脱積読宣言

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『へうげもの 古田織部伝〜数寄の天下を獲った武将』

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 大量のバービー人形を使ったアートがマジキチすぎると話題に - ライブドアブログ
現代アートだけは何がいいのか全く理解できません。


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艦これ進捗

  • 北方海域キス島沖攻略中。第一艦隊旗艦:時雨改。

へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

悩ましいゆがみに手のひら這わせれば溢れる熱情が俺を貫く

古田織部
 天文十三(1544)〜元和元(1615)年。安土・桃山時代の武将・茶人。古田重定*1の子。美濃国本巣郡出身。諱:重然、通称:左介、号:印斎、法名:金甫宗室。
 織田信長*2豊臣秀吉*3に仕え、1585従五位下織部正に叙任され織部と称される。小牧の戦い・九州征討などにも功を挙げ、京都西岡に3万5000石を領す。茶道を好み、千利休*4茶の湯を学び、その高弟七哲の一人に数えられる。利休亡き後茶の湯名人として一流を成し、古織流または織部流という。2代将軍徳川秀忠*5をはじめ諸大名に茶の湯を伝授し、武家茶道を確立した。織部焼織部燈籠などにその名をとどめている。関ヶ原の戦いには徳川方に属したが、大坂の陣では豊臣方への内通の嫌疑を受け自刃を命じられた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

 桑田忠親氏の不朽の名著をへうげものブームに乗っかって再版した一冊。監修者のあとがきや帯が大層下品ですがそれを無視すれば名作復刻の立派な文化的功績。原著からなのか再版時の余計なお世話なのかは分かりませんが、文中引用の消息が全て稚拙な現代語に訳されているのが逆にかなり読みづらかったり。せめて併記に留めておいて欲しかった。
 内容的にはいつもの桑田節で数々の虚実ないまぜなエピソード群を魅力的に紹介してくれています。その分体系的な古田織部伝にはちと力不足かと。正直3分の2くらいが文通の紹介で終わってます。まあそんな訳でへうげもの古田織部に興味持った人が入門書代わりに読むのにはいいんでないでしょうか。作中のエピソードのかなりの部分がここからひかれているので元ネタ探しでにんまりできますよ。

初体験さこんな気持ちは

 アートとは既存の価値観の破壊とはよく言いますが、上述の通り前衛現代芸術だけはどうも理解できません。かれらの奔放な作風も数百年後には新しい時代に果敢に挑戦した破調の先駆者と呼ばれるようになるのでしょうか。室町時代の人からすれば利休も織部も完全意味不明のガラクタ製造機だったと思えば、自身の保守的な偏狭さが嫌になってしまいますが、どうもあれだけは全く理解ができません。以上芸術的センスに乏しい旧時代人の愚痴でした。

乙

帰って来た今日の一行知識

古田織部は大坂の役で禿頭を狙撃されている
月光によく照り映えたそうです。因みにその時は防護柵に使われていた竹材から茶杓用の材料をちょろまかそうとしていたとき。えらく物笑いの種になったそうですが、趣味人もそこまで行くと尊敬できますね。

*1:同朋衆。主膳正。茶道の達人として名を馳せた。

*2:近江の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。大うつけと呼ばれる少年時代を過ごすも、長じては対立する一族を打ち滅ぼし尾張統一。桶狭間今川義元を破り、美濃を攻略してからは天下布武に邁進。足利義昭を擁して上洛し、比叡山焼討や楽市楽座の徹底などにより中世秩序の破壊を推進。二度に亘る包囲網を各個撃破し天下統一の目前にまで至るも本能寺の変で横死。

*3:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父竹阿弥→近衛前久。信長に見出され墨俣築城や美濃衆調略・小谷城攻略などで頭角を顕し、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い清洲会議賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどを経て信長後継の座を確保。関白に就任し天下人として全国統一に成功。次いで唐入りを目指し文禄慶長の役を起こすも志半ばに病死。

*4:田中与兵衛、母月岑妙弥。法名:宗易。武野紹鷗に師事し信長・秀吉2代の茶頭として茶の湯を大成。豊臣秀長の後見により並ぶ者無き権勢を誇るも、秀長死後その増長を憎まれ大徳寺の木像設置を言いがかりに賜死。

*5:太政大臣。父家康、母西郷局。兄信康の横死により早くから家康の後継者に擬される。将軍就任後も、家康存命中は大御所政治により実権を持てなかったが、家康死後は本多正純の粛清などにより権力を確立。武家諸法度の制定やキリスト教禁教の強化により幕府の礎を強化した。