脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

我ニ敵ナシと松平定信の無能と天皇の諡号の法則について

http://alfalfalfa.com/archives/5865561.html
こうやってみるとやっぱり中国ロシアは百戦錬磨の古強者だなあ。


 更新サボってた10日程で下手打つと今後の人生の瑕になりかねない、いいことと悪いことが出来。どっちも笑い話にできる位になったらまた報告します。こんな長かった10日は初めてだ。


SRWZⅡ再世篇進捗

ある日世界に危機迫り今町が燃える

如何ナ敵モ倒ス

我ニ敵ナシ - 脱積読宣言

我ニ敵ナシ
唄:水木一郎*1、作詞:さかい大*2・なかの★陽*3、作曲:鶴山尚史*4、編曲:山本健司*5
PlayStation系ゲーム『スーパーロボット大戦α』龍虎王イメージソング。
初出:『スーパーロボット大戦α オリジナルスコア3〜戦士の章〜』(2000.5.17)
収録盤:『スーパーロボット大戦α オリジナルスコア3〜戦士の章〜』、『スーパーロボット魂 オリジナル・テーマソング集(2)』、『スーパーロボット大戦 ORIGINAL GENERATION 〜15th ANNIVERSARY ソングコレクション〜』
歌詞はこちら

 「ジャーン、ジャーン、ジャーン」の銅鑼の音が印象的な龍虎王(&虎龍王)のテーマソング「我ニ敵ナシ」のBメロのワンフレーズ。魂フル改造龍王破山剣逆鱗断でラスボスすら一刀両断なご無体な無敵っぷりをそのまま表したいい歌詞だと思います。因みに実際にこれやるとフリーズするのでご注意を。
 曲全体としては当時結構珍しかった中華風熱血アニソンの嚆矢で水木アニキの力強い熱唱がよく似合います。「DRAGON」といい、「道」といい水木一郎の真骨頂は東洋風アニソンにこそあるのかもしれませんね。

スーパーロボット大戦α オリジナルスコアIII ?戦士の章?

スーパーロボット大戦α オリジナルスコアIII ?戦士の章?

松平定信+無能

甘い甘い毒 - 脱積読宣言

松平定信
 宝暦八(1758)〜文政十二(1829)年。江戸後期の老中。8代将軍徳川吉宗*6の孫。田安宗武*7の三男、陸奥白河藩主松平定邦*8の養子。江戸田安邸出身。幼名:賢丸、号:楽翁・花月翁・白河楽翁。
 1783家督を継ぎ白河藩政に当たる。当時、「天明の飢饉」により、特に奥羽はその被害が著しかったが、倹約を奨め窮民の救済に実を挙げた。'87.6老中首座となり幕政立て直しに当たり、「寛政の改革」を断行した。「寛政の改革」は田沼時代の政治を正すことにあり、財政面での緊急政策と重農政策と商業資本の抑圧政策が特色である。財政整理では支出の抑制や奢侈品の売買禁止だけでなく、風俗粛正や出版の取締を行った。また異学の禁を命じた。その他江戸の町費の余剰を積立てる七分積金の法や、物価の調査、無宿者の溜場として石川島人足寄場を作り、正業に就かせようとした。光格天皇*9の父典仁親王*10太上天皇の称号を贈ることに反対し、この尊号事件が原因で'93老中職を辞し、以後藩政に当たった。1829.5.13没。法諡は守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

無能
 能力のないこと。才能のないこと。役に立たないこと。(『広辞苑 第五版』より引用)

 清廉潔白文武兼備の完璧超人として祖父吉宗の再来とも謳われ一時は将軍職後継者にすら擬せられた稀代の傑物松平正信。戦前までは儒教道徳の体現者として、田沼時代の腐敗の悪習を掃い、寛政の改革を断行しようとするも、その聖人然とした高潔な正義感を庶人幕府要人ともに理解されず志半ばに尊号一件で失脚した不遇の英雄って扱いでしたが、儒教の洗脳の薄れた今日では、田沼意次重商主義の再評価に伴い、その見識能力ともに評価が大暴落中で、無能のレッテルを貼られることもしばしばとなっています。
 確かに、あげつらえば、時代錯誤の復古的重農主義的経済政策を筆頭に、寛政異学の禁に過度の緊縮財政、町人文化の弾圧に漸くきな臭くなり始めていた異国船対策の軽視など、数え上げるだけでも骨が折れます。しかしながら、領国の白河においては、天明の大飢饉下で一人の餓死者も出さないという奇跡を成し遂げたり、老中罷免後も殖産興業による藩財政の潤沢化に成功するなど、これぞ名君というべき事績を残しております。
 まとめますと、松平定信は江戸時代前期の重農主義のロジックの護持遂行においては不世出の天才であったが、田沼意次が道を開きかけた新時代の重商主義的政策の重要性については理解できる先進性は全く欠片も持ち合わせていなかった。で、政治手腕に関してもその偏狭な正義感が邪魔をして一切寝技が使えない、豪腕には程遠いお坊ちゃん政治家であったと言えるでしょう。間違っても無能の部類に入る人ではないのですが、中小企業の敏腕ワンマン社長がうっかり大企業のCEOに祭り上げられて大ごけかましたと思えば理解しやすいのではないでしょうか。

松平定信政権と寛政改革

松平定信政権と寛政改革

天皇諡号+法則

ヒカリ - 脱積読宣言

天皇
 律令国家の君主の称号。和訓は「スメラミコト」。大王号に替わって成立。かつては、金石文に見えることから7世紀前半成立と考えられてきたが、今日では天武天皇*11の時より始用され、飛鳥浄御原令で皇后号と共に制度化されたとする説が有力で、唐高宗*12天皇号採用との関連も指摘される。律令では皇帝・天子の君主号も規定する。明神御宇天皇の表現から、天武期以降の現人神思想を内包すると考えられる。但し、唐に対しては天皇号は称しなかったらしい。律令法では、天皇は軍事権・外交権、賜姓権・位階授与権、天神地祇祭祀権を有する中国的な専制君主と規定される。しかし、中国の皇帝は法を超越する存在であるが、天皇は多く律令に拘束され、太政官議政官に代表される貴族勢力が天皇権力を制約することがあった。皇位継承儀礼は、群臣による推戴を受ける即位式大嘗祭の祭儀とからなる。皇位の根拠は、皇位の象徴の三種の神器天照大神*13から授けられたという伝承を持つように、中国の天命思想とは異なり、高天原神話に描かれた皇祖神の子孫であることにあった。8世紀半ばより、儒教や仏教により王権を基礎付け古い在り方を脱する試みがなされ、9世紀には礼の継受により、天皇制の唐風化が貞観年間(859-'77)にピークを迎える。天皇制の安定は、一方で幼帝の誕生を見、貴族社会が成立する中で、姻戚関係を背景に、摂政・関白が天皇の権限を代行・補完することも行われ、祭祀の在り方も伊勢神宮を中心に再編成される。
 中世になって院政が行われると、天皇は院という天皇家の家長によって守られると共に、政治の実権から疎外されるようになった。幼少の天皇が即位したり、院の意思で退位されることもあった。承久の変では幕府によって仲恭天皇*14が廃され、また後堀河天皇*15が擁立されるなど、武家政権がその地位に深く関わるようになり、鎌倉末期の皇統の分裂もそれと深い関係がある。後醍醐天皇*16は倒幕によって皇統の分裂を克服しようとしたが、建武政権の瓦解により、南北朝の分裂を生むこととなり、天皇の支配権は著しく低下して、南北朝の統一を果たした足利義満*17によって、天皇の帯びる多くの権限が幕府の支配権に吸収されていった。しかし室町幕府の権力の低下によって、天皇の存在は権威を担う形で存続することになった。
 豊臣政権は後陽成天皇*18を擁立し、1588聚楽第への天皇行幸を受けて、武家を官位制的に身分編成するのに役立てた。これに対して徳川政権は、1615禁中並公家諸法度の第一条*19で、天皇に学問・和歌・有職故実の習学を命じ、'51以降は行幸も認めず、禁裏内の生活に制限し政治的に無力化させた。幕府の統制機構の下に管理された天皇だが、その中で霊元*20・桜町*21光格天皇は独自性を発揮して、大嘗祭などの朝儀再興を幕府に働きかけ、徐々に朝廷復興の機運を醸成させていった。1853ペリー来航以後の幕府権力の弱体化と尊王思想に支えられて、天皇は再び政治権力化し、'67王政復古となる。(『岩波日本史辞典』より引用)

諡号
 天皇の死後に徳を称えて贈る称号。おくりな。
 和風諡号は、文武天皇*22に奉られた倭根子豊祖父天皇のごときもので、葬送儀礼の殯宮での誄において奉られた。殯宮儀礼が整った6世紀前半の安閑天皇*23のころ成立したと考えられ、複数の諡号が伝わるなど不確定な面もあるが、9世紀初頭まで続いた。公式令に見える「天皇諡」は和風諡号と考えられ、漢字二字からなる漢風諡号は8世紀以降に作られたものである。10世紀以降は諡号は奉られず、譲位後の居所などの院号追号とした。なお皇后や皇太子の諡号の例もあり、臣下にも歴代摂関や太政大臣には忠仁公(藤原良房*24)などの諡号を贈った。(『岩波日本史辞典』より引用)

法則
1、必ず守らなければならない規範。掟。
2、いつでも、またどこででも、一定の条件の下に成立するところの普遍的・必然的関係。またそれを言い表したもの。
(『広辞苑 第五版』より引用)

  漢文で歴史書を書く際、長々しい日本名だとかっこ悪い。というのが、漢風諡号選定の原点だそうですが、現在の我々にとってはこちらこそが、天皇の名前として定着しちゃってますね。歴史的には諸説ありますが、淡海三船天平宝字六(762)〜八(64)年頃に神武〜元明・元正までの諡号を撰進したのが嚆矢だそうです。以降文徳頃まで、事績から名づけられ続けますが、宇多帝以降から住居の名を用いた院号をそのまま諡号に転用するのが一般的になりました。以降は平家滅亡〜承久の変の動乱に一時漢風諡号が復活した以外は、地名由来の諡号が続きます。事態が変わったのは江戸中期の光格帝の時代。折からの大義名分的尊王論に後押しされ、復古主義をぶち上げた彼の手により、漢風諡号が復活します。以降は皆さん知っての通り、明治帝以降は元号と同じ味も素っ気もないネーミング方式が定着してしまいました。多少面倒臭くとも、別号を考えて欲しいと思うのは私だけでしょうか。以上が概説ですが、以下諡号分類を紹介。

  • 漢風諡号・・・神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・神功(皇后)・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明・元正・聖武光仁桓武・仁明・文徳・光孝・崇徳・安徳・顕徳*25(・土御門)*26・順徳・光格・仁孝・孝明
  • 明治に入ってからの追号・・・弘文(大友皇子)・淳仁廃帝*27)・仲恭(九条廃帝)・長慶(吉野帝)
  • 生前の自称からの転用・・・孝謙・称徳(宝字称徳孝謙皇帝)(・後醍醐・後村上)*28
  • 院号在所からの命名)・・・平城・嵯峨・淳和・清和・陽成・宇多*29・朱雀・冷泉・円融・花山・一条・三条・白河・堀河・鳥羽・近衛・二条・六条・高倉・四条・亀山・伏見・光厳・光明・正親町・桜町
  • 陵地号(陵墓からの命名)・・・(柏原)*30・(深草*31・(小松)*32・(宇多)・醍醐・村上
  • 前帝号・・・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・後白河・後堀河・後嵯峨・後深草・後宇多・後伏見・後二条・後醍醐・後村上・後亀山・後光厳・後円融・後小松・称光*33・後花園・後土御門・後柏原・後奈良*34・後陽成・後水尾・明正*35・後光明・後西*36・霊元*37・後桜町・後桃園
  • 遺言によるもの・・・(白河)・(後深草)・(亀山)・(後宇多)・(後伏見)・花園・(後嵯峨)・(光厳)・(光明)・崇光・(後円融)・(後小松)・(後水尾)
  • 不明・・・(土御門)・東山・中御門・桃園
  • 元号・・・明治・大正・昭和・(平成)

名前の日本史 (文春新書)

名前の日本史 (文春新書)

勇気を出して戦えと誰かが呼ぶ

 金権腐敗の泥濘の田沼からようやっと抜け出してみたら、そこはクリーンで純粋なだけがとりえの魚も棲めぬ無能の巣窟だったってのが、自民から民主への政権交代後の素直な感想ではないでしょうか。我ら日本人は歴史に学ばず松平定信を歓呼で迎えるという愚を再び冒してしまったようです。歴史は繰り返すの法則に従えば、現在の寛政の改革の破綻の次、天皇陛下に平成の諡号の賜れる頃に来るは、はなから敗北の見えた天保の改革への挑戦と黒船来航の動乱の時代。そろそろ我ら草食系若人も「如何ナ敵モ倒ス」の気概と覚悟を背負った戦士にならねばならないのかもしれません。願わくはそれが杞憂に終わって、数十年の未来も萌えを叫べる懶惰の時代でありますことを。
 

スーパーロボット大戦α オリジナルスコアIII ?戦士の章?

スーパーロボット大戦α オリジナルスコアIII ?戦士の章?

帰ってきた今日の一行知識

「ヤマトネコ」という名前の天皇がいる
孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)・孝元天皇(大日本根子彦国牽尊)・開化天皇(稚日本根子彦大日日尊)・持統天皇(大倭根子天之広野日女尊)・文武天皇(倭根子豊祖父天皇)・元明天皇(日本根子天津御代豊国成姫天皇元正天皇(日本根子高瑞浄足姫天皇)の7人。猫の神様として祀ってみてはいかがでしょう。

*1:イエローバード所属。代表作:「マジンガーZ」、「Golden Rule〜君はまだ負けてない!〜」、「燃えよドラゴンズ! 2011」他。

*2:貴日ワタリ。代表作:『ボイスラッガー』(音楽)、「ポイズンパルス」・「I need you, needle eye」(作曲)他。

*3:代表作:「戦え!ガチャフォース」・「輝け!!スーパーヒーロー」(作詞)、『仮面ライダーフォーゼ』(絵コンテ)他。

*4:代表作:『スーパーロボット大戦OG -デイバイン・ウォーズ-』(音楽)、「鋼の方舟」(作曲)、『スーパーロボット大戦α』(サウンド/SE)他。

*5:代表作:『ドラゴンボール改』・『はりもぐハーリー』(音楽)、「俺はとことん止まらない!!」(作曲)他。

*6:徳川8代将軍。右大臣。父徳川光貞、母浄円院。兄の死により御三家を、家継の死により徳川宗家を継ぎ、享保の改革を断行し、江戸幕府中興の英主として活躍した。

*7:田安徳川家初代当主。権中納言。父徳川吉宗、母本徳院。荷田在満・賀茂真淵に師事し国学者として活躍。歌人としても著名。

*8:陸奥白河藩2代藩主。木工頭。父定賢、母烏丸光栄女。英明の誉れ高き定信を養子に迎え、早くから実権を息子に譲り隠遁した。

*9:第119代天皇。諱は兼仁。父慶光院、母大江磐代、養父後桃園帝。旧名:師仁。本家の断絶により閑院家より即位。朝廷権威の復活と儀礼復旧に尽力し、尊号一件などで幕府とも対立した。

*10:慶光院。閑院宮2代当主。大宰帥。父直仁親王、母讃岐。息子の即位により父君となるも、その待遇問題は尊号一件として朝幕対立の火種となった。

*11:第40代天皇。諱は大海人。父舒明帝、母皇極帝。壬申の乱に勝利し即位。飛鳥浄御原令八色の姓を制定し、「日本」の礎を築いた。

*12:唐3代皇帝。諱は治。父太宗、母文徳皇后長孫氏。外祖父の長孫無忌に擁立され即位。楮遂良らに輔弼され麗唐戦争に勝利し唐の最大版図を現出するも、新羅の逆襲により朝鮮半島を放棄。晩年は皇后の則天武后に朝政を壟断された。

*13:伊邪那岐イザナギが黄泉の国より戻った際の禊により誕生。高天原の統治を委ねられるもスサノオとの桎梏から天岩戸に引き篭る。オモイカネらの尽力により復帰後はスサノオを追放し、葦原中国の統治を孫のニニギに委ねた。

*14:九条廃帝。第85代天皇。諱は懐成。父順徳帝、母東一条院。父順徳天皇が倒幕計画に参加する為、僅か4才で即位するも、承久の変により廃位。

*15:第86代天皇。諱は茂仁。父後高倉院、母北白河院。承久の変により、西園寺公経に擁立され即位。

*16:第96代天皇。諱は尊治。父後宇多帝、母談天門院。天皇権威の復活を志向し親政を実施し、正中の変・元弘の変により倒幕を企てるも失敗隠岐に配流。しかし、その行動は全国の反北条氏の機運を掻き立て、遂に政権を奪取。建武の親政を行うも公家偏重の政策が武家の反感を買い、足利尊氏の反乱を招き吉野に逃亡客死。

*17:室町3代将軍。太政大臣。父義詮、母紀良子。南北朝の合一応永の乱の制圧により幕府権力の確立に成功し、勘合貿易などで経済基盤も安定し北山文化を花開かせた。晩年は明からの日本国王冊封や准三后就任により公武を越えた絶対権力の樹立を目指すも志半ばに病死。

*18:第107代天皇。諱は周仁。父陽光院、母新上東門院。旧名:和仁。関白豊臣秀吉の権威付けに利用され、豊臣政権下では権勢を復活させるも、続く徳川幕府とは激しく対立した。

*19:天子諸芸能之事、第一御学問也。不学則不明古道、而能政致太平者未之有也。貞観政要明文也。寛平遺誡、雖不窮経史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖為綺語、我国習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習学専要候事。書き下し:天子諸芸能の事、第一は御学問なり。学ばざれば則ち古道明らかならず、而も政を能くし太平を致すものは未だ之有らざるなり。貞観政要の明文なり。寛平遺誡、経史を窮めざると雖も、群書治要を誦習すべしと云々、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりと雖も、我が国の習俗なり、棄て置くべからずと云々、禁秘抄に載せる所御習学専用候事。

*20:第112代天皇。諱は識仁。父後水尾帝、母新広義門院、養父後光明帝。朝儀旧典の復興に尽力し、歌人・能書家としても著名。

*21:第115代天皇。諱は昭仁。父中御門帝、母新中和門院。大嘗祭新嘗祭を復活させるなど朝儀復興・皇威伸張に努め、幕府との軋轢を生んだ。

*22:第42代天皇。諱は軽。父草壁皇子、母元明天皇持統天皇の摂政下に即位。大宝律令の制定や官位制の設備、元号の定例化など天武天皇以来の「日本」建国事業の一応の完成を見るに至った。

*23:第27代天皇。諱は勾。父継体天皇、母尾張目子媛。大伴金村の輔弼の下、勾金橋に都し屯倉を大量に設置した。

*24:摂政。准三后。父冬嗣、母藤原美都子。嵯峨天皇に重用され累進。承和の変応天門の変により対立氏族を駆逐し、人臣初の摂政として藤原北家の覇権を確立した。

*25:後鳥羽の初号。死後天変地異が頻発した為、不吉の名だったとして改名

*26:「土佐(実際は阿波に減刑)に配流された御門」という明らかに事績からのネーミングですが、三文字が祟って、漢風諡号扱いされないことが殆どです

*27:仲恭との区別のため淡路廃帝とも

*28:後醍醐は延喜・天暦の治を理想として、生前から後醍醐と自称し、息子にも後村上を名乗らせていた

*29:陵墓からの命名との説あり

*30:桓武の別号

*31:仁明の別号

*32:光孝の別号

*33:称徳・光仁から。皇統断絶とそれによる正統への皇統奪回の意味か。天武は渡来系の非皇族説が後小松には足利義満落胤説があり、非正統と認識されていた可能性あり。

*34:奈良は平城の別号

*35:元明・元正から。女帝繋がり

*36:後西院の転。江戸以前は「〜天皇」ではなく「〜院」と呼称するのが一般的だったため「後西(院)院」→「後西天皇」へと変化。西院は淳和の別号。

*37:孝霊・孝元から。理由は不明