脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

迎賓館赤坂離宮

痛いニュース(ノ∀`) : 警察官の「着られるカメラ」試験導入へ 職務質問などチェック - ライブドアブログ
これはお互いにとっていいこと。ついでに取り調べの全録画と捜査資料への映像の採用とデジタル化も進めてくださいましな。


 なんだかとっても長かった気のする8月もようやく終了。夏休み気分も今日までで、来月からは本気出す!のはいいんですけど、溜まりにたまったこの仕事の山どうしよう。

 
 

あの頃の小さな僕が見上げる空はほんとうに広かった

迎賓館赤坂離宮
 東京都港区にある日本の迎賓館。赤坂迎賓館とも呼ばれる。
 東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、1909東宮御所として建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア=コンドル*1の弟子にあたる宮廷建築家片山東*2の設計により、元紀州藩の屋敷跡*3に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇*4がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
 '24大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇*5と良子女王(後の香淳皇后*6との婚儀が成ると、その後の数年間、赤坂離宮裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用された。裕仁親王天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になったが、'35.4・'40.6訪日した満州国皇帝溥儀*7の宿舎となった。太平洋戦争終戦時には高松宮宣仁親王*8昭和天皇に、宮城焼け跡の御文庫を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。
 第二次世界大戦後、赤坂御用地の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館('48-'61)、法務庁法制意見長官('48-'60)、裁判官弾劾裁判所('48-'70)、内閣憲法調査会('56-'60)、東京オリンピック組織委員会('61-'65)などに使用された。
 その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、また'55~国公賓宿舎として使用していた東京都港区芝白金台の白金迎賓館*9は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、'62当時の池田勇人*10首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。これを受けて、池田及び池田の後継として'64首相に就任した佐藤栄作*11の2代の政権下で政府部内で検討を重ねた結果、『旧赤坂離宮を改修し、これを外国賓客に対する迎賓施設に供する』ことが、'67決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾*12、和風別館は谷口吉郎*13の設計協力により、田中角栄*14政権当時の'74.3現在の迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、'74.11現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド=フォード*15だった。'79.6.28-29第5回先進国首脳会議(東京サミット)の会場となる。サミット開催に当たっては反対運動が繰り広げられ、'79.6.8未明には迎賓館正門にめがけて無人の小型トラックが突進、手前の街路樹に衝突して炎上するテロ事件も発生した(中核派が犯行声明)。
 2006-'08大規模な改修工事が行われた。工事が終了した'09.12.8旧東宮御所迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定。明治以降の文化財としては初の国宝となった。'11三日だけ一般公開。'15菅義偉*16官房長官は、観光立国の実現に向け、迎賓館赤坂離宮を視察。来年から一般公開を大幅に拡充することを発表する。'16.4~通年で一般公開、'16.12ライトアップが行われた。来館者は2016年度で約76万5000人、2017年度で約58万3000人。 (wikipediaより修整引用)


 7年ぶりの再訪。当時と大きく変わっているのは、セキュリティの強化と外国人観光客の多さ。そういや2016年はまだ観光バブルが京都でとどまってた頃かとしみじみ。前回に比べて客層が若い&ホストが観光客慣れしてるの相乗効果で、道中は全くストレスなく観覧できました。感想はというと、まあ恥ずかしげもなくこんな西洋コンプレックス丸出しの建物建てて運用してんなあと。ところどころに混じる武者のレリーフとか西陣織との和洋折衷にすらなってない中途半端な自我というか独自性が逆に恥ずかしい限り。それを除けば、流石に圧巻の技術力で西洋の宮殿を完コピしてるんでそれには素直に感心。という訳で、こんなところに外国人観光客誘致するのはいかがなものかとは思いますが、そんな雑事を頭の片隅から排除すれば、日本有数のハレの空間の清浄な空気を一般庶民でも満喫できるなかなかのスポットだと思いました。

好きな人をこの手で守れると思っていた本気で

 日本が後進国だった頃に精一杯背伸びをして作られた建物。完成間もなく列強の仲間入りをしてそれ以降は一時の没落こそあれ基本世界のトップ集団と伴走し続けた我らが日本。しかしながらこのコロナ禍でついにトップ集団からは脱落の兆しが。そう考えると、この迎賓館赤坂離宮もようやく身の丈に合った建物に戻ったのかもしれませんね。


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*1:Josiah Conder。勲三等瑞宝章。代表作:岩崎久弥茅町本邸・島津家袖ヶ崎邸・旧諸戸清六邸(設計)他。

*2:工手学校造家学科教務主理。正三位勲一等。京都国立博物館東京国立博物館 表慶館新宿御苑御休所

*3:明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮皇居が置かれていた。

*4:第123代天皇。父明治天皇、母柳原愛子。生来の病弱により明治大帝のような指導力は発揮できなかったが、その治世では大正デモクラシーと大正浪漫が花開いた。

*5:第124代天皇。父大正天皇、母貞明皇后。父大正天皇の病弱により早くから摂政となり、そのまま天皇即位。イギリス流の立憲君主を志向するも軍部の暴走を掣肘出来ぬまま敗戦を招く。戦後は人間宣言を行い、象徴天皇として国民統合の柱石となった。

*6:昭和天皇后。父久邇宮邦彦王、母(島津)俔子。子に東久邇成子、祐子内親王、鷹司和子、池田厚子今上天皇常陸宮正仁親王島津貴子

*7:宣統帝清朝第12代皇帝。諱は溥儀。父醇親王載澧、母福晋幼蘭。西太后の末期の指名により皇帝に即位するも、辛亥革命により清朝最後の皇帝となる。北京政変以後は紫禁城を逐われ日本の保護下に入り、関東軍に擁立され満洲国執政となった。その後皇帝に即位し康徳帝となるも日本の敗戦により満洲帝国は瓦解、中共に引き渡され戦犯として後半生を過ごした。

*8:日本赤十字社総裁。大勲位功四級。海軍大佐。父大正天皇、母貞明皇后。ノブレスオブリージュの一環として海軍士官となり、戦前は主戦派として名を馳せたが、開戦後は陸軍閥の東条首相への反発から早期終戦派に転じ積極的に活動するも、その軽薄な態度を天皇に憎まれ逼塞。

*9:朝香宮邸、現・東京都庭園美術館

*10:第58-60代内閣総理大臣。正二位大勲位。父吾一郎、母うめ。大蔵官僚として頭角を顕し、戦後吉田茂の後援で政界進出。吉田学校の双璧として経済政策に辣腕を揮う。60年安保で退陣した岸の後を襲って首相就任し、所得倍増計画を掲げ高度経済成長を現出、第一次東京五輪を花道に勇退

*11:第61-63代内閣総理大臣従一位大勲位。父秀助、母茂世。戦前は鉄道官僚として活躍し戦後吉田学校の双璧として政界進出。池田からの禅譲により首相就任後は外交に注力し日韓基本条約締結・沖縄返還などを成し遂げノーベル平和賞に輝いた。

*12:代表作:世界平和記念聖堂・髙島屋東京店増築・宇部市渡辺翁記念会館(設計)他。

*13:従三位勲一等瑞宝章。父吉次郎。代表作:東京工業大学創立70周年記念講堂・東京国立博物館東洋館・東京国立近代美術館(設計)他。

*14:第64-65代内閣総理大臣。陸軍上等兵。父角次、母フメ。佐藤栄作に寵愛され当時最年少で自民党幹事長を勤めるなど累進。角福戦争に勝利し首相就任。日中共同宣言などの功を挙げるも、オイルショックなどにより肝心の日本列島改造計画は頓挫し金脈問題により下野。その後ロッキード事件の発覚により表舞台からは失脚するも、三角大福及び次代の中曽根内閣まで闇将軍として君臨し続けた。

*15:Gerald Rudolph Ford Jr.。アメリカ合衆国第38代大統領。海軍少佐。父レズリー=リンチ=キング、母ドロシー=エア=ガードナー、養父ジェラルド=フォード。公民権法制定などで頭角を顕し、ニクソンの副大統領に抜擢。ウォーターゲート事件により大統領に昇格すると、極東外交などに注力するも人気は挙がらず、カーターに政権を奪われた。

*16:日韓議員連盟会長。衆議院議員(菅G)。第99代内閣総理大臣。父和三郎。 小此木彦三郎秘書を経て横浜市会議員となり影の市長と呼ばれるほどの実力者となる。国政進出後は各派閥を転々とし逼塞。麻生太郎の協力を取り付けるなどで安倍晋三の総裁再登板の立役者となり、歴代最長となる官房長官として第二次安倍政権を支えた。安倍の病気退陣の後を襲うも、コロナ禍の混迷により政権運営は難航し人心は離反。任期満了後の総裁選挙に立候補することもできずに退陣。