脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

浜崎あゆみと鶴屋南北と衆道について

http://military38.com/archives/48211830.html
事業縮小に伴う財政再建のできなかった放漫財政の末路のモデルケースとして語り継ぐべき事案でしょう。くわばらくわばら。


 合宿研修最終日、藤沢から隣の大船まで一駅だけと思って乗った列車がまさかの湘南ライナー。速攻で運営に電話して遅刻の事情を平謝りして事なきを得たものの、「次は品川〜品川〜」の車内アナウンスには本気で腰ぬかしました。どおりで席空いてるのにドア付近に突っ立ったままの奴への視線が冷たい訳だ。


SRWOGMD進捗

  • 2周目第11話「惨劇の夜(前篇)」ラマリス2次攻勢到達。トップエース:カルヴィナ=クーランジュ@ベルゼルート。

楽しくて悲しくてそして優しいストーリー

まともに歌えない浜崎あゆみ

ガールッピ - 脱積読宣言

浜崎あゆみ
 昭和53(1978)年〜。日本の女性歌手。かつては女優、モデルとしても活動していた。本名:濱粼歩。愛称:あゆ・ayu。福岡県福岡市早良区出身。エイベックス・マネジメント所属。レコードレーベルはavex trax
 モデルや女優としての活動を経て事務所を移籍、1998.4.8 1stシングル『poker face』でソロ歌手としてデビュー。歌手デビュー後の楽曲については、オリジナル曲は全て自身で作詞し、「CREA」名義でいくつか作曲も手がけている。楽曲のみならず衣装、ミュージックビデオ、雑誌グラビア、CDジャケットのレイアウトやライブ演出といったビジュアルアートに至るまで、本人による徹底した非常に厳しいチェックを行っている。2012発売のベストアルバム『A SUMMER BEST』のリリースによりシングル・アルバムの総売上枚数が5000万枚を突破、B'z、Mr.Childrenに続き、史上3組目、5年5か月ぶりの記録を達成。総売上枚数が5000万枚を越えたのはソロアーティスト並びに女性アーティストとしては史上初の快挙であった。(wikipediaより修整引用)

まとも
1、正面で向き合うこと。ましょうめん。
2、正道なこと。また、きちんとしているもの。まじめ。
(『広辞苑 第五版』より引用)

歌う
節をつけて声を出す。
ア、(楽器に合せて)言葉に節づけして口にする。
イ、詩歌を作って吟じる。また、詩歌に作る。
ウ、(比喩的に、鳥などが)さえずる。啼く。
(『広辞苑 第五版』より引用)


 受験生の頃つけっ放しだったラジオから流れて来た「Depend on you」に衝撃を受けたのを昨日のように思い出しますが、月日は残酷なもので、かつては宇多田ヒカルとすら並び称された圧倒的な歌唱力もその面影すらなく、生放送やライブで老醜をさらしています。同じくスタイリッシュディーヴァとして一世を風靡した安室奈美恵が未だなおその圧倒的な歌唱力を誇っているのを見ると、まさに哀れの一言。モデルとかデザインとかの副業でちやほやされるとやっぱり「本業」がおろそかになるんですね。芸能人に限らず世の専門職すべてが心しなければなりません。

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略儀ながら狭うはございますれど

WILD EYES - 脱積読宣言

4代鶴屋南北
 宝暦五(1755)〜文政十二(1829)年。江戸日本橋出身。通称:伊之助。俗に「大南北」という。
 金井三笑*1の門人。1776見習作者となり'77より桜田兵蔵、'80より沢兵蔵、'82より勝俵蔵の名で作者として長い下積み生活を続けた。その本格的活躍は文化初年に始まるが、立作者の地位を確立したのは1808五十四歳の時である。以後約20年間にわたり文字通り江戸作者界に第一人者として君臨し、文化・文政期を代表する数々の作品を発表した。'11四代目南北を襲名。その作品は理想を失った頽廃期江戸町人の生活感情を見事に形象化した写実主義と奇想天外な趣向を特色とした。代表作に『天竺徳兵衛韓噺』『心謎解色糸』『謎帯一寸徳兵衛』『隅田川花御所染』『浮世柄比翼稲妻』『東海道四谷怪談』『お染久松色読販』『阿国御前化粧鏡』などがあり、尾上松助*2・5代目松本幸四郎*3・5代目岩居半四郎*4・3代目尾上菊五郎*5・7代目市川団十郎*6らのために書かれたものである。'29.11.27没、75歳。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)


 自身の作品に葬式シーンが多く登場することで有名な鶴屋南北。当然と言えば当然の如く、『寂光門松後万歳』で自身の生前葬の口上を披露しています。曰く、「略儀ながら、狭うはございますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申しあげたてまつりまする。まずは私、存生の間、ながながごひいきになし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、いかばかりかありがたい冷汗に存じたてまつりまする。さて私事もとより老衰に及びますれば、みなみなさまの御機嫌をも損なわぬうち、早う冥途へ赴けと、これまでたびたび仏菩薩の霊夢をこうむりますれど、さすがは凡夫のあさましさに、たって御辞退仕りますれど、定業はもだしがたく、是非なく彼地へ赴きますれば、誠にこれがこの世のお名残。(後略)」。江戸っ子でないので迂闊なことは言えませんが、多分人はこれを「粋」と呼ぶのでしょう。

衆道

わたし巫女さんキューピット - 脱積読宣言
残酷な天使のテーゼ - 脱積読宣言
若き健児の血は沸きて - 脱積読宣言

衆道
 男色の道。若衆道。若道。しゅうどう。(『日本国語大辞典 第2版』より引用)

 日本の原宗教たる神道は豊穣を祈念するシャーマニズムなので、古代に男色の流行した気配は見られません。産めよ殖やせよ地に満てよでそんな暇もなかったのでしょう。事情が変るのは、仏教伝来以降です。女犯を禁じ、男尊女卑の傾向の強いこの宗教は、必然的に知識人階層での男色の流行をもたらします。*7享楽的退廃的な文明は同性愛の傾向を助長するという一般則*8に漏れず、平安貴族の中でも男色は流行したようで、藤原”悪左府”頼長も自身の日記(『台記』)で華やかな男性遍歴を赤裸々に語っています。
 武士の時代になると、同じ釜の飯を喰らい共に死線を越えることにより、友情が愛情に変るのはある意味自然なことだったようで、男色は更なる広がりを見せます。特にそれが顕著だったのは戦国時代で、宿老支配を打破しようと目論む英明な君主達(ex.武田信玄織田信長)に新規の人材(ex.高坂昌信前田利家)を登用するルートとして有効活用されました。とはいえこの時代はまだ一般庶民には浸透していなかったようです。それを示すものとして、秀吉が男色に一切興味を持たなかったのを、部下たちが心配するというエピソード*9があります。
 江戸時代に入ると陰間茶屋などの男性娼館も出現し、一般庶民にも徐々に広がっていったようすが窺われます。ストリップに毛が生えた程度の阿国歌舞伎が現在の野郎歌舞伎に発展する際、間に若衆歌舞伎でワンクッションおいているのもそれを裏付けます。この背景には江戸の町の異常な男性過剰がありました。女がいなけりゃ、手近な男の子でもいいや、ってのは自然な流れでしょう。
 明治以降はキリスト教道徳により、あれだけ隆盛を誇った男色文化も弾圧され黄昏の時代を迎えます。それでも戦前は寄宿舎内などで細々と営まれていたとの証言もありますが、性情報の氾濫により、現在ではそんなこともなくなりつつある*10ようです。

武士道とエロス (講談社現代新書)

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あまりにも長い間眠り過ぎてたのかも知れない

A

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今日の一行知識

新撰組内では衆道が大流行していた
近藤勇がそれを嘆く手紙を残してますね。また貴腐人方の燃料が・・・。 

*1:代表作:『菜花隅田川』、『江戸紫根元曽我』、『色上戸三組曽我』(狂言)他。

*2:尾上松録。父徳次郎。代表作:小幡小平次(『彩入御伽艸』)、天竺徳兵衛(『天竺徳兵衛韓噺』)、阿国御前(『阿国御前化粧鏡』)(歌舞伎俳優)他。

*3:父4代目松本幸四郎。代表作:仁木弾正(『伽羅先代萩』)、松王(『菅原伝授手習鑑・寺子屋』)、高師直(『仮名手本忠臣蔵』)(歌舞伎俳優)他。

*4:父4代目岩居半四郎。代表作:お染(『於染久松色讀販』)、土手のお六(『杜若艶色紫』)、お初(『鏡山』)(女形)他。

*5:養父初代尾上松助。代表作:福岡貢(『伊勢音頭恋寝刃』)、早野勘平(『仮名手本忠臣蔵』)、いがみの権太(『義経千本桜』)(歌舞伎俳優)他。

*6:父長谷川某、母(市川)すみ、養父6代目市川團十郎。代表作:弁慶(『勧進帳』)、民谷伊右衛門(『東海道四谷怪談』)、花川戸助六(『助六由縁江戸櫻』)(歌舞伎俳優)他。

*7:衆道の語源はここ。大衆(だいす)の道。意訳すれば、「お偉いお坊さんのやり方」といったとこでしょうか。

*8:ギリシャでは、女性とのセックスは動物的原始的本能の発現として忌避され、男色が推奨された

*9:秀吉の寝所に見目麗しき美少年を派遣したところ、「お前に姉妹はいないか」と訊かれ追い返された、というものですが、これが「笑い話」として後世に伝えられていることで、当時男色が武士階級では一般常識であったことが知れます。

*10:男子校出身ですが、少なくともウチでは一件も見聞きしませんでした。ホモって仇名の奴は何人かいましたけど。