脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

むーんな気持ちはおセンチ

[三題噺]黒田の与四球と張漢卿と周代の刑について

http://blog.livedoor.jp/domesaka/archives/1011348.html
司馬史観の色眼鏡を外せば、竜馬より岩崎弥太郎の方が遥かな大人物なのは明らかなんですから、静観して肝の座ったところを見せればいいもんを。なんでわざわざ自爆するんでしょうか。みっともない。


 最近の「歴女」ブームとやらの影響か、飲み会等で歴史が趣味とのたまわれる女性としばしば同席します。一介の歴史ファンとして本来寿ぐべきことなのでしょうが、「最近勉強し始めたんです」なんて好感溢れる方は少なく、「戦国時代に詳しい、オタクだ」と自称の方が賤ヶ岳の七本槍を存在自体知らなかった*1りと脱力しきり。人の振り見て我が振り直せ。他所では絶対に自分は「〜ヲタク」だなんて不遜な言辞は取らないように気をつけます。


SRWZ進捗

昔の彼を忘れたらあなたの虜になりました

黒田博樹+与四球

それ行けカープ!pt2 - 脱積読宣言

黒田博樹
昭和五十(1975)年〜。大阪市住之江区出身。185cm95kg。右投右打。背番号18。
上宮高校(1990-'92)→専修大学('93-'96)→広島東洋カープ('97-2007)→ロサンゼルスドジャース('08〜)
'09成績:試合21勝利8敗北7勝率.533投球回117.1奪三振87防御率3.76
NPB通算成績:試合271勝利103敗北89セーブ1勝率.536投球回1700.1奪三振1257防御率3.69
MLB通算成績:試合52勝利17敗北17勝率.500投球回300.2奪三振203防御率3.74
受賞歴

四球
 野球の試合において投手が打者に対しボールを4球投げ出塁を許すこと。また、それによる出塁のこと。フォアボール*2とも言う。
 1つの打席で4つのボールが宣告されると、打者はアウトにされる恐れなく、一塁に進塁することが出来る。打者は走者となって一塁に進み、一塁に触れなければならない。このとき一塁に走者がいれば押し出されて二塁へ、二塁にも走者がいればこれも押し出されて三塁へ、さらに三塁にも走者がいればこれも押し出されて本塁へ、それぞれアウトにされる恐れなく進塁することができる。
 四球はボールインプレイである。したがって、例えば四球が宣告された投球が暴投または捕逸になった場合、打者走者を含めた走者は、安全に進塁できる塁より先の塁(2つ以上先の塁)に進んでもよいし、同時に盗塁が起こっていてこれが成功すれば盗塁による進塁も認められる。ただし、四球で安全に進むことが認められている塁は1つまでなので、それ以上先の塁に進もうとしてこの塁を越えてしまえば、野手に触球されるとアウトになる。また、塁に触れずに先の塁へ進んでしまったときもその塁に達したものとみなされるから、走者の身体へ触球されればアウトになるのはもちろん、野手が空過した塁に触球しアピールをすることでも走者はアウトになる(アピールプレイ)。なお四球の際、打者が1塁に行こうとしない場合、塁審はアウトを宣告できる。(wikipediaより修整引用)

中原の虹+少爺

アゲ♂アゲ♂EVERY騎士 - 脱積読宣言

少爺 shaoye*3
1、若旦那。坊ちゃま。(金持ちの家の使用人が主人の息子をさして言った。)
2、(一般に)坊ちゃん。若旦那。
3、〈旧〉坊ちゃん。令息。ご子息。(他人の息子に対する敬称。)
(『小学館 中日辞典』より引用)

中原の虹
 浅田次郎*4の長編小説。
 浅田次郎の最高傑作との評判が高い『蒼穹の昴』の続編的小説。『小説現代』にて約3年半にわたり連載された後、2006年から2007年にかけて単行本全4巻が講談社から刊行された。2008第42回吉川英治文学賞吉川英治国民文化振興会主催)を受賞。
 清朝末期、海外列強により蚕食されつつある状況を憂いた西太后*5は、かつて幽閉した光緒帝*6と共謀して自身の手で清を滅ぼすことを決意。落日を迎える清朝に代わり覇権を握らんと各地の軍閥がしのぎを削る中、占い師に王者となると予言された馬賊張作霖*7は己の野望を叶えるために苛烈な戦いに身を投じる。その戦いは彼に従う李春雷*8や周囲の人間たちの運命を大きく変えていくことになる。
wikipediaより引用)

中原の虹 第四巻

中原の虹 第四巻

刑+周代

今がその時だ - 脱積読宣言


1、つみする。罰を加える。
2、しおき。刑罰。
3、くびきる。また、殺す。
4、のり。おきて。常法、法則。
5、のっとる。手本とする。また、模範を示す。手本となる。
6、おさめる。ただす。取り締まる。
7、かたち。実体。
(『大漢語林』より引用)


殷の後を受けて約850年間続いた王朝。周の始まりは前1100頃と推定される。
 都市国家の一つであった周は始めの300年間は陝西省渭水下流の鎬京にあったので、西周と名付け、前770平王*9の時、東方の河南省洛水の沿岸に国を遷してより約500年間を東周という。春秋時代・戦国時代は東周の間に含まれる。
 春秋時代以前の史実は『書経』・『詩経』・『逸周書』・『竹書紀年』などを見ても詳しいことは解らない。しかし、金文(銅器銘文)などによって西周の王は文王*10・武王*11・成王*12・康王*13・昭王*14・穆王*15・共王*16・懿王*17・孝王*18・夷王*19・窅王*20・宣王*21・幽王*22の13王のことがほぼ確認できる。
 周の民族は、殷時代の後半には西北方の遊牧民ではなく、山西省汾水下流地方にいた農牧民だったらしい。殷人の侵寇の為に古公亶父*23の時に陝西省岐山に逃れて、その地に都市国家を作った。太王の孫の姫昌の時、殷の紂王*24から西伯に任じられたが、殷の軍が東夷の反乱に遠征した隙に次第に東遷を始め、文王の子武王姫発の時遂に殷の軍と激戦の末これを滅ぼした。武王の没後その弟周公旦*25は武王の遺児成王を助けて摂政し、鎬京を宗周とし、殷の遺民と与国や東夷を統治する為に政治都市成周を洛邑の地に建設した。新政権の政策は所謂「周の封建制」の確立と、殷の神政から徳治への転換であった。
 幽王のとき、犬戎の侵寇が起こり、次の平王の時諸侯の助けにより小康を得たが遂に宗周の地を秦に与えて東遷した。東周に入って後も中原への夷狄の侵入は絶えず、加えて血縁関係を根幹とする周の諸侯統治方法は時代が下ると共にその効力を失い、春秋時代には周室は洛陽付近を領する一小国に過ぎなくなり、前249遂に秦に滅ぼされた。(『新編 東洋史辞典』より引用)

中国古代礼法思想の研究 (創文社東洋学叢書)

中国古代礼法思想の研究 (創文社東洋学叢書)

お願いティッシュの様に捨てないで

む?んな気持ちはおセンチ

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帰ってきた今日の一行知識

創成期野球で打者がボールの累積で出塁するには9ボールが必要だった。
代わりに打者がコース指定を出来たとのことですが、余りの投手有利と試合時間延長の改善の為、漸次減らされ1889年に今の四球の制度が確立した模様。なお、1971年頃試合時間短縮の為更に減らして3ボール制にしようという動きもあったようですが、「三球」の連発で試合が壊れ試合時間も逆に長引いた為、立ち消えになりました。ルールってのはやっぱりよく出来てるもんですね。

*1:私も酔ってたこともあって7名即答できなかったので余り笑えません。平野と糟屋はともかく、脇坂と片桐が出てこなかったのは痛恨。精進します。備忘録代わりに:福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元

*2:和製英語。英語ではBase on Balls。

*3:四声-軽声

*4:代表作:『鉄道員』、『壬生義士伝』、『お腹召しませ』他。

*5:慈禧太后。咸豊帝貴妃。父葉赫那拉恵徴。子に同治帝。息子の同治帝が幼少で即位後、咸豊帝皇后の東太后と共に摂政、同治の中興と呼ばれる繁栄を現出。同治帝死後は甥の光緒帝を擁立、東太后の死後独裁体制を確立。光緒帝親政後も朝政に介入し、戊戌の変法を挫折させた。晩年義和団の変後は従来の旧守的姿勢を改め西洋文化に傾倒するも時既遅く彼女の死後の亡国を招いた。

*6:清朝第11代皇帝。諱は載湉。父醇親王奕譞、母葉赫那拉氏。同治帝の死後も自身の影響力を保持しようとした伯母の西太后に擁立され即位。成人後は親政を行い戊戌の変法を行うも、西太后守旧派の反発を招き、戊戌の政変により失脚幽閉。西太后の死とほぼ同時に謎の死を遂げた。

*7:中華民国北洋軍閥政府安国軍政府大元帥。盛京省海城県の人。字は雨亭。日本軍の援助により軍閥として頭角を表す。辛亥革命の際の功で袁世凱に信任され奉天省長となり、それを足がかりに東三省を制圧。度々中原進出を図るも失敗。北伐を招いた為、関東軍に見捨てられ謀殺。

*8:弟に李春雲。口減らしの為村を捨て放浪しているところを張作霖に拾われ、一家の五当家として不死身の雷哥の雷名を轟かした。

*9:周第13代王。諱は宜臼。父幽王、母申后。廃太子され篭居していたが、西周の滅亡に際し、諸侯に擁立され東周を再興した。

*10:殷西伯。諱は昌。父季歴。三公の地位にあったものの紂王の苛政を批判したのを咎められ、逮捕左遷。周の地に戻り太公望を招き仁政を布き勢力を拡大。次代の武王の建国への道筋をつけた。代表作:『周易』。

*11:周初代王。諱は発。父文王、母太【女似】 。殷を牧野の戦いで破り滅亡させ、西周を建国。太公望・周公旦の輔弼を受け周850年の礎を築いた。

*12:周第2代王。諱は誦。父武王。殷の残党の抵抗などに苦しめられながらも、太公望・周公旦の輔弼を受け建国期の困難な時代を統治。

*13:周第3代王。諱は訢。父成王。外征を繰り返し諸侯への威信を増し、周の国家体制を確立した。

*14:周第4代王。諱は瑕。父康王。南方遠征を繰り返し、東夷26邦を服従させるも、楚への遠征中に戦死。

*15:周第5代王。諱は満。父昭王。遂には崑崙山にまで達したとされる中国全土への遠征巡視を繰り返し、呂刑と呼ばれる厳格な刑罰を制定するも却って諸侯や民衆の反感を買った。

*16:周第6代王。諱は繋扈。父穆王。前半は外征、後半は内政に注力し、国の安定に心を砕いた。

*17:周第7代王。諱は【難の偏に喜】。父共王。王室の権威の衰退が顕著となり、外夷の攻撃を招いた。

*18:周第8代王。諱は辟方。父穆王。兄の死に伴い王位を継いだ。

*19:周第9代王。諱は燮。父穆王。兄懿王の太子となり、孝王の崩御に伴い戴冠。

*20:周第10代王。諱は胡。父穆王。賢臣周公・召公を退け、佞臣を重用した為、王室の衰退と民衆の反乱を招き、都を逃亡。その間、周公・召公による共和政が行われた。

*21:周第11代王。諱は静。父窅王 。父の死後、周公・召公に擁立され即位。両賢臣の輔弼の下、「宣王中興」と呼ばれる善政を布いた。

*22:周第12代王。諱は宮涅。父窅王。側室褒【女似】を重用し、廃太子・廃后を行い、悪政を布いた為、正室申后の一族の反乱を招き、鎬京と共に滅亡。

*23:太王。父公叔祖類。異民族の侵略から逃れ祖来の地豳を離れ、岐山の地に移住。のちの周の礎を築いた。

*24:殷第30代王。諱は辛。父太丁。頭脳明晰文武両道の傑物ながらも、家臣を侮り、愛妾妲妃に溺れた為、民心は離反。周の反乱を招き、牧野の戦いに破れ、朝歌にて焼身自殺。殷と運命を共にした。

*25:姫旦。周摂政。父文王、母太【女似】 。太公望と共に、兄の武王及びその遺児成王を輔弼。『周礼』の原型を作るなど、建国期の周の治世を司った。その功により魯の開祖となる。