脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『平和の失速〈1〉~大正時代とシベリア出兵』

維新「大阪万博は震災復興につながる」「能登半島地震の復旧復興を優先すべきではない、中止や延期はしない」全国で資材不足・人手不足が起きる中で反論:ハムスター速報
工事費高騰がまぢヤバいことになってるんで頼むからもう諦めて(泣)


 員数合わせに某準大手企業の名目だけの外部幹事になったので役員会に出席。業績報告指くわえて聞きながら、金持ってるとこは持ってんだなあと羨ましくなりました、まる。

誰の為何の為チカラ求めて彷徨う

大正時代
 大正元(1912)~大正十五(1926)年。大正天皇*1の在位した期間を指している。
 日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は日本史で一番短い時代区分である。
 大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄*2犬養毅*3らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は1918米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院議席を有する原敬*4(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、'21大塚駅員だった中岡艮一*5により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥*6市川房枝*7らの婦人参政権運動も活発だった。
 '25加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造*8民本主義美濃部達吉*9天皇機関説などが現れた。
 '21.11.25皇太子裕仁*10親王大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。明治時代を見直す機運から明治天皇*11昭憲皇太后*12を祀る明治神宮が'20.11.1創建された。'23加藤友三郎*13首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。放火デマや鮮人差別意識で自警団が結成及び組織されて関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。後藤新平*14による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、山本権兵衛*15元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。
 日本も連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎*16外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界して、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。
 国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツやオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国ソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して治安維持法が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。共産主義思想は日本のインテリ層に影響を与え、大正期の知識人は、改造・革新・革命・維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。
 文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた[10]。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、電話交換手や女子事務員など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や横浜、大阪や神戸などでは大企業や外資系企業に勤める大学卒で高収入なホワイトカラーが登場し、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した。大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。(wikipediaより修整引用)

 

 児島襄の近代史シリーズ今回は大正時代篇。第一巻たる本巻は明治大帝崩御から袁世凱の大総統就任まで。主に大正政変のドタバタを扱っています。桂が元老も議会も天皇すらも舐め腐った鉄面皮だったり、西園寺が全く腰の座らない無責任なお公家様だったりはまあ平常運転って感じですが、憲政の神様とまで謳われた尾崎行雄が現実路線から目を背けて批判の為の批判に終始する小物に描かれてるのが実に新鮮。一方で、原敬は西園寺が事実上投げ出して尾崎は好き勝手暴れまわる悪夢の政友会の屋台骨として関係各所との調整に奔走する苦労人として描かれていて好感度が赤丸急上昇。今後の活躍が楽しみです。という訳で、地味に取り上げられることの少ない大正期の日本近代史の入門書にどうぞ。

闇の中で疼く衝動響く鼓動

 学校では日本近代史をろくすっぽ教えないという風潮に憤慨。政争好きの人間としたら近世の野蛮さを残しつつも徐々に現代民主制に適応していく感のある桂園時代~三角大福あたりの3/4世紀の首相交代劇の有様には胸がときめいてしまいます。どうせ国際情勢だ上層部への忖度だのでバイアスかけなきゃならない時代なんだから、いっそエンタメに特化して戦国時代風の権力闘争物語として紹介しちゃえばもっと興味持ってくれる子も増えると思うんですけどねえ。


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*1:第123代天皇。諱は嘉仁。父明治天皇、母柳原愛子。幼少時から病弱で精薄の噂を立てられるほどの心身は不安定であった。即位後は恢復し公務に精励し、第一次世界大戦の勝利などで列強国入りし、大正デモクラシー大正ロマンを花開かせた。

*2:第2次大隈内閣司法大臣。正三位勲一等。父行正。号:咢堂。福沢諭吉に認められ『新潟新聞』の主筆となるなど反政府系言論人として頭角を顕す。立憲改進党の立ち上げに参画し政界参入、進歩党・憲政党憲政本党・政友会などを渡り歩き、大同団結運動や大正政変を主導するなど政界の風雲児として活躍するも、その狷介な性格を憎まれ孤立、政界での影響力は限定的だった。一方で衆議院議員を歴代最長の63年連続で務めるなど「憲政の神様」と称えられた。

*3:第29代内閣総理大臣。正二位勲一等。父犬飼源左衛門。号:木堂。 大隈重信の側近として活躍し進歩党・憲政本党の創設に参加。大正政変を尾崎行雄と共に主導し「憲政の神様」と称えられるも党勢は衰退し分裂、小政党革新倶楽部の頭首として憲政の常道下で存在感を放つ。護憲三派内閣で立憲政友会に合流し、田中義一急死後党首就任。満州事変により第二次若槻内閣が崩壊すると総理に就任。金輸出再禁止や対中穏健方針で事態の収拾を図るも五・一五事件にて横死。

*4:第19代内閣総理大臣。正二位大勲位。父直治、母リツ。陸奥宗光井上馨に重用され伊藤博文の政友会設立の実務を取り仕切る。西園寺の後継として政友会総裁に就任すると大隈・寺内両内閣で野党党首として存在感を示す。米騒動後の混乱収拾の為首相就任し日本初の本格政党内閣を組閣。戦後恐慌や宮中某重大事件、普選運動の高まりなどの政治課題を平民宰相としての人気で乗り切るも、財閥優遇の政策や普選運動反対の態度などを憎まれ、暗殺。

*5:荘河県公処弘報主任。父精。安田善次郎暗殺事件などに感化され原敬暗殺事件を起こし無期懲役となるも恩赦。出獄後は陸軍司令部に勤務し満州にてムスリムに回収。戦後帰国し天寿を全うした。

*6:明。父定二郎、母(飯島)光沢。夫に奥村博史。塩原事件にてその悪名を轟かし、青鞜社の設立により女権拡張運動に先鞭をつける。戦後は反戦平和運動に注力。代表作:『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』(伝記)他。

*7:参議院議員。父藤九郎、母たつ。新婦人協会の設立に参画するなどして婦人参政権の実現に尽力。翼賛体制への協力を咎められ戦後公職追放。追放解除後参議院議員に当選。選挙浄化運動などに注力した。

*8:父年蔵、母こう。旧名:作蔵。代表作:『古い政治の新しい観方』、『現代政治講話』、『日本無産政党論』(著作)他。

*9:東京帝国大学法科大学第14代学長。勲一等旭日大綬章。 比較法制史の学者として頭角を顕し、天皇機関説によりその学名を確固たるものとし、東京帝国大学法科大学や貴族院議員に就任。国体明徴運動の流行により天皇機関説事件に発展し議員辞職。戦後、枢密顧問官として新憲法作成に関与するも、国体の変更を伴うとして日本国憲法には反対した。代表作: 『憲法講話』、『日本憲法の基本主義』、『日本憲法の基本主義』(著作)他。

*10:昭和天皇。第124代天皇。父大正天皇、母貞明皇后。父の病弱により早くから摂政宮として活躍。即位後はイギリス流の「君臨すれども統治せず」の政体を志向するも、軍部の暴走により敗戦を招いた。戦後は象徴天皇として国家統合の中心に立ち、戦後復興と高度経済成長をもたらしジャパンアズナンバーワンの繁栄を現出した。

*11:第122代天皇。諱:睦仁。父孝明天皇、母中山慶子。暗殺説すら囁かれる父孝明天皇の急死に伴い即位。維新の三傑や伊藤山県らの元勲たちの輔弼を受け、大日本帝国を列強に伍する大国へと導いた。

*12:美子。明治天皇皇后。父一条忠香、母(新畑)民子。旧名:勝子。

*13:第21代内閣総理大臣。子爵。海軍元帥。父七郎兵衛。参謀長として日本海海戦の勝利に貢献し累進し、海軍大臣となり、八八艦隊の推進やワシントン海軍条約締結などの功を挙げる。高橋内閣瓦解後、憲政会への政権交代を嫌った政友会により擁立され首相就任。軍縮や普選導入などを志向するも志半ばに病死。

*14:寺内内閣内務大臣。伯爵。父実崇、母利恵。安場保和に女婿として重用され、医師として累進するも相馬事件に連座し失脚。その後、児玉源太郎に抜擢され台湾経営で頭角を顕し、満鉄総裁・鉄道員総裁・逓信外務内務各大臣などを歴任。関東大震災に当たっては帝都復興院総裁として震災復興計画の立案実行に辣腕を揮った。

*15:第16・22代内閣総理大臣。伯爵。海軍大将。父盛珉。旧名:盛武。勝海舟に師事し海軍軍人として累進。 海軍軍令部の独立などの功を挙げ、日露戦争では海軍大臣として勝利に貢献。大正政変により総理大臣に就任。軍部大臣現役武官制の廃止などに取り組むもシーメンス事件により退陣。急死した加藤友三郎の後を同じ海軍閥として再度総理に就任するも、組閣中に関東大震災に遭い困難な内閣運営を余儀なくされ、普選運動実現などを志向するも虎ノ門事件により志半ばに退陣。

*16:第44代内閣総理大臣。男爵。父新治郎、母静ヅ。外交官として累進し、ワシントン会議全権を務めるなど活躍した。憲政会内閣の下で外務大臣を歴任し、幣原外交と呼ばれる国際協調外交を展開するも、憲政の常道崩壊後は軍部に睨まれ逼塞。戦後、総選挙実施までの暫定内閣として首相就任。新英米派としてのパイプを活かしGHQとの協調路線を確定させた。退陣後も日本進歩党の総裁から民主党を経て民自党の設立に関与するなど一定の影響力を保った。