脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

慈眼院

りゅうちぇるさん死去 事務所で死亡している状態で発見…息子リンクくんの誕生日の翌日に自殺か:ハムスター速報
鋼のメンタルかサイコパスでもない人が、世間の常識に中指おったてる生き方を発信しちゃうとこうもなっちゃうよなあ。なんにせよ、合掌。


 心砕けるようなトラブルや失態の多い今日この頃ですが、気のおけない友人たちとの語らいでどうにかこうにか精神衛生を保ててます。人はこうやってどんどん飲みが増えてくんだろうなあ。

光が激しく降りそそぐ生きてるわけを問いかける

観音山 慈眼院
 抑々慈眼院建立の由縁を尋ぬるに、慶長五年九月、関ヶ原の戦いに於て、石田治部少輔三成公*1の居城佐和山落城に際し、番頭山田上野之助*2と嫡子隼人*3との缼別に当り、父上野之助の遺命に起因すること大なり。佐和山落城記に依れば、汝此の世なかりせば誰か我が菩提を弔ふものなし、我がなき後の一遍の念佛を手向くれるは汝一人なり。又、主人三成落方知れず、運のつきたる人なれば、如何なる害のあらんも知れず、見届けくれよ。其の上今最期の人々の佛果菩提を弔ふべし。又、時節もあらばこの恥辱をもそそぐべし。とあり。大阪*4落城後一周年の元和二年五月、幼名宇吉郎、長じて喜庵*5と改名。その喜庵により記述された佐和山落城記に明らかなり。記述に依れば、江州(彦根市佐和山城主石田治部少輔三成の臣、番頭山田上野之助、同隼人は智あり、仁あり、才あり、勇あり、三成の寵愛浅からず。同孫に宇吉郎という一子あり。慶長五年九月関ヶ原の戦い、同月十八日午刻佐和山落城。上野之助は嫡子隼人に自害を思いとまらせ、佐和山脱出を厳命し己は自刃。父の遺命により隼人は五才の宇吉郎を背負い、美濃国池田郡(岐阜県揖斐郡)の山中に落ち行き、後、巡礼の姿となり諸国を巡り、慶長十五年関東に下り周易墨占*6を業とし、宇吉郎に医術を習わせ深井の里(流山市東深井)に住す。慶長十九年、大阪冬一乱となり、隼人は大阪に馳せ参じて木村長門守重成*7の軍に加わり元和元年五月六日、夏の陣にて討死。宇吉郎は医師となり、元和二年三月、佐和山落城記を記述し、戦歿群霊の菩提を弔い後世に伝う。慈眼院建立の歳年代は未詳なるも、喜庵歿後に創建したることと推察し得る。茲に、新たに本堂再建を計画し、内部に安置せる十一面観音本尊等も修復彩色し、昭和三十五年十二月、新築落慶する。山田上野之助の遺言と言うべき遺命を無言の中に継承し、連綿と続く山田家々主は先祖の菩提を弔うべく、慈眼院を氏寺として維持し、今日に到った。昭和十年喜庵に依り記述された落城記(東京帝国大学史料編纂所 渡辺世祐博士*8により佐和山落城記と命名)、慈眼院建立の由縁は更に明らかとなる。茲に本堂再建、山門、塀の新築を記念し、慈眼院発祥の縁起を撰書して後世に伝うるものなり。(現地石碑より引用)


 色々迷走してる時は足元を見直そうってな訳で、近くの寺院探訪のコーナー。同じ東葛地区の慈眼院さんへ行ってきましたはいいんですが、言ってみたらそこは小規模の墓地の奥にちんまりと小庵兼住宅らしきものが佇むだけの完全な街中寺院。日光東往還の旧道沿いのそれは今や完全に宅地化の波に飲み込まれて、あると知ってなけりゃあ確実に見逃すレベル。同種の別院に比べれば築地塀が取っ払われてて外からでも中が見えるのがちょっと特徴的でしょうか。そんな中で一番印象に残ったのは苔むした石碑。寺院の縁起が事細かに記されててなかなか読みごたえがありました。↑に翻刻してあるので、興味のある方は是非に。

わかっているさ愛するものを自分を捨てても守るんだ

 夏本番を迎えて昼日中に出歩くのは自殺行為となってきた今日この頃。必然的に夕方散歩することになるんですが、土曜日の夕方のあの何とも言えないまったり感は最高です。その分日曜日の夕方はなんだかどよんと重苦しいんですよね。サザエさん症候群とはよく言ったもんだ。


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*1:近江の大名。父正継、母瑞岳院。秀吉の寵遇を受け、豊臣政権で累進し五奉行の一人に数えられる。太閤検地をはじめとする統一事業の中心的役割を果たした。秀吉死後豊臣政権の護持を図り徳川家康と角逐するも、関ケ原の戦いで敗死。

*2:上野介。石田正継に仕え、三成の下でも島左近らと並ぶ宿老として活躍。佐和山城の戦いで敗死。

*3:勝重。越後上田城主。隼人正。父上野介。三成の娘を娶るなど寵遇されるも、関ヶ原の戦いで主家滅亡。従弟の松平忠輝に仕官し、上田城2万石を託されるなどここでも重用されるも家康死後改易。流山にて隠棲。

*4:原文ママ。以下同じ

*5:父山田勝重、母石田三成女。父の仕えた松平忠輝の改易により医師となり、流山に隠棲。

*6:原文ママ

*7:豊臣秀頼小姓。父重茲、母宮内卿局。本姓:豊臣。秀次事件により父兄を失うも、母が秀頼の乳母だった縁で小姓として仕え、一門衆として重きを為す。大坂の役では主戦派として今福の戦いなどで勇名をとどろかせるも、八尾・若江の戦いにて戦死。

*8:明治大学文学部長。養父渡辺蒿蔵。旧姓:蔵田。代表作:『正史赤穂義士』、『稿本石田三成』、『豊太閤と其家族』(著作)他。