脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

日本の奇習悪習とアルメニアと宮中祭祀について

イスラエル滞在中だった日本人DJの緊迫したツイート:ハムスター速報
これって多分、欧米の関心と戦力を中東に向けるためにハマスが捨て石にされたってことですよね。となると、次に想定されるのは中国の台湾侵攻・・・。ああ、第三次世界大戦って本当にもう始まってたんですね。


 一気に秋めいてというか普通に寒くなってきたので衣替えを敢行。しかし、毎回思うのですが、どうしてしばらく来てなかった服って縮むんですかね。不思議。

Մեր Հայրենիք, ազատ անկախ, Որ ապրել է դարեդար

奇習+悪習+日本

奇習
 珍しく、風変わりな習慣・風習。(『広辞苑 第五版』より修整引用)

悪習
 わるいならわし。悪習慣。(『広辞苑 第五版』より修整引用)

日本
 我が国の国号。神武天皇*1建国の地とする大和を国号とし、「やまと」「おほやまと」といい、古く中国では「倭」と呼んだ。中国と修好した大化改新頃、当方すなわち日の本の意から「日本」と書いて「やまと」とよみ、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった。(中略)
 日本の現在の領土は、アジア大陸の東方、日本海をへだててほぼ南北につらなる日本列島(北海道・本州・四国・九州および付属島嶼)および伊豆諸島・小笠原諸島・南西諸島から成る。四世紀に統一国家が成立し、それ以後、大和・奈良・平安各時代を経て、鎌倉幕府の創立となり、政権は公家を離れて武家に移り、室町幕府に引き継がれる。ついで織田・豊臣(安土桃山)政権が生れ、さらに江戸幕府二六五年を経て明治維新により武家政権が終り、やがて立憲君主国となる。明治の日清・日露、大正の第一次大戦により台湾・樺太を領有、朝鮮を併合、南洋群島を統治して全領土は約六七万平方㌖に達したが、太平洋戦争に敗れ明治以降の新領土のすべてを喪失、ほぼ江戸末期の原形に復した。面積三七万七千平方㌖。人口一億二千五百万(1997)*2。(『広辞苑 第五版』より引用)


 最近YouTubeでちょくちょく見かける「おじろく・おばさ」や「おっとい嫁じょ」なんかの古の風習から、ちょっと前に大炎上した「上げ馬神事」のような伝統まで、日本には奇習悪習が色々ありますが、個人的に現代に残る一番の奇習悪習はサービス残業だと心から思います。単位時間当たりの生産性ってビジネスで一番大事な要素の発展を阻害する最低最悪の慣習。日本人は一刻も早く奴隷の鎖自慢を止めましょう。

アルメニア

アルメニア共和国
 ユーラシア大陸南コーカサスにある内陸国。面積は約2万9800k㎡、人口は約296.8万人、公用語アルメニア語。首都はエレバン
 西アジアアルメニア高原に位置し、西はトルコ、北はジョージア、東はアゼルバイジャンと事実上の独立国であるアルツァフ共和国、南はイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンと国境を接する。古代の文化遺産を持つ、複数政党制・民主主義の国民国家である。同国は発展途上国であり、人間開発指数(2018)では81位にランクされている。経済は、主に工業生産と鉱業に基づいている。ユーラシア経済連合、欧州評議会、集団安全保障条約機構に加盟している。
 301キリスト教を民族(アルメニア人)および国家(当時はアルメニア王国)として最初に受容し、アルメニア使徒教会は現代に至るまで存続している。アルメニア文字は405メスロプ=マシュトツ*3によって作成された。
 1991ソビエト連邦の解散に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。その傍ら、ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立しており、幾度となく紛争が発生している。'91独立を宣言したアルメニア人が多数派を占める事実上の独立国アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)を支持している。しかし、2020ナゴルノ・カラバフ紛争では事実上敗北し、支配下に置いていたナゴルノ・カラバフの大部分をアゼルバイジャンに返還することとなっている。'23.9.19トルコ、イスラエルからの支援を得たアゼルバイジャンからの軍事反攻を受けてナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人は全面降伏。アルメニアはアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)をわずか3日で失った。 (wikipediaより修整引用)


 白人の故地にして最古のキリスト教国家。ともう少し知名度やら権威やらがあってもよさそうなのにナゴルノ・カラバフ周りのゴタゴタでしか語られないかわいそうな国家。今回取り上げるのを機に自分も多少その歴史を調べてみましたので、備忘録代わりに。
 まずは紀元前。大アルメニア帝国と呼ばれる巨大な国家が存在しましたが、立地がローマ帝国ササン朝ペルシアに挟まれていたせいで、緩衝地として両国の動向に大きく影響される不安定な体制となりました。西暦301年にはそのローマ帝国に先駆けてキリスト教を国教とし、史上初のキリスト教国家が誕生します。しかし、5世紀には東ローマ帝国ササン朝に分割併合され国家としての命脈は途絶えます。その後は勃興してきたイスラム帝国支配下となり一時バグラトゥニ朝アルメニアとして独立しますが、以降はセルジューク朝トルコ・モンゴル帝国ティムール朝オスマン帝国サファヴィー朝ペルシア・ロマノフ朝ロシア・ソビエト連邦などの中央アジアの強国の草刈り場となり、アルメニア人は国家を持たぬ民族として不遇をかこちます。そんな彼らに再び独立の機会が巡ってきたのはソ連崩壊。CISの一員としてソ連のくびきを離れ「アルメニア」として独立国家の樹立に成功します。独立後もアルメニア人虐殺問題によりトルコと、ナゴルノ・カラバフ問題でアゼルバイジャンと、緊張状態が続くなど苦難の国家運営を余儀なくされています。しかも宇露戦争で「ケツ持ち」のロシアの影響力が大きく低減した所為で、アルツァフ共和国をあっさり失陥するなど不穏な情勢。ハマスイスラエル侵攻で一気にきな臭くなってきた中東でかの国は無事命脈を保ち続けることはできるのでしょうか。

孝明天皇+禁秘抄

孝明天皇
 天保二(1831)~慶応二('66)年。在位:弘化三('46)~慶応二('66)年。仁孝天皇*4の第4皇子、母は正親町実光*5の娘新待賢門院雅子*6。諱:統仁。
 1846皇位につき、海防論のたかまるおり、天皇は勅書をもって海防をきびしくすべきことを幕府に示し、終始攘夷を熱望した。これは今まで朝幕間に前例のないことであり、権力の弱まりを補う意味で幕府も天皇の意志を利用しようとした。しかし幕府が日米修好通商条約に調印するや、天皇はそれに反対し2度も譲位の意志を表明したが、止められる。天皇安藤信正*7らの公武合体策にそって皇妹和宮(静寛院宮)*8の降嫁に同意し、尊攘派を刺激した。'62-'63急激にたかまった尊攘派によって、文久三年五月十日を攘夷決行の日と定め、'63.8大和行幸、伊勢参拝が発表された。しかし、八月十八日の政変尊攘派の志士や公卿が京都を追放され、公武合体派が主導権を握った。天皇の〈去十八日以後申出儀者、真実之朕存意〉(『続再夢紀事』)というところにその立場が示されている。'66.12疱瘡を病み急死したが、京都では毒殺の噂が流れ、その病状からも疑いが濃厚といわれる。攘夷主義者であったが、倒幕論者とはなれなかった天皇の死はただちに岩倉具視*9らの討幕派公卿の勢力を復活させた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より修整引用)

禁秘抄
 順徳天皇*10が著した有識書。順徳院御抄・建暦御記・禁中抄とも。
 1221頃成立。天皇が知っていなければならない故実作法を中心に内裏の様々なことが漢文で詳述されている。(『岩波日本史辞典』より引用)


 有職故実の教科書ともいうべき禁秘抄。光格天皇から続く古儀復興による朝廷権威拡充路線に連なる孝明天皇が読んでなかったとは考えにくいですが、私の知る限りでは特にエピソードなんかは残ってません。承久の変で父後鳥羽上皇共々幕府の暴力に屈した順徳天皇の遺した禁秘抄に込められた遺志を継いで孝明天皇が倒幕を果たした・・・なんてなってると実に美しかったんですが・・・。

Յուր որդիքը արդ կանչում են Ազատ, անկախ Հայաստան։

 承久の変で配流客死した禁秘抄の順徳天皇に、倒幕目前に暗殺された孝明天皇、そして宇露戦争のとばっちりで国を喪ったナゴルノ・カラバフアルメニア人たち。大願成就を目前に志半ばに斃れる人たちは後を絶ちません。いくら悪習だ奇習だと非難されようとも、それを弔うための鎮魂の物語を語り継ぐことが日本文化の神髄だと私は信じます。願わくは台湾侵攻に関するそれは紡がなくて済みますことを。


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*1:初代天皇。和名は神日本磐余彦尊。父鵜葺草葺不合命、母玉依姫。高千穂宮より大和の征服を目指し東征を開始。諸豪族の抵抗に遭いながらも、八咫烏の導きなどにより平定に成功。橿原宮にて即位し、日本国を開闢した。

*2:2022現在1億2491万3000人。

*3:Մեսրոպ Մաշտոց。アルメニア人へのキリスト教伝道アルメニア文字を創作し、アルメニア教会により列聖された。

*4:第120代天皇。諱は恵仁。父光格天皇、母勧修寺婧子。父光格天皇の遺志を引き継ぎ朝儀復興に尽力。

*5:権大納言。正二位。父公明、母家女房。正親町家当主として要職を歴任。

*6:仁孝天皇典侍。父正親町実光、母四辻千栄子。子に鎔宮・孝明天皇桂宮節仁親王・恭宮。

*7:重信流安藤家磐城平藩第5代藩主。侍従。父信由、母松平信明女。旧名:信睦・信行。老中として桜田門外の変の事態収拾に功あり、久世広周と共に幕府の実権を握り、公武合体政策を推進するも坂下門外の変で失脚。

*8:親子内親王徳川家茂御台所。父仁孝天皇、母橋本経子。

*9:第2代外務卿。正一位大勲位。父堀河康親、養父岩倉具慶鷹司政通の寵遇を得て累進。公武合体派の筆頭として和宮降嫁を主導するも、尊攘派の弾劾を受け失脚蟄居。その間大久保利通らと通謀し王政復古の大号令を実現。新政府ではその功から要職を歴任し、明治六年・明治十四年の両政変で暗躍した。

*10:第84代天皇。諱は守成。父後鳥羽天皇、母修明門院。和歌管弦に耽溺し政治に関与することはなかったが、承久の変に連座佐渡に配流客死。