脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦争の日本史3〜蝦夷と東北戦争』

広島のベテラン嶋と西武・江草の交換トレード成立 - ぐう速
これで第二次山本政権下の打線はほぼ壊滅でしょうか?4.5年前にさんざ苦しめられ、新井FAの際には獲得希望選手の筆頭だった江草の入団はとてもうれしいんですが、それでも嶋がいなくなるのは淋しいなあ。


 偽善とは知りつつも。図らずもわだつみの人身御供となってしまった無辜の3万の魂に安寧のあらんことを。黙禱・・。


魔装機神Ⅱ進捗

  • 2周目第32話『簒奪者オンガレッド』南部シュトデニアス軍と交戦中。トップエース:マサキ=アンドー@サイバスター

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

魂の右半分は東北でできているんだぜえ

蝦夷
 古代、東北地方・新潟県から北海道にかけての地域の住民を律令国家側から呼んだ呼称。毛人・蝦【虫夷】とも書く。語源については、人という意味のアイヌ語エンジュ・エンチュウから来ているとみる説や長い髭を持つ蝦夷をエビ(蝦)に擬えたとする説、「弓師」という日本語に起源すると見る説などがある。
 蝦夷は文化的には一様ではなく、居住域の南部(現宮城・山形・新潟県域)では基本的に東国と同質であるが、北海道の蝦夷(渡島蝦夷)は続縄文・擦文文化など北方系文化を保有した。古代蝦夷の主要部分を構成する両者の中間の地域(現青森・秋田・岩手県域)の蝦夷は両系統の文化を併せ持ち、稲作農耕・土器製作などの物質文化は概ね南方系統を受け入れたが、言語・宗教・喪葬などの基層文化は北方系統を保持していた。
 蝦夷と呼ばれた人々は、このように多用な実態を持つが、古代国家は華夷思想の影響の下に、その内一般の倭人と文化的に異質な部分を意図的に強調し、蝦夷は狩猟を生業として農耕を行わず、野蛮で道徳を弁えない、異俗・異相の民であると喧伝して、その征服・同化政策を正当化しようとした。
 蝦夷社会は族長に率いられた小規模な「村」から構成され、政治的には統合されていなかった。しかし律令国家との対立が先鋭化して武力衝突が起こると、広範囲の蝦夷村が同盟を結び、結束して戦った。律令国家による蝦夷支配は、当初は集団ごとの服属・朝貢によって拡大・維持されていったが、大化の改新以降は境界領域における城柵の設置と柵戸の導入を基軸とした領域支配の拡大策が組織的に行われる。724多賀城が新たな陸奥国国府として建置、同時に鎮守府も併置されて蝦夷支配の拠点となった。これに対して蝦夷はしばしば反乱を起こして抵抗した。8世紀初めにも断続的に蝦夷の反乱が起きているが、最も大規模で長期に亙ったのは、774海道の蝦夷の桃生城への襲撃に始まり、811文室綿麻呂*1による征討まで続いた、所謂三十八年戦争である。この戦争では広範囲の蝦夷が連合して頑強に抵抗したが、801征夷大将軍坂上田村麻呂*2の征討で大勢が決し、胆沢城・志波城が築かれて制圧された。その後も蝦夷の抵抗・反乱は陸奥国奥郡・秋田城などで起こるが、中央政府が在地の蝦夷系豪族の支配力を利用する政策に転換したことで次第に鎮静化、やがてその中から安倍・清原氏といった在地勢力が成長してくる。また、10世紀初頭には鎮守府胆沢城の管都として奥六郡が成立し、更に12世紀には陸奥国北部の津軽・糠部地方にまで郡が建てられる。こうした流れの中で、蝦夷の居住地として独自の文化的・政治的領域を構成していた東北地方北部が東北地方南部と同質化していき、その住民も蝦夷とは呼ばれなくなっていく。また、12世紀には夷島(北海道)を中心とした中世的なエゾ観念の成立を見る。(『岩波日本史辞典』より引用)

 和銅年間の征夷から承和の奥羽騒乱までの約150年弱の東北方面での蝦夷との抗争を三十八年戦争を中心に描く本作。資料上の制約から蝦夷側の事情は殆ど描かれず、中央朝廷の都合と思惑が主題となっているので、アイヌの源流を求めるなんて用途にはちと不向きかと。古代の戦争特に対外戦争は戦記ものとしてのブラッシュアップがされてないので正直物語として楽しむのは困難です。
 そんな読み手の勝手な都合を置いとけば、読みやすさと議論の重厚さを併せ持つ立派な入門書。天武系から天智系への皇統転換に伴う支配の正当性の動揺への回答として王都造営と蝦夷征討が企図された、という定説を補強する議論の展開は非常に分かりやすく面白いものでした。早良親王の祟りで長岡京遷都計画が頓挫し、阿弖流為の活躍で紀古佐美率いる征夷軍も撃退されるなどけちのつきまくっていた桓武帝にとって、阿弖流為を打ち破り胆沢城の奪還を果たし、平安京の杮落としに最高の華を添えてくれた坂上田村麻呂はどんなに頼もしかったことでしょう。彼が古今無双の英雄の一人と称えられている理由が何だかわかった気がします。

オレのリズムは東北のリズム都会っ子には腰に来るらしい

 日本は単一民族国家ではない。左巻きの方からよく聞かされるお説教ですが、本当にそうなのでしょうか。出雲に隼人に蝦夷アイヌ琉球大和民族が併呑して来た周辺民族の方々には大変申し訳ないことですが、ヨーロッパの辺りのほんまもんの多民族国家に比べれば、正直誤差の範疇の民族の同一性でしょう、そんなことより、今我々が考えねばならぬ民族問題はそんな瑣末なことではなく、大和民族中華帝国少数民族に堕さぬ為の努力と、在日に代表されるノイジィマイノリティーの中枢侵食への警戒でしょう。願わくは、半世紀後も単一民族国家日本の看板を降ろさずに済んでいますことを。

荒ぶる日本の魂たち

荒ぶる日本の魂たち

帰って来た今日の一行知識

初代征夷大将軍坂上田村麻呂ではなく大伴弟麻呂
日本紀略延暦十三年一月一日条が「征夷大将軍」の初出で、田村麻呂の就任より3年ほど遡ります。知ったかのクイズ番組の問題作成担当はくれぐれもお間違いのなきよう。このご時世、教科書と新聞は信用してはいけません。

*1:近衛大将従三位。父三諸大原薬子の変連座するも、坂上田村麻呂の奏請により復権。その後、陸奥按察使として蝦夷の反乱鎮圧に功あり、従三位まで累進した。

*2:大納言。正三位。父苅田麻呂。武術をよくし、征夷大将軍として東国の蝦夷を鎮圧。胆沢城造営などで日本国の領域を確定した後、中央に戻り大納言まで累進した。