脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『自叙伝㈠』

ウイルス検査拒否して帰宅した日本人2人、説得を無視…安倍総理「国内に帰った後も相当長時間にわたり説得した。人権の問題もあり、踏み込めないところもある」:ハムスター速報
お好きな称号をどうぞ。人間のクズ、国賊人非人、非国民etc。


 縁あって富裕層向けのフリーペーパーを拝読する機会があったのですが、そのテーマがずばり「愛人といく超高級旅行」。・・・うん、労働者革命って必要かもしれない。


DQⅪ進捗

  • デルカダール城台所の秘密通路発見。称号:エリート魔物キラー。

自叙伝 (1) (岩波文庫)

自叙伝 (1) (岩波文庫)

時には昔の話をしようか

河上肇
 明治十二(1879)~昭和二十一(1946)年。明治・大正・昭和期の経済学者・社会思想家。山口県出身。東京帝国大学卒業。
 卒業後、東大(農科大学)や学習院の講師となり、経済学の研究につとめ、ドイツ歴史学派の影響の下に国民経済学的な立場から、農業立国論を展開した。1905千山万楼主人の筆名で『読売新聞』に「社会主義評論」を連載して世間の注目をひいたが、しだいに利己と利他との矛盾に深く悩み、途中で擱筆し、一切の教職を辞して、伊藤証信*1の無我苑に入った。しかしまもなく伊藤の態度に失望してそこを去った。'07『日本経済新誌』を創刊し、田口卯吉*2の『東京経済雑誌』の自由貿易論に対抗して保護貿易論を唱えた。'08京大講師に招かれて経済学を担当、'09助教授。'13ヨーロッパに留学、その間に法学博士号を受け、'15帰国とともに教授。'16『大阪朝日新聞』に「貧乏物語」を連載し、第1次大戦後の好景気の裏側にひそむ貧乏問題を指摘し、多数の読者の注目を集めた。しかし、当時の河上は唯心論的な人道主義の立場にあり、貧乏問題を社会的問題としてとらえながら、その解決策を社会改造ではなく人心改造に求めた。これに対して櫛田民蔵*3堺利彦*4らが批判を行ない、これらの批判を契機として、急速にマルクス主義の立場に近づいていった。'19から個人雑誌『社会問題研究』を発行してマルクス主義史的唯物論・経済学)の研究と紹介につとめ、青年層に多大の影響を及ぼした。'20『近世経済思想史論』、'24『資本主義経済学の史的発展』、'28『資本論入門』『経済学大綱』、'30『第二貧乏物語』などの著作は、こうした学問的努力の成果として生み出された記念碑的業績である。'26学連事件の際家宅捜査をうけ、'28大学当局の圧力によって辞職した。これを契機に実践運動に入り、'29大山郁夫*5らと新労農党を結成したが、日本共産党の立場から新労農党の理論的誤りを認め、その解消を唱えて大山らと別れた。'32共産党の依頼を受けて〈32年テーゼ〉を翻訳、'32.9正式に入党した。'33.1検挙され学者として非転向の態度をつらぬき、'37.6まで獄中生活を送った。出獄後、京都に移ってからは閉戸閑人と称して『自叙伝』などの執筆に専念したが、敗戦後の日本共産党再建、民主主義運動の高まりのなかに'46.1.30死去した。著書はほかに『唯物史観研究』『社会組織と社会革命』『獄中贅語』『獄中日記』や翻訳『資本論』『賃労働と資本』などがある。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)


 偉大なるマルキニスト河上肇の自叙伝。第一巻たる本巻は大学入学までの幼少時代と無我苑時代に京大退官から新労農党樹立まで。何故か一番興味のある『貧乏物語』執筆の全盛期がすっぽり抜けています。なので、正直はぐらかされた感じはしなくもないですが、多分晩年の氏にとっては若気で汗顔の至りなんでしょう、きっと。
 内容は謙遜してんだか自慢してんだかの実に面倒くさい自分語りと、自身を批判的に批評してきた論文への痛烈な反論に、袂を分かった旧友へのねちねちとした嫌味と、作者の実に面倒くさい人柄は如実に表れています。この方出身校は東大なのに誰よりも京大生らしい性格しているんじゃないでしょうか。正直初読は確実に「うへぁ」ってなりますが、よく味わってるとスルメの様に味の出てくる珍味です。面倒くささを逆に楽しめる奇特な方は是非ご一読を。

通いなれたなじみのあの店

 歳とると若かりし頃の情熱のほとばしる快作が恥ずかしく見えてくるもんなんでしょうねと、時めいていたであろう京大教授時代を語ろうとしない河上肇をみていると強く思います。老成して芸風を変えてしまうクリエーターの方々黒歴史にするのはいいですけど、くれぐれも封印作品にはしないでくださいね。

紅の豚

紅の豚


時には昔の話を 加藤登紀子 紅の豚

帰ってきた今日の一行知識

マルクスは労働者を軽蔑しきっていた

そういやこの方インテリゲンツァの見本みたいな方でしたっけね。共産主義の矛盾の遠因はこんなところにもある気がします。

*1:清沢満之トルストイに影響され「無我之愛」を提唱。無我苑を創設し、世界連邦建設運動にも参加した

*2:衆議院議員。父樫郎、母町子。『東京経済雑誌』を創刊し自由主義経済を唱導。体系的文明史の確立に大功を残し、後には東京府市会議員や衆議院議員としても活躍した。代表作:『日本開化少史』(著作)、『国史大系』・『史海』(編纂)他。

*3:大原社会問題研究所員所属。『大阪朝日新聞』の諭説委員として頭角を顕し、同志社・東京帝大の講師となるも森戸事件に連座し辞職。マルクス経済学の日本での普及につとめ、労農派の論客としても活躍した。代表作:『マルクス価値概念に関する一考察』他。

*4:東京市会議員。『万朝報』の論客として活躍し、日本社会党日本共産党の結党にも参加し、日本の社会主義運動を終始リードした。

*5:衆議院議員。父福本剛策、養父大山晨一郎。その後『大阪朝日新聞』の論説記者として政府批判の論陣を張るも白虹事件により辞職。早大教授としてデモクラシー思想の普及に尽力するも、労働農民党委員長となり大山事件を引き起こす。同党解党後は労農党を創設して戦前の合法左翼運動をリードした。戦後も平和運動を主導。