脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』

ヒロイモノ中毒 紅白歌合戦で歌われたアニメ・特撮主題歌一覧
思ったより出てるんですね。個人的には2005年の「少年よ」が一番好きです。


 あさのますみ&畑健二郎の「はじめまして」をお目当てのサークルに、上京三年目にしてコミケ初参戦を決意。今から楽しみだなー。取りあえず、軍資金確保に粗食生活の始まり始まり〜。

文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)

文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)

ダメな自分が悔しいほどわかってしまうから損だ

文禄・慶長の役
 「征明」を目的に豊臣秀吉*1が起こした大陸侵攻の戦争。朝鮮半島を戦場とし天正二十(1592)〜慶長三('98)まで講和交渉を挟んで7年間に及ぶ。朝鮮出兵と称し、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱、中国では万暦朝鮮の役と呼称。
 大陸侵攻の意思は表示は1585頃から見られるが、肥前名護屋城普請は'91から開始。この間秀吉は朝鮮に服属要求を行うが、交渉にあたった対馬の宗氏などの思惑もあって、日朝間の状況認識には大きな懸隔が生じていた。
 '92.3秀吉は16万の軍勢を9軍に編成し、朝鮮半島への渡海を命じた。'92.4.12釜山に上陸した第1軍が示した征明の先導要求を朝鮮側が最終的に拒否して戦端が開かれた(文禄の役)。日本側の攻勢によって'92.5初都である漢城が陥落。ここで秀吉は征明後の国家構想を披瀝するが、水軍が敗れ、'93.1平壌の戦いで明軍に敗北すると日本側は劣勢となり、漢城更に半島南岸へ撤退。
 その後、日明間で講和交渉が持たれるが、和議の条件は咸鏡道で捕縛された朝鮮王子の解放、日本軍の釜山への撤退、明軍の遼東への引揚げと、その上での明から日本への講和使節派遣であった。これを受けて明軍は使節と詐称した一団を日本へ送り、'93.6.28秀吉は彼らに「和議条件」7ヶ条を提示。その内容は明皇帝*2の娘を天皇妃とすること、勘合の制復活、朝鮮領土の割譲であった。一方朝鮮で小西行長*3沈惟敬*4と画策し、講和を進める為偽作の秀吉「降表」を携えた偽の降伏使節を仕立て、北京へ派遣。この結果、明から日本へ冊封使が派遣され、'96.9秀吉は大坂城で明使に引見する。しかし、明皇帝の誥勅は秀吉を「日本国王」に封じるのみで、秀吉の提示した和議案は全く無視されており、講和は破綻。'97戦闘の再開となる(慶長の役)。'97.8秀吉の死により日本側は撤兵を開始するが、'97.11まで実際の戦闘は継続した。
 なお、この戦争に随伴する文化史的意義として、連行された捕虜による陶業の発達や活字・典籍の招来などが挙げられる。(『岩波日本史辞典』より引用)


 九州征伐から己酉約条まで秀吉の大陸進出の野心の発露から実施、頓挫そして残された者たちによる後始末までを丁寧に描いた力作。何分フィクションでもガン無視喰らう程にヤバすぎる題材をよくぞここまで分析しきったと驚嘆しきりです。まあその分要所要所で免罪符の如くに「その間朝鮮人民に与えた苦痛は言うまでもない」といった類の文言が挟まれるのご愛嬌。
 本当は加藤清正立花宗茂小西行長小早川秀秋島津義弘etcの猛将たちが日本という狭い戦場を飛び出して大活躍!といった物語を楽しみたいとこなんですが、相手の朝鮮・明両軍ともに花のある名将を欠いているので、物語が盛り上がらないことこの上ありません。日朝両国ともにタブー視され物語に昇華できなかった悲劇を感じさせてくれます。
 結論:戦争やるならあとくされのない内戦が一番。

伝えたくなったよ僕が見る明日を

 戦国期の英雄譚は信長の野望が掘りつくした感があり、昨今の流行は桃山期の名将列伝に移りつつあります。そうなると問題は上述したようにその時代の武将の全盛期がほぼ文禄・慶長の役とかぶること。今後本気で桃山時代の金脈を掘る気なら朝鮮出兵の再評価と物語への昇華は急務でしょう。願わくはそれが叶うくらいには日韓関係が改善しますことを。あ、逆に、金正恩朴槿恵両首脳にもうひと頑張りしてもらって配慮不要の完全無欠の悪役になってくれるのでもいいですよ。

帰りたくなったよ

帰りたくなったよ

帰って来た今日の一行知識

唐辛子は朝鮮出兵で日本から朝鮮に伝来した
そう考えるとキムチってそこまで古い料理じゃないんですね。なんだかかの国の人のコンプレックスの原因の一端が垣間見えてしまった気がします。

*1:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父竹阿弥→近衛前久。信長に寵愛され、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いを経て、信長後継の座を確立し、豊臣政権を樹立、天下統一に成功した。側近の秀長・千利休を失ってからは耄碌が目立つようになり、朝鮮出兵や秀次事件などで政権の求心力を動揺させ、幼き秀頼の将来を憂いつつ病死。

*2:万暦帝。明朝第14代皇帝。諱は翊鈞。父隆慶帝、母貴妃李氏。張居正の輔弼により一条鞭法の導入や女真族の掣肘など善政を行うも、張居正の死後は堕落。万暦の三征や党争の激化などにより財政の悪化や民心の離反を招き国運を衰退に導いた。

*3:南肥後の大名。摂津守。父隆佐、母ワクサ。秀吉の寵を得て累進。瀬戸内水軍を統帥し全国統一事業に活躍。続く文禄・慶長の役では軍事・外交両面の中枢として尽力。秀吉死後は三成と共に反家康派を形成するも関ヶ原の戦いで敗死。

*4:遊撃軍将軍付き使節。嘉興の人。明使として朝鮮之役の解決に尽力するも、講和失敗による秀吉の再出兵の責により処刑。