脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

吉原について(承前)

続・妄想的日常 さすがw
さすが亀田。そこに痺れる憧れるゥゥゥ!!

 一日サボるとリカバーが辛いなっっと。

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[歴史]吉原

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吉原
 江戸の傾城街。元和三(1617)年三月に日本橋葺屋町東の葭原の開発許可を受け、市中に散在していた遊女屋を集めて作られ、翌四年十一月開業した。これが元吉原で、廓内は五町から成っていた。「あづま物語」(1642)によれば、遊女数はすでに987人もあったという。江戸の発展によって周辺が市街の中心となったため、明暦の大火(57)後に浅草寺裏の千束村に移転、これを新吉原とよんだ。当初は高級遊女である太夫も多く、上方に対抗して意気と張りを誇ったが、市中での岡場所の盛行に押され、取締りによる淫売女が遊女の大半を占めるようになったことから、岡場所との差異も少なくなり、十八世紀中頃には太夫は一人もいなくなった。「守貞漫稿」によれば、嘉永元(1848)年の遊女数は5111人。

 大人の遊園地な吉原の歴史について、上記の通りの沿革を経て誕生したこの巨大な色町は、男女比3:1*1の歪な人口構成という江戸の特殊事情もあり、恐竜的発展を遂げました。歌舞伎役者と同じように、プロマイドが売られ、スキャンダルが京雀の好奇心を満たす、今の芸能人的役割を果たしていました。「吉原細見」というガイドブックが毎年発行されるなど、庶民にとっては一度は行きたい憧れの場所で、裕福な町人*2にとっては、嫁取り前の「お勉強」兼後腐れのない半公認の浮気場として重宝されていたようです。日本のエロ関係の用語に風雅なものが多いのも、吉原が風流人の集会場になっていたことを示す好例なのではないでしょうか。
 と肯定的な側面ばかり述べてまいりましたが、当然暗黒面もあるわけで、女同士の醜い嫉妬に売り上げの悪い反抗的な女郎へのリンチ、無茶な堕胎、性病の蔓延と悲惨な現状であったのは間違いなかったようです。
 時代は下って明治に入ると、近代化の美名の下に、階級的権威も剥奪され、西洋的な最下層の売春婦へと落とされ、完全な半暗黒街して、吉原の美名も零落してしまいます。戦後には政府公認すら外され、単なる私娼街となってしまったのには涙を禁じえません。


この地上で最強の子孫 お家の為に残しましょう

 「角を矯めて牛を殺す」今回の結論はこの一語で言い尽くせそうです。たとえば、吉原の赤線の禁止が素人娼婦=援助交際の増加を招いたことなどはその典型例でしょう。男に射精の欲望ある限り、そして女性にパートナー選択の自由を認める限り、風俗産業の禁止は完全な絵空事でしかありません。この理屈は政治にも援用できます。この世に生物のある限り、けっして闘争はなくなりません。それを知らず、見ようともせずに、憲法第九条などと言う完全に死文化したお題目を遵守しようなどと言うのは、正気の沙汰とは思えません。福田・大平らの戦国史を思わせるような自民党総裁選の権力争いのために、国民の感情を刺激しかねない憲法改正論議が禁忌とされてしまったことがその原因でしょうが、今こそ我々は娼婦も軍人もこの社会を維持する為には不可欠な必要悪だと言うことを認めるべきではないでしょうか。これらの廃止を謳う人達に自分の手を真っ黒に汚す覚悟があるとは思えません。自分の手を汚すことが出来ぬなら、せめて自分の代わりに汚れてくれてる人に感謝と尊敬を抱くのが人間として最低限の礼儀ではないかと私は考えます。

今日の一行知識

頼山陽が書いたエロ小説がある
題して「壇ノ浦夜合戦記」。壇ノ浦の戦いの後、入水した建礼門院徳子とそれを救った源義経の愛と欲望の物語。だそうです。お堅い朴念仁だとばかり思っていましたが、なんだか親近感が湧いてきました。

TVアニメ「すもももももも」OP主題歌 最強○×計画

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*1:未婚の成人に限れば9:1とも

*2:武士階級の没落もあり、初期を除いてほぼ町人の占有に近い状況だったようです。幕末の志士が京都の祇園や島原で大暴れしたのもこれがコンプレックスになっていた所為でもあるのではないでしょうか