を介して足利義昭を織田信長に斡旋し幕下に入る。京都経営や比叡山焼討などの功により累進し、織田四天王の筆頭格にまで上り詰める。本能寺の変で主君信長を弑逆し天下簒奪を謀るも、山崎の戦いで敗死。
*28:美濃岐阜城城主。左近衛中将。父信長、母久庵慶珠。父信長より織田家の家督を継承し、武田征伐を成功させるなどし将来を嘱望されるも、本能寺の変で横死。
*29:大和宇陀松山藩初代藩主。内大臣。父織田信長、母生駒吉乃、養父北畠具房。旧名:具豊→信意。織田家の伊勢支配策の一環として北畠家の家督を継承。本能寺の変後、徳川家康に擁立され、羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いを展開するも、無断講和により秀吉に臣従。天下統一完了後改易されるも、相伴衆として命脈を繋ぎ、関ヶ原の戦いや大坂の役で家康に誼を通じ、大和宇陀松山5万石を安堵された。