脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『聖徳太子Ⅲ〜東アジアの嵐の中で』

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 東京駅100年記念Suica販売中止で暴動 機動隊出動 - ライブドアブログ
こういうトラブル聞く度に改めてコミケスタッフの練度の凄まじさを感じさせられます。


 忘年会三昧→前倒しの実家帰省→忘年会三昧のコンボで大分ご無沙汰しました。その間にも、『第3次スーパーロボット大戦Z 天獄篇』発売発表・第47回総選挙など大きなイベントなどが沢山ありました。しばらくは時季外れになるでしょうが徒然とそれらの感想も書いていきたいと思います。気長にお付き合いくださいまし。


SRWZⅢ時獄篇

  • 3周目第15話「終末を抱いた神話」ミスラ・グニス撃破。トップエース:オットー=ミタス@ネェル・アーガマ

君の景色を語れるくらい

聖徳太子
 敏達三(574)〜推古三十(622)年。飛鳥時代の王族。父:用明天皇*1、母:穴穂部間人皇女*2。両系とも蘇我氏の血統となった最初の王子である。聖徳太子という呼び名は751よりのち見える。字:厩戸王子。厩で生まれたという伝説は、中国に伝わったキリスト教の一派である景教の影響か、といわれる。史上には両祖母の長兄の大臣蘇我馬子*3が、587大連物部守屋*4を討滅した戦陣の中の、14歳の姿が初見である。当時の政界を開明派として主導した馬子の権勢のもとで成長し、仏教を高句麗からの渡来僧恵慈*5に、儒教経典を百済から渡来したとされる博士覚竫*6に学んだ。
 '93前大后額田部王女*7の即位の時から皇太子・摂政となったとされるが、当時の宮廷制度には皇太子や摂政の地位はない。むしろ留意されるのは、601斑鳩宮に移住したことであろう。ここに、飛鳥の小墾田宮に額田部王女、約20㎞北方の斑鳩宮に厩戸王子、両方を大臣蘇我馬子が後見する形態の政権が出現した。この政権は、初め計画した新羅遠征が失敗すると、'00・'07・'14遣隋使を送り、新羅に外交的威圧を加えた。このときの前2回の遣隋使とも、倭国王は多利思比孤であると述べている。これを、女王は未開国の習いとみられたのを避ける遣隋使の機転の言とする説もあるが、倭国王の妻・太子も同時に述べている。多利思比孤は厩戸王子、妻は菟道貝蛸王女*8、太子は田村王子*9と解される。さらに、のち厩戸王子の死去の年には、斎王の酢香手姫王女*10が退下した。7世紀後葉までの斎王は、男王の代だけ伊勢大神のもとへ送られていたからであった。要は、厩戸王子は大王であった。それも外交面に限ったことではなく、'03冠位十二階を、'04憲法十七条の制定を主導し、'20馬子と議って『天皇記』・『国記』も編纂した。
 厩戸王子は、死後1世紀余りで早くも法王とか法王大王として、信仰の対象とされた珍しい人物である。法隆寺の昭和資財帳作成の調査で金堂釈迦三尊像の台座裏に発見された「相見兮陵面学識心陵了時者」*11の墨書は、造仏関係者の厩戸王子への追慕を示す早い時期の新資料と言える。これは厩戸王子自身が、生前に「世間虚仮 唯仏是真」と理解し幾つも造寺・造仏を発願したとされるように仏教に傾倒していたことと、あい呼応するものであろう。ただ、その撰述とされる『三経義疏』のうちには中国の敦煌文書に同文のものがあり、厩戸王子自らの撰述とみる説は揺らいでいる。
 しかし、聖徳太子信仰は、聖徳の語にはすでに道教的聖人感の影響があり、また、その上宮王家の子孫一族が'43全滅させられた悲劇性への同情からもいっそう強まっていった。『上宮聖徳法王帝説』をはじめ多くの伝記が書かれ、鎌倉期以降には太子童形像や聖徳太子絵伝が流行し、現在も太子信仰は根強い。墓は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内。参考遺跡に法隆寺奈良県桜井市の上之宮遺跡がある。(『朝日歴史人名事典』より引用)

 梅原猛の描く聖徳太子伝も早3巻目。今巻は遣隋使や法興寺丈六の仏像搬入、三経義疏講読など文化外交面での壮年期の聖徳太子の偉業を描きます。今回は煬帝を最後失敗しちゃったけど本質的には開明的で英明なる明君に造形して、聖徳太子が目標にしていたとするストーリーがかなり新鮮。その代わりにその煽りを受けて前半分が何故か隋史煬帝伝になってるのがちょっぴり苦笑。そりゃあ御父君から脱線し過ぎって苦言ももらうわ。けど主観入りすぎの梅原節の悪い癖でまくりの本編よりぶっちゃけ面白いんだよなあ。
 

誰よりも誰よりも

 虚構説が猖獗をふるい過小評価も甚だしい昨今の聖徳太子伝。早く再び健全なる偉人伝へと回帰してもらいたいものです。いくら教科書に載るのは二昔前の学説って言っても時代遅れも甚だしいよ。

はじまりはいつも雨

はじまりはいつも雨

帰って来た今日の一行知識

浮気者」の名前を付けられた皇后がいる
聖徳太子の母穴穂部間人皇后*12孝徳天皇の后間人皇后*13がそれ。昔の人はやることがえげつないなあ。

*1:第31代天皇。諱は橘豊日尊。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。崇仏廃仏の争いに巻き込まれ、即位後二年で死去。

*2:用明天皇皇后。父欽明天皇、母蘇我小姉君。夫用明天皇→多米王。子に聖徳太子来目皇子殖栗皇子茨田皇子、佐富女王。

*3:父稲目。通称:「嶋大臣」。物部守屋ら排仏派の撃破、崇峻天皇暗殺などを通して蘇我氏の絶対権力を確立。

*4:大連。父尾輿、母弓削阿佐姫。排仏派の筆頭として神道を擁護するも、蘇我馬子との対決に敗れ戦死。

*5:法興寺に在し聖徳太子の仏教の師として活躍、三宝の棟梁と讃えられた。

*6:聖徳太子儒教の師。日本の文献にのみ登場し、その来歴は不詳

*7:推古天皇。第33代天皇。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。夫に敏達天皇。子に菟道貝蛸皇女・竹田皇子・小墾田皇女・尾張皇子・田眼皇女・桜井弓張皇女。日本初の女帝として、聖徳太子の日本の基礎作りを後援。

*8:聖徳太子妃。父敏達天皇、母推古天皇

*9:舒明天皇。第34代天皇。父押坂彦人大兄皇子、母糠手姫皇女。蘇我蝦夷に擁立され即位。蝦夷の輔弼の下、遣唐使派遣などの活発な東アジア外交を行った。

*10:伊勢神宮斎宮。父用明天皇、母飯女之子。

*11:書き下し:相見えよ陵面に。識心陵了る時を楽(ねが)う者は。

*12:用明天皇死後継子の多米王と再婚

*13:夫の生前から同母兄の中大兄王子との醜聞あり