脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『天皇Ⅳ〜太平洋戦争』

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 「夢だった雪化粧の金閣寺が見れた!」 雪化粧した京都の美しさ - ライブドアブログ
京都の最高の姿は雪景色にこそあると思います。つーか、身体の芯から凍てつくような地獄の寒さに耐えるだけの価値は十分にあるんではないでしょうか。


 記事訂正。先日の青椒肉絲事件に関しまして家人より疑義照会があり、再度調査を行った(ゴミ箱をあさった)結果、「ホイコーロー」と書かれた包み紙が発見されました。ここに訂正し、風評被害を与えた関係各位に心からの謝罪を申し上げます。つーか、疲れてんのかなあ、オレ。


競馬進捗・・・H29収支-1700

  • 知立特別・・・本命ワントゥワン+680

雨に打たれながらそれでも前に進む

昭和天皇
 明治三十四(1901)〜昭和六十四('89)年。
 1926-'89在位。皇太子明宮嘉仁親王大正天皇*1と皇太子妃節子(貞明皇后*2の第1皇子。
 明治天皇*3から裕仁命名され、廸宮の称号を賜った。川村純義*4家に養育され、1914学習院初等科を卒業し、東郷平八郎*5を総裁とする東宮御学問所で白鳥庫吉*6・服部広太郎*7杉浦重剛*8など一流の学者、教育者を教師として、'21まで学んだ。'15立太子の礼、'17皇太子妃に久邇宮良子*9が内定、'19成年式が行われた。大正天皇の病状の悪化とともに、裕仁親王に対する期待は大きく、'21皇太子として最初のヨーロッパ訪問(特に英皇室との親善)が実現。久邇宮家の色盲問題で婚約の変更を求める運動もあったが、この出発前に内定通りという決定がなされた(宮中某重大事件)。帰国後摂政に就任し、'24結婚。この間'23台湾行幸、'23末アナキスト*10による狙撃事件もあったが、元老西園寺公望*11牧野伸顕*12内大臣、一木喜徳郎*13宮内大臣らリベラルなグループによる補佐を受け、政務を執った。
 '26大正天皇の死去とともに践祚元号が昭和と改められた。'27大正天皇の大葬、そして'28京都で御大典が挙行された。この前後、天皇の心労は陸軍の行動で、'29張作霖爆殺事件に関しての田中義一*14首相に対する叱責はその現れであった。その後も軍部に対する疑念は大きく、ロンドン条約満州事変における天皇の行動もその延長線上にあった。「現状打破」をめざす「革新派」は、天皇側近を「君側の奸」として攻撃し、'36二・二六事件が起きた。このとき信頼する側近を多く殺害された天皇は激怒して、その鎮圧を強く要望した。'37に始まる日中戦争についても、また'41の日米開戦についても、強く躊躇の態度を表明したが、正規の手続きによって裁可を求められたものは最終的には裁可を与えた。'45.8ポツダム宣言受諾か否かをめぐり内閣、統帥部が分裂し、態度決定ができなかったとき、はっきり受諾の意思を表明、最終決定に決定的な役割を果たした。
 占領下天皇大権は連合国軍総司令官の下に置かれ、'45.9.27天皇マッカーサー*15を訪問、その際の、背の高いマッカーサーの脇に並んだ小柄の天皇の写真は国民にショックを与えた。しかしこのときマッカーサー天皇の態度に感銘を受けたといわれる。'46.1いわゆる「人間宣言」を発した天皇は全国各地を巡幸し、再建に働く国民を激励し、また熱烈な歓迎を受けた。'47日本国憲法で「国民統合の象徴」と位置づけられ、以後その役割を忠実に果たした。皇后と共に'71にはヨーロッパを、'75にはアメリカを訪問。'87以来入退院を繰り返し、'89十二指腸乳頭周囲腫瘍で崩ず。'90大葬が行われた。相撲観戦を好み、また若いときから生物学を学び『相模湾産ヒドロ虫類』など8冊の著書がある。(『朝日日本歴史人物事典』より引用)


 ノモンハン事件終戦交渉から中野正剛自殺まで、ついに勃発した先の大戦を描く一冊。前巻からのツンボ桟敷モードはついに行き着くとこまで行きついて、ことある毎の不快感を表明されながらも、誰にも一顧だにされない昭和天皇の姿は哀れを極めます。多少の潤色はあるにしても一々言ってることは正鵠を射ているのがまた無情。こんな状態で戦争責任なんて言われても、そりゃあ首肯できんわと正直。そんな主人公の憂鬱を無視すれば、桐工作三国同盟真珠湾攻撃ガダルカナル島の戦いミッドウェー海戦にアッツ玉砕キスカ奇跡の撤退とビッグイベントが盛りだくさん。先人が残してくれた一大叙事詩を堪能いたしましょう。

逃げていては越えられぬ城壁がある

 戦前の日本昭和史を見ていてつくづく思うのは、日本人はトップダウン形式の意思決定方式は向いてねーなーということ。主権者が断固たる意志を持っても中間層が聞かなけりゃなんの意味もございません。とは言え、衆愚政治ゆとり教育が大好きな日本にボトムアップの意思統一なんてのは望むべくもなく。となれば、残されるのは中間管理職の奮闘。デフレに負けずがんばれお父さん。

帰ってきた今日の一行知識

真珠湾攻撃における民間人の犠牲者の殆どはアメリカ軍によるもの
高射砲での迎撃の誤爆というか外した弾薬の破片が市街地に降り注いだことによるものとのこと。市民のまきぞえ被害だけ考えれば、無抵抗主義もあながち間違ってないのかもしれませんね。

*1:第123代天皇。諱は嘉仁。父明治天皇、母柳原愛子。明治大帝の後を襲い即位するも生来の精薄と病弱により先帝の様な指導力は発揮できなかったが、その治世下では大正デモクラシーが花開いた。

*2:大正天皇妃。父九条道孝、母(野間)幾子。子に昭和天皇秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王三笠宮崇仁親王

*3:第122代天皇。諱は睦仁。父孝明天皇、母中山慶子。父孝明天皇の急死に伴い、薩長に擁立され即位。明治維新を断行し文明開化富国強兵を実現し、日清日露の両役に勝利し、日本を列強へと導いた。

*4:第2・4代海軍卿。海軍大将。伯爵。戊辰戦争で頭角を顕し、維新後海軍畑で累進。退役後枢密顧問官となり、のちの昭和天皇の養育係としても活躍した。

*5:第8代軍令部長。侯爵。海軍元帥。父実友、母(堀)益子。薩摩藩士として薩英戦争・戊辰戦争に参加。海軍で累進し、日露戦争では連合艦隊司令長としてバルチック艦隊日本海海戦で破り、アドミラル・トーゴーの名を世界に轟かせた。

*6:東洋文庫初代理事長。東京帝国大学教授。従三位勲三等瑞宝章。父嘉一郎。本名:白鳥倉吉。代表作:「邪馬台国について」、「倭女王卑弥呼考」、「『尚書』の高等批評 特に堯舜禹に就いて」(論文)他

*7:生物学御研究所初代主任。東京帝国大学講師。父親臣。代表作:『那須産変形菌類図説』(編)他。

*8:東亜同文書院院長。勲二等旭日重光章。父重文、母八重。政教社を設立し、『日本人』を創刊するなど国粋主義を鼓吹。東宮御学問所御用掛として昭和天皇三兄弟に倫理を教授した。

*9:香淳皇后。父邦彦王、母(島津)俔子。子に東久邇成子、祐子内親王、鷹司和子、池田厚子今上天皇常陸宮正仁親王島津貴子

*10:難波大助。父作之進、母ロク。アナーキズムに傾倒し、甘粕事件や亀戸事件に義憤を滾らせ虎ノ門事件を起こし、逮捕死刑。

*11:第12・14代内閣総理大臣。公爵。父徳大寺公純、母(千世浦)斐子、養父西園寺師季。木戸孝允伊藤博文に寵愛され要職を歴任。伊藤の後を襲い立憲政友会総裁に就任。桂太郎と交互に政権を担当し、桂園時代を現出。首相桂冠後は元老に就任、山県松方の死後は「最後の元老」としてキングメーカーとして君臨するも、晩年は軍部の暴走に抗えず逼塞。

*12:第1次山本内閣外務大臣。伯爵。父大久保利通、母満寿子、養父牧野吉之丞。旧名:是利。外務官僚として活躍後、伊藤博文の知遇を得て政界進出。文相外相などを歴任し、パリ講和会議では全権を務める。その後、内大臣として西園寺公望と共に首相奏薦にかかわるも軍部の攻撃を受け失脚。

*13:第2次大隈内閣内務大臣。男爵。父岡田良一郎。旧名:丘平。内務官僚・法学者として活躍。政治家としても、文相内相枢密院議長などの要職を歴任。

*14:第26代内閣総理大臣。男爵。陸軍大将。父信祐、母みよ。山県に次ぐ陸軍長州閥の領袖として累進。軍部との融和を目指す立憲政友会に総裁として迎えられ政界進出。浜口内閣の後を襲い首相就任し、対支政策綱領発表や第三次山東出兵など大陸強硬路線を繰り広げるも、満州某重大事件で昭和天皇の不興を買い失脚憤死。

*15:Douglas MacArthur。連合国最高司令官。陸軍元帥。父アーサー・マッカーサー・ジュニア、母メアリー・ピンクニー・ハーディ。ウェストポイント士官学校空前絶後の好成績で卒業後、陸軍で累進、フィリピンに「マッカーサー王国」とも揶揄される一大勢力を築くも大東亜戦争にて崩壊。戦後、GHQ長官として日本占領政策に辣腕を揮い、一時は大統領候補にも擬せられるも、朝鮮戦争にて中国との全面戦争を誘発しかねない戦争遂行方針をトルーマンに憎まれ失脚。