脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

宮島さんと安藤健二と才谷梅太郎について

【悲報】電車、つぎつぎ止まる【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】
暫くは電車の時刻表信用できそうにありませんね。


 夜更かしもしくは早起きするとその晩全く起きてられなくなりました。13時間睡眠*1ニート時代以来な気がする。


競馬進捗・・・H28収支-20430

  • グリーンS・・・軸エイティ−タラント+1170
  • 大沼S・・・軸モンドクラッセ-190

生まれ変われるあしたが欲しい…

宮島さんの神主が

宮島さんの神主がおみくじひいて申すには - 脱積読宣言

宮島さん
唄:南一誠*2・嶋田トオル*3、作詞:有馬三恵子*4、作曲:宮崎尚志*5
広島東洋カープ応援歌
歌詞はこちら


 これを歌えなきゃ広島人とは認めないシリーズその2。2番で入れられる「ワッショイワッショイ」の合いの手と最後のバンザイ三唱が印象的。カープが得点を挙げた時に歌う応援歌なのですが、一昔前までは、安定感を欠く投手陣のお蔭で、高らかに歌い上げた直後にあっさり大逆転とか、大差つけられてた状態からのヤケクソの大合唱とか、正直あんまいい思い出がありませんでした。最近は逆に劇的な逆転勝ちも多く、歓喜の歌としての本来の役割を果たしてくれてます。今年こそは、優勝決定のその瞬間にこれを歌い上げたい物です。

それ行けカープ~広島東洋カープ Stadium Sound Track

それ行けカープ~広島東洋カープ Stadium Sound Track

安藤健二

禁じられた遊び pt2 - 脱積読宣言

安藤健二
 昭和五十一(1976)年〜。日本のノンフィクション作家・ジャーナリスト。埼玉県出身。「『封印』シリーズ」と銘打った、ルポルタージュものを得意とする。趣味はDTM。主に、漫画や特撮番組、アニメ、ビデオゲームなどの「封印作品」を論証の対象にしている。早稲田大学第一文学部出身。大学在学中に、ウェブサイト「反動!」を開設。自分の実名を公開した上で、神戸連続児童殺傷事件で犯人の少年*6の写真や本名を掲載した雑誌の流通自粛に反対していた。卒業後は産経新聞社に入社。さいたま総局などで記者業務を務める。記者と並行しながら『封印作品の謎』を執筆していたが、異動を機に、執筆活動に専念するために2004.2産経新聞社を退社。初単行本『封印作品の謎』を出版した。その後、BLOGOSを経て、ニコニコ動画に勤務。'13ハフィントン・ポストに転じる。(wikipediaより引用)

 
 問題作『封印作品の謎』でセンセーショナルなデビューを果たしながら、後が続かずあの人は今・・・状態になっていた彼ですが、BLOGOSやニコニコ動画を経て、現在はハフィントンポスト勤務。産経新聞社勤務時に上梓した上述の『封印作品の謎』は記者らしい冷静で硬質な文体ながらも熱を感じさせる名文だったのですが、専業作家になってからは締め切りに追われてかやっつけ感漂う薄っぺらな文章になってしまったのは残念。立派なノンフィクション作家になってくれると期待したのになあ。ネットで持ち上げられすぎて、うかつにそれに乗ってしまうとこうなるって典型のような方ではないでしょうか。

パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)

パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)

坂本龍馬+才谷+ペンネーム

ハネウマライダー - 脱積読宣言

坂本龍馬
 天保六(1835)〜慶応三('67)年。幕末の志士。高知出身。郷士直足*7の二男。諱:直柔、変名:才谷梅太郎
 1853江戸に出て北辰一刀流千葉定吉*8に入門。'61.9武市瑞山*9土佐勤王党に参加する。'62.3脱藩して江戸に出て、勝海舟*10の塾に入る。'64神戸海軍操練所設立に尽力し、海軍航海術を学ぶ。'65鹿児島藩の保護下に長崎で亀山社中(のち海援隊)を経営して海運業に従事。中岡慎太郎*11らと共に木戸孝允*12西郷隆盛*13の間を斡旋し、'66.1薩長連合を成立させ、第二次長州戦争には長崎で鹿児島藩名義により武器を購入し、下関に回送した。'67脱藩を許され藩公認下で活動。新政の構想である「船中八策」をまとめあげ、藩参政後藤象二郎*14に説き、山内豊信*15を動かして大政奉還を実現させたが、京都近江屋で中岡と共に暗殺された。(『新潮日本人名辞典』より引用)

才谷梅太郎
 楳太郎。龍馬の変名のひとつ。
 初出は慶応二年一月三日付の久保松太郎*16にあてた手紙とされていたが、これは1867.1.3出された木戸孝允あてのものと同時に記されたものと考えられ、同二年一月一六日付の溝淵広之丞*17にあてた手紙で用いられたのが最初となる。'66.1薩摩と長州の間で「商社示談箇条書」が作成され、互いに国名を名乗らず、商家の名号、つまり屋号を用いることとされた。龍馬にとって屋号とくれば、すぐに「才谷屋」が浮かぶ。この条約をきっかけとして、才谷姓が用いられるようになったのだろう。
 名前の梅太郎も、このときが初出だが、伏見の寺田屋お登勢*18にあてた翌年二月一三日付の手紙には「うめより」と記されているが、文末には返事を才谷梅太郎あてによこすように書いている。前年一一月二〇日付の手紙では「龍」と署名があり、寺田屋では龍馬が才谷梅太郎と変名していることを知らなかったことになる。しかし「うめ」では通じるのであるから、龍馬は寺田屋ではたんに"梅"とよばせていた可能性がある。
 '64お龍*19寺田屋の世話になると、身を隠すため「お春」とよばれたという。漢詩よりも和歌に通じていた龍馬にとって、春の花といえば桜でなく梅を思い起こすのはごく自然で、ここからお龍の「春」に対して「梅」を自称していたものとも思われる。したがって、才谷を名乗るさいにも簡単に梅太郎の名前が導かれたのあろう。なお、慶応二年四月二七日付と推定されているお登勢あての手紙は、'67.5中旬と考えられている伊助*20あての手紙と同時期に記されたものと思われる。(『坂本龍馬大事典』より引用)

ペンネーム
 文筆家が作品を発表する際に用いる本名以外の名。筆名。(『広辞苑 第五版』より引用)


 みんな大好き坂本龍馬が最晩年、薩長同盟の斡旋に奔走するようになる頃から使われるようになったペンネームというか変名が才谷梅太郎。使用開始の時期や由来の分析は上記引用の『坂本龍馬大事典』の記事が詳しいので省略。一介の草莽の志士から脱皮して維新回天の立役者の一人として活動していた時期に使っていた変名なので、回想録ではない同時代資料では殆どこっちの名前で出てきます。歴史のIFとして、龍馬が近江屋で凶刃に斃れなければ、もしかしたらこっちの名前「才谷梅太郎」の方が「本名」になってかもしれませんね。もしそうだったら、絶対に今ほどの人気は出てなかっただろうなあ、きっと。やっぱり「名前」は重要です。

私塾・坂本竜馬

私塾・坂本竜馬

未練という名のこころの霧はいつになったら晴れますか

安芸の宮島

安芸の宮島

帰ってきた今日の一行知識

「宮島さん」は元々広陵の応援歌
「出世」と言っていいんですかね?

*1:18時〜翌7時

*2:IMOプロダクション所属。代表作:「それ行けカープ」、「広島天国」、「三景の女」他。

*3:元サーカスメンバー。代表作:「東京ラプソディー」他。

*4:代表作:「17才」、「小指の想い出」、「他人の関係」他。

*5:代表作:『さびしんぼう』(音楽)、「コカ・コーラの歌」・「それ行けカープ」(作曲)

*6:西岡真。旧名:東慎一郎。酒鬼薔薇聖斗を名乗り、神戸連続児童殺傷事件を起こし逮捕起訴。少年法に対する議論を巻き起こした。代表作:『絶歌』(手記)他。

*7:土佐藩郷士。父山本覚右衛門。幼少より槍術に秀で免許皆伝。坂本家に婿入り後は経営手腕を発揮し、才谷屋を「城下公方」と呼ばれる程の大店に育て上げた。

*8:鳥取江戸屋敷剣術師範役。父成胤。兄周作と共に玄武館の立ち上げに尽力、その後独立し桶町に道場を開き、「小千葉」と称された。その剣名は兄にも勝るとも劣らず、坂本龍馬伊東甲子太郎らがその門を叩いた。

*9:小楯。土佐藩京都留守居役。父正恒、母大井氏。通称:半平太。尊攘運動に献身し、土佐勤皇党を組織、吉田東洋暗殺により藩政を掌握するも、八月十八日の政変にて失脚。京都での天誅実行の走狗だった岡田以蔵の自白により賜死。

*10:安芳。初代海軍卿。伯爵。旧名:義邦。父小吉、母信。咸臨丸艦長として渡米し、新知識を吸収、幕臣でも有数の開明派として、第二次長州征伐の和平交渉や江戸城無血開城など、朝廷・雄藩のちには新政府との融和に奔走。「幕末の三舟」に数えられる功績を挙げた。

*11:道正。陸援隊々長。正四位。父小伝次、母はつ。土佐勤王党に参加し尊攘運動に傾倒。勤王党崩壊後は長州藩尊攘派に帯同し、龍馬と共に薩長同盟を斡旋。帰藩後は薩土同盟の実現に奔走し、奇兵隊に範をとった陸援隊を組織するも、近江屋事件に巻き込まれ横死。

*12:第2代内務卿。従一位。父和田昌景、養父桂九郎兵衛。通称:小五郎。幕末には薩長同盟締結に尽力し、維新三傑に数えられる程の功を挙げる。新政府でも五箇条の御誓文の起草や、版籍奉還廃藩置県の提唱などで活躍。穏健派として大久保と西郷・大隈らとの対立の仲介を期待されるも、果たせぬまま病死。

*13:参議。陸軍大将。父吉兵衛。旧名:隆永。斉彬の知遇を得て累進も、次代の久光には疎まれ逼塞。盟友の大久保らの奔走により藩政復帰後は薩軍を率い禁門の変や第一次長州征伐などで活躍。薩長同盟後は新政府軍の大将格として戊辰戦争に勝利。維新の三傑の名を不動のものとする。しかし、新政府では不遇で明治六年の政変で失脚下野後、不平士族の旗頭として蜂起。西南の役を招き敗死。

*14:第2次伊藤内閣農商務大尽。伯爵。父正晴。叔父吉田東洋の推挙により山内容堂に仕え累進。薩土盟約の締結や大政奉還の建白などの功を挙げる。新政府では要職に就くも明治六年の政変で下野。愛国公党自由党に参画し自由民権運動に身を投じるも、大臣の椅子に目が眩み離反し、黒田内閣の逓信大臣となる。続く第二次伊藤内閣にも農商務相として続投するも、商品取引所設立にまつわる汚職事件に連座し失脚下野。

*15:高知藩第15代藩主。権中納言。父山内豊著、母平石氏、養父山内豊惇。号:容堂。吉田東洋を登用し藩政改革を実行。雄藩の一つとして将軍継嗣問題や公武合体運動に介入。大政奉還を建白し、新政府と幕府の本格衝突を回避した。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄される柔軟な方針で激動の幕末期を泳ぎきり、幕末の四賢侯の一人に数えられる。

*16:松下村塾に学び、木戸孝允の片腕として維新後の長州藩の経営に携わった。

*17:義直。土佐藩持筒役。千葉定吉佐久間象山に師事。同門の縁から龍馬を後藤象二郎に仲介した。

*18:寺田屋女将。寺田屋伊助夫人。父大本重兵衛。放蕩者の夫に変わり寺田屋の経営を一手に担う。尊攘派志士を多く保護し、寺田屋事件などに巻き込まれながらも、坂本龍馬らと親交を結んだ。

*19:西村松兵衛夫人。父楢崎将作。天誅組の賄いをしている時に龍馬と知り合い、その斡旋により寺田屋に奉公。伏見奉行所の襲撃から龍馬を助けたのが縁で龍馬と結婚。龍馬死後は龍馬関係者の下を転々とし、旧知の商人西村松兵衛と再婚。一子をもうけるも夭折。失意のまま病死。

*20:寺田屋6代目主人。放蕩が祟り家業を傾けた為、寺田屋の実権を妻お登勢に牛耳られた。