脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦争の日本史15〜秀吉の天下統一戦争』

痛いニュース(ノ∀`) : マツダ「CX−5」試乗会で事故 ブレーキ自動制御機能の体験中−フェンス衝突、2人が重軽傷 - ライブドアブログ
科学の発展の為には失敗と犠牲はつきもの。ただあんま派手にやらかして既得権益の亡者どものいい攻撃材料にはならないでね。


 色々あって私も遂に家での寝酒を覚えてしまいました。とは言え、これが生焼酎と大吟醸とかウィスキーのロックとかならさまにもなるんでしょうが、今私の手元にあるのはかなり薄めのマリブミルク。まだまだハードボイルドには遠そうです。

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)

蹴破れ!!その扉

豊臣秀吉
 天文六(1527)〜慶長三('98)年。織豊政権期の武将。関白・太政大臣。幼名:日吉丸。初名木下藤吉郎、次いで羽柴秀吉と名乗る。父は尾張愛知郡中村の百姓弥右衛門*1。母大政所*2(なか・天瑞院)。
 遠江松下之綱*3、のち織田信長*4に仕え、清須(清洲)城割普請や美濃墨俣築城などの逸話を残す。信長入洛後京都の民政にあたり、浅井氏滅亡後、1573北近江12万石に封ぜられ、長浜城を築く。この頃から羽柴筑前守を称す。'77.10信長の命に従い中国経略を担当。版図を西へ拡大するが、'82.6本能寺の変の報に接し毛利輝元*5と和睦、山崎の合戦で明智光秀*6を倒す。清洲会議織田家臣団内の主導権を得たのち'83.4柴田勝家*7賤ヶ岳の戦いに破り信長後継の地位を不動にした。'83.8大坂を本城と定めて大規模な築城を開始、'84織田信雄*8徳川家康*9と小牧・長久手に戦う。局地戦には敗れるが戦局において勝利を得、両者と和睦、全国統一の地歩を固めた。官位も'84.11従三位権大納言、'85.3正二位内大臣、'85.7従一位関白となる。さらに'86.12太政大臣への就任を機に豊臣姓を名乗る。'87九州平定、'90関東平定・奥羽仕置によって国内統一を終え、この間全国規模で太閤検地を実施、石高制を基本とした知行体系や年貢徴収体制を確立し、また刀狩令などによって兵農分離を推進した。'92「征明」を意図して大陸侵攻を開始(文禄の役)、自らも関白を辞して太閤を称し、渡海を前提に一時肥前名護屋城に陣す。'96明使と引見したが講和不成立。慶長の役を起こすが、伏見城に没した。(『岩波日本史辞典』より引用)

 美濃攻めから九戸政実の乱までの秀吉の戦いを描く一冊。当シリーズの幹事役の小和田哲男が自身の得意分野で全力投球してるんだから面白くならない訳がございません。信長旗下での三木の干殺し・鳥取の渇え殺し・備中高松城の水攻め、織田政権後継争いの山崎の戦い賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い、天下統一戦争の紀州攻め・四国攻め・九州征伐・小田原の役とどこをとっても大満足な奇跡の一冊。学問としての歴史を娯楽作として語れるってのは小和田氏の天賦の才と言えるでしょう。勿論学術書としての緻密さ慎重さも失ってないのだから感涙ものです。この一冊に出会うために、自分は国史の道を選んだと言っても過言ではないと思います。

逃げるのも勇気戦うも勇気じっと座ってねぇで

 秀長を喪い耄碌する前の秀吉の戦いぶりを見ていて感じるのは、徹底した「負ける戦いはしない」という姿勢。いつだって位勝ちを狙えるまでじっと雌伏の時を耐えるその姿には感じされられるものがあります。人間くすぶるとついつい一発逆転の博奕に手を出してしまいがちですが、彼を見習って「逃げる勇気」を持ってもいいのかもしれませんね。無駄にあがいて死んじまったら元も子もありませんしね。

黄金魂

黄金魂

帰ってきた今日の一行知識

豊臣政権初期に大坂遷都計画があった
小牧・長久手の戦いの勃発で立ち消えになった模様ですが、もし実現していたら、大阪の旦さん方もちぃとはお上品になってくれはってたんどすやろか。

*1:織田家足軽だったが戦傷により帰農。

*2:竹阿弥夫人。従一位。前夫:木下弥右衛門。子に豊臣秀吉・日秀、豊臣秀長・朝日姫。

*3:久野藩初代藩主。石見守。父長則。今川家のち徳川家家臣として、頭陀城を支配。高天神城の戦いで落城後に、旧主だった縁で秀吉に仕官。遠江久野に1万6000石を構えた。

*4:近江の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。弟信行ら一族との内訌を制し尾張統一、桶狭間の戦い今川義元を撃破し雄飛を開始。斎藤氏を滅ぼし美濃を制圧し、足利義昭を擁して上洛、織田政権を経営。二度に亘る包囲網を各個撃破し天下統一の覇業へ踏み出すも、本能寺の変により横死。

*5:長州藩初代藩主。中納言。父隆元、母尾崎局。祖父元就死後に家督を継承。両川の輔弼により山陽・山陰10ヵ国を経営。本能寺の変後、逸早く秀吉に帰順し、五大老の一人として豊臣政権で活躍。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に担ぎ上げられ、徳川政権では防長2ヵ国に逼塞した。

*6:惟任。近江坂本城主。日向守。父明智光綱、母お牧の方、養父明智光安足利義昭を紹介した縁で織田家に仕官。京都経営や比叡山焼討などに功あり、織田四天王の筆頭格として累進。本能寺の変によりクーデターに成功するも、山崎の戦いに敗れ三日天下に終わった。

*7:越前北ノ庄城々主。修理亮。父勝義。信行家老として当初は信長と対立するものち臣従。織田政権下で織田四天王の一角として数々の武勲を挙げ、「瓶割り柴田」の雷名を轟かせた。本能寺の変後、清洲会議で信孝の後見人となるも賤ヶ岳の戦いで敗死。

*8:宇陀松山藩初代藩主。内大臣。父織田信長、母生駒吉乃、養父北畠具房。旧名:具豊→信意→信勝。生来の暗愚を父信長に疎まれ逼塞。本能寺の変後、清洲会議で吉法師の後見人となり、一時は徳川家康と組んで秀吉と角逐するも、小牧・長久手の戦いでの単独和睦を機に勢力は漸減。転封拒否による改易後、秀吉の相伴衆を経て、徳川政権でも宇陀松山に5万石を経営した。

*9:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。桶狭間の戦いを機に今川家より独立。織田信長との清州同盟を背景に今川義元亡き後の東海道に一大勢力を築く。本能寺の変後、羽柴秀吉と織田政権の後継を争うも、小牧・長久手の戦いにより臣従。豊臣政権では五大老の筆頭として重きを成す。秀吉死後、関ヶ原の戦いで三成を破り徳川幕府を開闢。その後、大坂の役で豊臣氏を滅ぼし江戸250年の太平の基礎を築いた。