脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『後白河法皇』

【悲報】京都市さん、とんでもない場所にホームレス救護施設を作ってしまう:哲学ニュースnwk
ああ実に京都だ。といいつつも、高速道路直下の変形地挙句に事実上の飛び地なんて利用価値ほとんどないでしょうからねえ。


 今日の業務は親族一同に相続放棄された可哀想なお金持ちのお方のお家のお片付け。事情を知る人によると元々真面目で仕事一本やりだった人が不動産売買で持ちつけぬ大金手にして狂っちゃったとのこと。その言葉に違わず遺品はどれも高価ながらも収集に一貫性や執着を感じぬ上っ面をなぞるようなものばかり。真面目な人が頑張って「遊ぼう」としたんだなあとしみじみ。道楽にも才能と小さい時からの努力が必要なんですね。


競馬成績・・・H31収支-3470

DQⅦ進捗

  • 現代ダーマ南東の旅の宿でラッキーパネル堪能中。主人公の職業:はなカワセミ「ふたばカワセミ

後白河法皇 (講談社選書メチエ)

後白河法皇 (講談社選書メチエ)

戯れせんとや生まれけん

後白河天皇
 大治二(1127)〜建久三('92)年。在位:久寿二('55)〜保元三('59)年。鳥羽天皇*1第四皇子、母は待賢門院璋子*2。諱は雅仁。
 異母弟近衛天皇*3崩御後、1155.7践祚保元の乱('56)では崇徳上皇*4方を破った。譲位後、院政を行い、一時の中絶はあるが、二条*5・六条*6・高倉*7・安徳*8後鳥羽天皇*9の五代、三十余年に及ぶ。平治の乱('59)では二条天皇の親政派などを排除。その結果、平氏全盛の時代を招いたが、長講堂領荘園群の集積にみられるように、上皇権力は安定期を迎えた。'69.6出家、法名は行真。その頃は平氏と親密な関係にあったが、'77鹿ヶ谷事件の発生した頃には平氏との対立は深まっていた。'79.11平清盛*10により院政を停止されて鳥羽殿に幽閉されるが、'81.1高倉上皇が没すると院政再開が許された。'81.閏2清盛が没すると、源義仲*11、次いで源頼朝*12の軍を官軍として平氏を討伐させた。'85平氏が滅亡すると、在京していた源義経*13を庇護し、その兄頼朝の勢力をおさえようとするが失敗。逆に頼朝の要求する守護・地頭の設置を受諾し、武家政権成立の基盤を与えた。芸能を好み、『梁塵秘抄』を撰するなど、今様の名手として知られる。また、法華信仰に熱心で、造寺造仏を盛んに行い、熊野への御幸も三四回に及んだ。(『新潮日本人名辞典』より引用)


 肺腺癌による47歳の若さで逝った鬼才棚橋光男の遺稿集。正直未単行本化の未完成の論文や習作を無理くりかき集めたといった印象で、タイトル通り後白河法皇の伝記として読もうとするとかなりの肩透かしを食います。とは言え、冒頭にある、本巻刊行の感じである高橋昌明の夭折の盟友への手向けの熱い解説だけでも読む価値があるのではないでしょうか。内容も未だ道半ばの未完成とは言え、怪人後白河帝を中心視座に据えることにより、古代から中世への移り変わりの逢魔が時を活写してやろうという意欲的な野心がひしひしと感じられ、つくづく夭折が悔やまれます。一般向けをほとんど考慮してないかなりガチ目の論文集ですが、一人の研究者の生きた証として是非堪能してみてください。

遊ぶ子供の声きけば

 四十を目前にしてつくづく思うこと、それは人って死ぬんだなあって実に当たり前の現実。ただがむしゃらに自分がどこまで届けるのか走り続けるだけでよかった今までと違って、そろそろ今までの道程のまとめに入らなきゃあいけない時期に来てるんでしょうね。

遊びをせんとや生まれけむ

遊びをせんとや生まれけむ

帰ってきた今日の一行知識

後白河帝は絵巻物制作の有力なパトロン兼プロデューサーだった
特に六道絵なんかは直接関与した可能性が高いらしいですね。今に繋がるクールジャパンの大恩人としてもっと顕彰されるべき方だと思うの。

*1:第74代天皇。諱は宗仁。父堀河帝、母藤原苡子。白河法皇の死後治天の君となり、崇徳・近衛・後白河の3代28年に亘り院政を行なった。摂関家の抑圧に成功し、その治下では寄進地系荘園が乱立した。

*2:鳥羽天皇中宮。父公実、母藤原光子。子に崇徳帝・禧子内親王・通仁親王・君仁親王・上西門院・後白河帝・覚性法親王

*3:第76代天皇。諱は躰仁。父鳥羽帝、母美福門院。鳥羽上皇の寵愛を受け即位、後継者に擬せられるも夭折。

*4:第75代天皇。諱は顕仁。父鳥羽帝、母待賢門院。父鳥羽天皇より「叔父子」と忌み嫌われ、治天の君の座から排斥。鳥羽上皇の死後、頼長らと結び保元の乱を起こすも敗北し、讃岐に配流客死。将門・道真すら従える「日本一の大怨霊」となった。

*5:第78代天皇。諱は守仁。父後白河帝、母藤原懿子。美福門院に養育され、父後白河法皇とは距離を置いた独自路線の親政を行う。平清盛を重用し、平氏政権の基盤を準備した。

*6:第79代天皇。諱は順仁。父二条帝、母伊岐致遠女。父の早逝により弱冠数え2歳で即位も後白河法皇の圧力により僅か3年弱で叔父の憲仁親王に譲位。その後元服も待たず夭折。

*7:第80代天皇。諱は憲仁。父後白河帝、母平滋子。平氏政権と後白河法皇の対立の狭間で苦難の治世を送った。

*8:第81代天皇。諱は言仁。父高倉帝、母建礼門院平氏政権に擁立されて即位するも、木曾義仲に逐われて都落ち壇ノ浦の戦いにて入水。

*9:第82代天皇。諱は尊成。父高倉帝、母七条院。兄安徳天皇都落ちにより即位。祖父後白河法皇の死後、親政のち院政を行ない、各種改革に尽力。鎌倉幕府との対決姿勢を取り続けるも承久の変の敗北により隠岐に配流客死。

*10:太政大臣従一位。父忠盛。伊勢平氏の棟梁として日宋貿易を牛耳り、西国に巨大勢力を築く。保元・平治の両乱の勝利により平氏政権を樹立し、後白河法皇と対立。治承三年の政変により法皇を失脚させるも、以仁王の令旨により反平氏の挙兵が相次ぐ中、福原遷都を置き土産に病死。

*11:木曾。征夷大将軍従四位下。父源義賢、母小枝御前、養父中原兼遠。以仁王の令旨に呼応し挙兵。倶利伽羅峠の戦いでの大勝などにより、平氏を逐って入京し、「旭将軍」の雷名を轟かすも、後白河法皇との対立や京での乱妨により人心は離反。粟津の戦いで戦死。

*12:鎌倉初代将軍。右近衛大将。父義朝、母由良御前。平治の乱での敗北により伊豆に配流。以仁王の令旨に呼応し挙兵。富士川の戦いでの勝利などにより関東に独立勢力を確立。壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼすと鎌倉幕府を開闢。奥州合戦奥州藤原氏を滅亡させると、ほぼ日本の統一に成功した。

*13:伊予守。従五位下。父源義朝、母常盤御前、養父一条長成奥州藤原氏の庇護下で成長。以仁王の令旨に呼応し、兄頼朝に合流。一ノ谷・屋島・壇ノ浦などでの劇的な勝利を演出し、平家を滅亡に追い込むも、後白河法皇への接近を憎まれ失脚。奥州藤原氏の下に亡命するも、庇護者だった秀衡の病死により居場所を失い、衣川の戦いで戦死。