脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『高松宮日記 第二巻』

【拡散希望】立憲民主党と共産党、日本人のコロナワクチン接種をガチで妨害していた…妨害がそのままだった場合、現在もワクチン接種できない状況でした:ハムスター速報
昨日今日始まったこっちゃありませんが、ホントこいつらは日本の敵だ。


 無能な味方程の害悪はないと改めて。仕事しろとは言わんからせめて邪魔だけはしてくれるな

泣き出した空流れるその雲伝う涙がまた邪魔をする

高松宮宣仁親王
 明治三十八(1905)~昭和六十二('87)年。昭和天皇*1の弟。東京都生まれ。大正天皇*2の3男で、幼少時の称号は光宮。海軍兵学校、海軍大卒。
 8歳の時に高松宮家を創設、同時に断絶していた有栖川宮家の祭祀を継承した。1930"最後の将軍"徳川慶喜*3の孫喜久子*4(1911.12.26~2004.12.18。東京都生まれ。藤楓協会、日仏協会総裁)と結婚。戦争中は大本営海軍参謀などを務めたが、冷静に戦局の行方を見つめ、近衛文麿*5らの和平工作を側面から支援、兄昭和天皇にも進言した。終戦後はGHQの幹部や欧米のマスコミと積極的に会い、皇族代表として発言。その後、ハンセン病患者の救済に当たる藤楓会総裁など福祉活動に励む一方、スキーやスクエアダンスの普及にも尽力。「皇室は国民に守られてきた」が持論で、警備に気をつかう警察にあまり好意を抱かず、本人は護衛なしで自ら車を運転して、外出することも多かった。(『現代朝日人名事典』より引用)


 第二巻は巡洋艦高雄の分隊長時代の昭和八(1933)年正月元旦から軍令部出仕中の昭和十二('37)年九月まで。序盤のお気楽ご気楽な分隊長時代から海軍大学校および「昭和維新」を経て軍令部に出仕した頃には使命感に燃える立派な皇族へと成長していくさまが見て取れて実に感慨深いものがあります。特に二・二六事件や北支事変に対する憂慮はかなり深刻で、よくぞあいつら面の皮厚く尊王家を名乗れてたなと慨嘆しきり。森友学園の資料改竄問題でもそう思いましたがやっぱ勝手な忖度ってクソですね。

あの日の僕らが夢に観てたそのステージがその景色が今目の前に広がる

 人の遺した日記って覗き見るの楽しいですね。書いた本人はたまったもんじゃないでしょうけど。そう考えると人に読まれる前提で書くblogってのはいい日記システムなのかもしれない。


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帰ってきた今日の一行知識

戦前は芸者を囲って隠し子作ってた皇族がゴロゴロいた

原本では実名で書かれてたと思しき箇所が本巻では伏字になってます。中央公論社も検閲抜きで刊行すればよかったもんを

*1:第124代天皇。諱は裕仁。父大正天皇、母貞明皇后。父大正天皇の病弱により早くから摂政となり、そのまま天皇即位。イギリス流の立憲君主を志向するも軍部の暴走を掣肘出来ぬまま敗戦を招く。戦後は人間宣言を行い、象徴天皇として国民統合の柱石となった。

*2:第123代天皇。諱は嘉仁。父明治天皇、母柳原愛子。生来の病弱により明治大帝のような指導力は発揮できなかったが、その治世では大正デモクラシーと大正浪漫が花開いた。

*3:徳川幕府第15代将軍。公爵。父水戸斉昭、母吉子女王、養父一橋昌丸→徳川家茂。権現様の再来と将来を嘱望され、将軍継嗣問題では次代将軍に擬されるも、井伊直弼大老就任により頓挫。桜田門外の変により復権し、政治総裁職として文久の改革を推進し、家茂の陣没に伴い将軍就任。日引き続き改革を推進するも時流は覆せず大政奉還を実施し江戸幕府の歴史に幕を下ろした

*4:宣仁親王妃。勲一等宝冠章。父徳川慶久、母(有栖川宮)実枝子。

*5:第34・38・39代内閣総理大臣。公爵。父篤麿、母(前田)衍子。旧五摂家筆頭の出自から国民的人気を得て、革新貴族として活躍。林内閣崩壊後首相就任するも日中戦争の拡大を制御することができず総辞職。下野後は新体制運動に尽力し、米内内閣崩壊後に陸軍に擁立され再登板。松岡外交の後援や国家総動員体制の準備などにより開戦への道を開くも、日米交渉不調の責任をとり下野。戦後再々登板を図るも戦犯指名に絶望し自死