脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『ヒトラー暗殺計画』

http://alfalfalfa.com/archives/1479056.html
空気が読めないのもドジっ娘の要件・・・か?


 寒くて朝が起きれません。ああ、あの猛暑の日々が懐かしい。

そうさ誰もオレの熱い想い止められない

七月二十日事件 Zwanzigster Juli
 1944年7月20日発生のヒトラー暗殺未遂事件。
 ユンカー的伝統に立ち、ヒトラー*1の無謀な戦争に反対してきた国防軍の一部(その中心はシュタウフェンベルク大佐*2)は、若干の官僚・民間人と協力し連合軍のローマ奪回・フランス上陸を機にクーデターを計画、東プロイセンのラステンブルクにある総統本営で机の下に時限爆弾入りの鞄を置き、ヒトラーの爆死を図ったが、ヒトラーは負傷したのみ、ヒトラーは同日午後、ムッソリーニ*3と再会。ロンメル将軍*4はこの事件に関係したとして自殺を強要させられた。(『新編 西洋史辞典 改訂増補』より引用)

 ヒトラーが悪運の女神に寵愛されていたのを示すヒトラー暗殺事件の数々の頓挫の歴史の紹介。特にロンメルまで巻き込む大粛清に発展した七月二十日事件を中心に記述。石橋を叩いて渡らないドイツ人の超慎重姿勢で何度も何度も順延されているあたり、日本人とよく似た先送り主義の病理を感じます。まあ、問題を見ないふりする日本人と違って、ドイツ人は直視した上で先送りするのでなお性質が悪い気もしますが。ビスマルクだのヒトラーだのが強権振るえれた理由が分かります。
 とまあ、そんな感じで決行前も決行後も終始右往左往しており、なんともグデグデな顛末を迎えるので、カタルシスにはほど遠いですが、個人的にはフロム司令官の小人物ぷりがたまりません。大勢が決した時点での致命的な手のひら返しの挙句、結局は処刑。どうせ英雄にはなれないなら、これ位の小悪党を目指すのも一興かもしれませんね。

走り続ける理由がこの大地にないのなら

 戦前の日本国民には天皇暗殺を図る英雄がいなかった。これは当時の日本人の民度の低さを示すものだ。なんて議論をたまに耳にします。後ろに見え隠れする政治的思惑は気になりますが、あながち的外れな話ではないと思います。無抵抗なのは消極的賛成と同義。「解放」されてから何を主張しても後の祭りです。さあ、我々も後世の史家に嗤われない為にも行動を起しましょうか。

マクロスダイナマイト7 DYNAMITE FIRE!!

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帰ってきた今日の一行知識

アメリカの諜報部によるヒトラー女性化計画が実在した

女性化ホルモンを投与して、トレードマークのちょび髭やハリのある声を奪ってしまおうとの大胆な計画ですが、そんなことできるなら大人しく暗殺しとけよと小一時間。まあ今の日本なら「日本鬼子」みたいに別のアプローチで実現できそうですけどね、

*1:Adolf Hitlerドイツ国総統。父アロイス、母クララ。第一次大戦後の混乱に乗じナチス党を創設。ヴェルサイユ体制からの離脱を掲げ人心を掌握し、合法的に完全独裁体制を樹立。厭戦気分の蔓延するヨーロッパ列強の隙を付いて領土を拡大。ポーランド侵攻により第二次世界大戦の火蓋を切った。初期の電撃戦の成功により第三帝国の野望成就目前まで迫るも、対英戦の停滞・独ソ不可侵条約の破棄・同盟国日本の暴走によるアメリカ参戦などにより、漸く勢力は後退。最後はベルリン陥落を目前に自殺。

*2:Claus Philipp Maria Schenk Graf von Stauffenberg。ドイツ国内予備軍参謀長。参謀大佐。伯爵。父アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク、母カロリーネ。ドイツ屈指の名族に生まれ、騎兵隊に所属し累進。第二次世界大戦時に参謀本部に転身し、北アフリカ戦線で重傷を負い内地に異動。当初よりドイツ貴族として反ナチス思想を持っていたが、戦傷によりその主張は先鋭化。七月二十日事件でヒトラー爆殺の実行犯となるも失敗処刑。

*3:Benito Amilcare Andrea Mussolini。イタリア王国第40代首相。父アレッサンドロ、母ローザ・マルトーニ。社会党最左派として活躍。第一次大戦ファシスト党を設立し、ローマ進軍で首相就任、ファシズム的独裁体制を確立。ヒトラーの尻馬に乗り第二次世界大戦に参戦するも敗北。パルチザンに逮捕され処刑。

*4:Erwin Johannes Eugen Rommel。ドイツ防衛軍司令官。陸軍元帥。父エルヴィン・ロンメル・シニア、母ヘレーネ・フォン・ルツ。第一次大戦時から陸軍将校として従軍、ヴェルサイユ体制下でも累進。第二次世界大戦ではフランス侵攻で活躍、続く北アフリカ戦線では数に勝る連合軍相手に奮戦、「砂漠の狐」の異名で恐れられた。ヒトラーの無謀な作戦への批判を繰り返した為、七月二十日事件に連座し賜死。