脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『聖徳太子〜斑鳩宮の争い』

痛いニュース(ノ∀`) : 荒木飛呂彦先生、川端康成「伊豆の踊子」の表紙を手掛ける! - ライブドアブログ
ミスマッチを狙ったのかそれとも単に何も考えてなかったのか。担当編集者には厳重な事情聴取が必要です。何らかのスタンド攻撃を受けている可能性も捨て切れませんしね。


 サミット前の外相会議の関係で現在京都には警察屋さんが佃煮にするほどいます。これでしばらくは治安の心配はないでしょう。かなり鬱陶しいですけど。

聖徳太子―斑鳩宮の争い (中公新書 (43))

聖徳太子―斑鳩宮の争い (中公新書 (43))

遠い日に置き去りにした伝説を愛にかえて歌ってあげる

聖徳太子
 敏達三(574)〜推古三十(622)年。推古朝の摂政。用明天皇*1の皇子、母は穴穂部間人皇女*2。本名:厩戸豊聡耳皇子、通称:上宮太子
 母が馬屋の前に至った時出産したというので厩戸の名がある。587蘇我馬子*3と共に物部守屋*4を討つ。'93女帝推古天皇*5の即位と同時に皇太子となり、女帝を補佐して摂政となり大臣蘇我馬子と並んで政務をとる。中央集権化と官司制の基礎を作ったが、603冠位十二階の制定、'04憲法十七条の制定はその主な事業とされる。5世紀以来絶えていた中国との国交を開き、'07小野妹子*6を遣隋使として派遣するなど、数次に亙って使を送る。それに従った留学生・留学僧による大陸文化導入の役割は大きい。馬子と共に歴史書の編纂も計画し、『天皇記』『国記』などを纏めた。朝鮮渡来文化との関わりも深い。'01新羅征討の計画は将軍来目皇子*7の病没の為に中止された。その事業の多くは馬子との共同であり、馬子の功績となるものも多いと考えられている。もう一つの功績とされるものは仏法興隆である。四天王寺法隆寺法起寺中宮寺等は太子の発願によって建立されたと伝える他、元興寺金堂の丈六像を造立し、秦河勝*8に仏像を授けて蜂岡寺(広隆寺)を造らせた。経典の研究も自ら行い、'06岡本宮天皇法華経などを講じたという。『三経義疏』はその著作と伝えられるが異論もある。'22斑鳩宮で没した。法隆寺金堂釈迦三尊像中宮寺天寿国繍帳はその銘に太子の菩提の為に造立されたことを記す。太子の伝記は早くから神格化され、唐の高僧の生まれ替わりといった伝説化や太子信仰が形作られた。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より引用)

 知ってるようで知らない日本史の巨人聖徳太子の伝記。内容的には仏教導入に紙幅が大きく割かれており、その為聖徳太子より蘇我馬子が主人公に思えてきてしまいます。商売的に割が合わないのは分かりますが、大人しく蘇我馬子伝で纏めた方が収まりが良かったのではないでしょうか。結果的に、太子一個人の話は少なく、飛鳥時代史の風をなしていますが、逆にそれが聖徳太子の伝記の枠に収まらぬスケールの大きさを感じさせます。情報が少なく確固たるイメージを固定しがたい日本黎明期ですが、その分空想の翼を大きく広げる余地が残されています。史料至上主義に毒され、素人では歯の立てようのない史学に不満の皆さんは古代史がおススメです。

いまは刻んだ夢を道づれにして旅に出るがいいさ

 日本史に英雄豪傑賢者数あれど、No1は誰かと問われればまず間違いなくこの人の名が挙がってくるでしょう。樋口一葉も悪いとは言いませんが、やはり日本の顔としてのお札にはやはりこの人こそが似合います。是非一刻も早い聖徳太子の十万円札の製造を願います。

帰ってきた今日の一行知識

日本最古の巨大ロボは聖徳太子作の「磁雷神*9
やはり日本史上最大の偉人の座は聖徳太子で揺るぎようがありませんね

*1:第31代天皇。諱は橘豊日尊。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。崇仏廃仏の争いに巻き込まれ、即位後二年で死去。

*2:用明天皇皇后。父欽明天皇、母蘇我小姉君。夫用明天皇→多米王。子に聖徳太子来目皇子殖栗皇子茨田皇子、佐富女王。

*3:大臣。父稲目。孫に入鹿。通称:「嶋大臣」。物部守屋ら排仏派の撃破、崇峻天皇暗殺などを通して蘇我氏の絶対権力を確立。

*4:大連。父尾輿、母弓削阿佐姫。排仏派の筆頭として神道を擁護するも、蘇我馬子との対決に敗れ戦死。

*5:第33代天皇。諱は額田部皇女。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。夫に敏達天皇。日本初の女帝として、聖徳太子の日本の基礎作りを後援。

*6:大徳。第1・3回遣隋使。煬帝からの返書を紛失するなどの失態を演ずるも、遣隋使として日隋国交樹立に尽力。

*7:新羅征討将軍。父用明天皇、母穴穂部間人皇女。兄に聖徳太子新羅征討軍の大将として九州在陣中に病没。

*8:大花上。渡来人集団秦氏の族長格。聖徳太子のブレーンとして活躍。

*9:出典:『世界忍者戦ジライヤ