脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『吉田松陰〜変転する人物像』

http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-27206.html
ちょっと投票しちゃいそうになった自分が嫌だ。

 
 PS3とTVまで買ったら見事に金欠に。これから迎える忘年会&出版ラッシュをどうやって乗り切ろう。


SRWOGⅡ進捗

  • 第15話「シュテドニアス追撃」シュテドニアス軍と交戦中。トップエース:キョウスケ=ナンブ@アルトアイゼン・リーゼ。

吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)

吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)

松の雫は久坂に宿り花は桂の枝に咲く

吉田松陰
 天保元(1830)〜安政六('59)年。幕末期の勤王派志士・思想家・教育者。長州藩杉百合之助常道*1の次男、母は滝子*2、吉田賢良*3の養子。長州国萩出身。諱:矩方、幼名:虎之助、のち大次郎・松次郎、通称:寅次郎、字:義卿・子義、号:二十一回猛士、変名:松野仙三郎・瓜中真二。
 吉田家は代々山鹿流兵学師範で、禄高57石6斗。9歳で藩校明倫館に出勤して教授見習となる。その後、13歳の時玉木文之進*4が松本村新道に住し松下村塾を起こすと、1845より指導を受ける。'51兵学実地研究の為東北旅行をし、その後、各地を遍歴して見聞を広めた。'54下田に行きアメリカ船に乗込もうとしたが失敗、捕えられて幽閉された。のち野山獄に移され、'55免獄、杉家に禁錮された。'56『七生説』を著し、次いで'57藩の許しを得て松下村塾を開き、門人の育成に努力。兵学儒学を講じ時事を論じたが、そこでの教育は詩文を排し、明利の為の学や顧問の学を否定し、述志の人生の学を説いた。中でも修己治人の学、国家経世の学を説いた。間部詮勝*5要撃を策して安政の大獄連座、再び幽閉され、江戸伝馬町に入獄、その獄中で『留魂録』を著わす。'59.10.27獄中で刑死した。小塚原に葬られたが、その遺骸は門人の手で世田谷の若林に運ばれ、葬られた。'89贈正四位。(『コンサイス人名事典 改訂新版』より引用)


坂本竜馬と並ぶ幕末の過大評価偉人の双璧吉田松陰の伝記の評論。革命家・教育者・勤皇家・思想家と時代に応じて好き勝手に理想像を投影される彼の伝記の時代ごとの類型を紹介。実に熱くてそれでいて見事にとっ散らかった松陰の美文がどれほど人を引きつけ、各人の勝手な解釈のおもちゃにされてきたかを丁寧に解きほぐしてくれています。そういう作者も、松陰に部落解放に先鞭をつけた平等主義者という俺的妄想を押し付けている辺り、松陰の毒の中毒性は大分根が深そうです。

憂国の夢草莽に果つるとも

 小学生の修学旅行で松下村塾へは行きましたが、若干12才にして松陰に心酔するなかなかの変わり者がクラスメイトにいたのを懐かしく思いだします。私もそんな風に幼少期に心の師と仰ぐ偉人と出会えていたら、今はもう少し全うな人間になれていた気もします。やはり若かりし頃の情念の暴走ってのも大事ですね。ちなみに私が思春期に信者にやってた方々と言えば小林よしのり山本弘井沢元彦友野詳唐沢俊一辺り・・・。生まれ変わったら、太宰や川端や安吾あたりに耽溺できる立派な文学少年になりたいもんです。

無錫旅情

無錫旅情

帰って来た今日の一行知識

松下村塾吉田松陰が開設したものではない
叔父の玉木文之進天保十三(1842)年に開設。それを久保五郎左衛門が継いで、安政四(1857)年に当時実家で幽閉中の松陰が譲ってもらったという流れ。なので三代目塾長にあたるんですね。ずっと塾名が号の由来*6だとばかり思ってました。

*1:国相府内用方。父常徳。無給通組の半士半農の極貧生活ながらも藩職に精励。安政の大獄連座し罷免されるも、松陰の名誉回復に伴い復職。

*2:養父:児玉太兵衛。子に修道他。

*3:山鹿流兵学師範。父杉常徳。

*4:正韞。郡奉行。父杉常徳、養父玉木正路。松下村塾を開き吉田松陰乃木希典らを輩出。代官職を歴任するも、安政の大獄連座し罷免。松陰の名誉回復に伴い復職するも、萩の乱連座し自害。

*5:越前鯖江藩第7代藩主。侍従。父間部詮煕、母永田氏、養父間部詮允。旧名:詮良。家斉の寵愛を受け累進するも水野忠邦に疎まれ失脚。後復権安政の大獄に奔走。「間部の青鬼」と呼ばれる辣腕を揮うも、逮捕者の処断方針を巡って、井伊直弼と対立し再度失脚した。

*6:三条土下座の銅像で有名な高山彦九郎諡号「松陰以白居士」が元ネタ。