脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

喜田の肉体と君側の奸と秀才科について

【原発問題】福島原発 半径20キロの警戒区域「現状では人も家畜もすめないようなところ」農林水産省の職員が発言 [6/4]:黒マッチョニュース
「あなた方の熱意は分かりました。それでは、自己責任でいつでも戻って大丈夫ってことにしましょう」って言われる方が遥かにヤバいと思うんですが・・・。


 祭の余興でソーラン節を踊らされることが決定。この体格で腰落とすってのがどんなに人体を損耗させるかを体感してます。ああ膝が痛え。


第二次SRWZ進捗

  • 2周目第47話「迎えられる勝者」ライノダモン群と交戦中。トップエース:クロウ=ブルースト@ブラスタ。

どんなに離れていようと心の中ではいつでも一緒にいるけど寂しいんだよ

喜田剛+肉体

出会いと別れ - 脱積読宣言

喜田剛
 昭和五十四(1979)年〜。福岡市出身。183cm84kg。右投左打。背番号55。
沖学園高校(1995-'97)→福岡大学('98-2001)→阪神タイガース('02-'07)→広島東洋カープ('07-'10)→オリックスバファローズ('10)→横浜ベイスターズ('11〜)
'10成績:試合20打数25安打5打点2打率.200OPS.539
通算成績:試合239打数409安打102本塁打9打点46盗塁1打率.249OPS.698

肉体
 肉から成った身体。生きている人間の体。生身の体。肉身。(『広辞苑 第五版』より引用)

 栗原によく似た風貌にパンチ力のあるバッティングとなんだか大柄な体格を勝手に想像してしまいがちな喜田選手ですが、実際には183cm84kgとプロ野球選手としては中の中か下位の体格です。調べてみたところ、カープにトレードされる直前の'06年オフに肉体改造を行い90代前半だった体重を今の数字にまで絞っています。'07年シーズン当初こそ肉体改造の効果がでず苦しんでいましたが、トレードでカープに来てからは大輪の花を咲かせたのは皆さん知っての通り。しかし、それ以降ぱっとしないままオリックスに放出、揚句に横浜に再トレードと迷走しているのは見ていて痛々しいものがあります。一ファンとして再度の肉体改造による覚醒を願ってやみません。

君側の奸+広辞苑

名も無き英雄たちに - 脱積読宣言

君側
 君主のお側。君辺。(『広辞苑 第五版』より引用)


一、1、おかす
   ア、暴力で婦女を汚す。
   イ、してはならないことをする。邪まな行いをする。
  2、もとめる。
二、よこしま
  1、悪い。ずるい。
  2、偽る。私する。
  3、淫ら。男女関係が正しくない。
(『大漢語林』より引用)

広辞苑
 岩波書店が発行している中型国語辞典。
 昭和初期に出版された『辞苑』(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を『広辞苑』と改めて出版された。中型国語辞典としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録される事も多い。収録語数は、第六版で約24万語となっている。出版以来版を重ね、国内はもとより、海外の社会情勢や約3,000点の図版、地図等を収録し、百科事典も兼ねる働きを持っている。(wikipediaより引用)

 呉楚七国の乱を招いた晁錯を詰るのにも用いられた由緒正しい表現ですが、昭和維新の際に皇道派の皆さんが君側の奸を除くべしとシュプレヒコールを挙げたのが、進歩的文化人様のお気に召さなかったのか、意外や意外、広辞苑には君側の奸の項目はありません。
 最上級者に歯向わず中間管理職だけを排斥したい時によく使われるこの言葉、自分に投げかけられた時、上司は昭和天皇のように激憤を以て応えてくれるのか、それとも単なるトカゲの尻尾切りをされるのか、できれば試さなければならない羽目には陥りたくないものです。

広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)

科挙+秀才科

夢追い人 - 脱積読宣言

科挙
 隋の文帝*1時代より1905年まで約1300年間行われた高等官吏資格試験。公平な実力試験によって広く人材を挙用することを目的とし、古典の教養を試験した。例えば、隋の進士科は詩賦と策を以て試し、唐の秀才科は方略策五道を課し、宋以後は、経義・詩賦・論策を併せ問うた。
 唐代に一応整い、科目も6科を数えたが、秀才・明経・進士の3科が栄えた。応試資格は成績優秀の学館の生徒中より選抜された者、及び州県に自ら出願して考試を受けて及第し、中央に貢送された者(郷貢)などであった。試験方法は大義・帖経(経書についての一種の筆答試験)と策・文・詩賦・墨義(経書に関する一種の筆答試験)とに分かれた。ただ秀才科は策問を以て試み、頗る難関であったので自然と衰え、経学を主とする明経、詩賦を主とする進士の2科が栄えた。殊に進士科は出世が早いというので、次第に重きを加え、宋代に入り進士の名に統一された。試験は唐代のはじめ吏部考幼員外郎の司るところであったが、玄宗*2に至って礼部侍郎に移管された。
 唐代科挙の特色はその運営面にあって、礼部所管の科挙試験に及第しても官吏となる資格が付与されたに過ぎず、更に吏部における採用試験ともいうべき身(人品)・言(言語)・書(筆跡)・判(法律問題)の試にパスしなければ実官に任じられることはなかった。
 ところが宋太祖*3に至って殿試が創設された。殿試とは解試(地方試)・省試(礼部試)の後に、試場を宮中に設け天子自ら軒に臨み、天子自身の責任の下に行われる最終最高の試験であるから、進士出身官僚は天子の門生たる地位を誇りとして忠誠を誓い、以て近世独裁君主制の確立に一大影響を与えた。明清にも殿試は受け継がれたが、宋代科挙の特徴は実に解試・省試・殿試の三段階制の成立を以て最も大とする。宋初の科目には進士科の他に明経を含む諸科が存在したが、進士科のみが栄えた。殿試は仁宗*4朝より落第させぬのが原則となり、ただ省試の成績順列を上下変更するのみと定め、英宗*5の時科挙施行を3年に1回と決めた。
 以上の宋代の新方針は明清の常法として受け継がれた。明清は殊に科挙応試の資格として府州県学の生徒(生員)であることを原則と定められた為、学校の科挙への隷属は著しく、学校は教育の場としては有名無実となった。(『新編 東洋史辞典』より引用)

秀才
 前漢後漢から南北朝時代にかけて、地方が朝廷に人材を推薦した科目の一つ。「茂材」とも言った。
 唐初の科挙試験の中にはこの科目が置かれていたが、太宗*6の時に次第に廃止された。のちに広く読書人を指す言葉となった。明初には科挙試験と同時に、一度兼ねて推薦制を施行したことがあり、その中に秀才という科目があった。のち試験を通じて府・州・県学に入った生員を「秀才」と称するようになり、清もこれを踏襲した。(『中国歴史文化事典』より引用)

 郷挙里選にその淵源を持つ秀才科。科挙においてもその制度は採り入れられ、唐代に至っては、各種の科目の中でも最難関を誇る筆頭科として君臨していましたが、そのあまりの難度に挑戦者は漸減。貞観年間に地方から推薦された秀才科を受験する学生が落第した時は、推薦した州県官に罰則を下すという嫌がらせのような規定が作られ完全に廃れてしまいました。しかし、科挙最高峰に値する者としての名だけは残り、明清代に科挙の受験資格を持つ生員の美名として秀才が用いられるようになり、転じて現在でも「勉強のできる人」を秀才と読んでいます。
 なお秀才科の試験科目は方略策(政策理論)の論述という具体かつ実用的なもの。ちなみに秀才科が廃れて以降科挙の代名詞というか本体となった進士科は詩作が試験科目。なんだか、科挙が亡国のマンダリンを量産する羽目になった理由がわかる気がしますね。

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

言いたい事わかるでしょ?あなたのこと待ってるよ

 肉体改造の果てに届きかけたスタメンの座を掴み損ねた喜田剛。艱難辛苦のその果てに科挙の秀才科に登第したのに、官職にありつけれなかった中国の若き英才たち。ことさらさように、成功とは難しいものです。君側の奸の跋扈が我々の成功を妨げていると逆切れしたくなる気も分からなくはありません。しかし、それを乗り越える事ができる人こそが真の「人材」なのでしょう。広辞苑での定義は別として、私はそう信じています。混迷の続く日本、一刻も早い「人材」の出現が望まれます。

そばにいるね 青山テルマ feat.SoulJa

そばにいるね 青山テルマ feat.SoulJa

帰って来た今日の一行知識

親の年収が一番高いのは東京大学
教育には金がかかる。ってことなんでしょうが、旧帝大クラスの方々には、努力したぐらいでは超えられない壁でいてほしいものです。 

*1:高祖。隋初代皇帝。諱は堅。父楊忠、母呂氏。北周静帝外戚として権勢を揮い、禅譲により隋を建国し即位。突厥・梁・陳を滅ぼし中華統一。府兵制・均田制・科挙制などの導入により中央集権的政体を志向した。

*2:唐第6代皇帝。諱は隆基。父睿宗、母徳妃竇氏。官制の改革や募兵制の導入などの改革を行い、「開元の治」と呼ばれる唐の全盛期を築く。しかし、治世後期には楊貴妃との愛欲に溺れ佞臣を重用し安史の乱を招いた。

*3:北宋初代皇帝。諱は匡胤。父趙弘毅、母昭憲太后杜氏後唐に仕え近衛軍の長として累進。恭帝より禅譲を受け宋を建国、北漢・呉越を除く中国を統一。文民統制を旨とする中央集権化を進め君主独裁政権を確立した。

*4:北宋4代皇帝。諱は禎。父真宗、母李宸妃。旧名:受益。韓愈・欧陽脩らの輔弼を得て慶暦の治と呼ばれる善政を布くも、勢力を増す西夏・遼への対応に迫られ、軍事・外交費が財政を圧迫した。

*5:北宋5代皇帝。諱は曙。父趙允譲。旧名:宗宝。先代仁宗に嗣子がなかった為、皇位を継承。即位後は財政改革を志向するも志半ばに病死。

*6:唐2代皇帝。諱は世民。父高祖、母太穆皇后竇氏。父李淵と共に隋を倒し唐を建国。高祖の死後、玄武門の変で即位。房玄齢らの輔弼を得て、「貞観の治」と呼ばれる善政を布き、唐の基礎を確立した。