脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『明治・大正の宰相 第1巻〜伊藤博文と維新の元勲たち』

ちょっとアレなニュース 自民党 「国防軽視の方針を改めるよ 巡航ミサイル配備して武器輸出もおkにする 自衛隊世界最強にする」
道路が駄目なら兵器を作ればいいじゃない。


 少し前の話になりますが、麻雀好きの後輩の結婚祝いに鷲巣牌をプレゼントしました。以下新婦(これも後輩)に頭を下げて新郎を四次会に連れ出して打った時の感想。

  • 処理すべき情報量が増えすぎてともかく疲れる
  • ツモがめんどい
  • 上家・下家の手牌が見づらい
  • 結論:ぐでんぐでんに酔っ払って明け方にやるもんじゃない


SRWZ進捗

  • スペシャルモード第31話「引き裂かれる過去」アサキム豹変。トップエース:ランド=トラビス@ガンレオン

明治・大正の宰相〈1〉伊藤博文と維新の元勲たち

明治・大正の宰相〈1〉伊藤博文と維新の元勲たち

固い決意が僕らにあるよ

伊藤博文
 天保十二(1841)〜明治四十二(1909)年。明治時代の指導的政治家。百姓林十蔵*1の子、萩の足軽伊藤直右衛門*2の養子。周防国熊毛郡束荷村出身。幼名:利助→俊輔、号:春畝。
 初め松下村塾に学び、木戸孝允*3に従い尊皇攘夷運動に参加。1863井上馨*4らと密かに渡英した。四国連合艦隊の下関砲撃の報を聞いて帰国、列国と講和を結ぶのに尽力。以後討幕運動に従い、薩長連合成立と共に高杉晋作*5の下に接薩副使となる。維新政府の成立に際して参与・外国事務局判事・大阪府判事・兵庫県知事・大蔵小輔兼民部小輔・工部大輔となり、'71岩倉具視遣外使節団の副使として欧米を視察、帰国後は征韓論を制圧し、参議兼工部卿となり、大久保利通*6の死後は内務卿として政府部内に地歩を固め、更に'81「明治十四年の政変」により対立者大隈重信*7を政府から追放し、最高指導者となった。'82憲法取調べの為渡欧し、プロシア憲法を学んで帰国。以後、華族制度・内閣制度の創設、大日本帝国憲法皇室典範の制定、枢密院設置など、天皇制確立の為に努力した。'85内閣制度創設と共に初代総理大臣となり、また枢密院議長として政治を運営した。'92第二次内閣を組織し、行政管理・条約改正・海軍拡張を行い、日清戦争を強行。'98第三次内閣を組織したが、憲政党の反対に遭い半年で崩壊。このことから政党組織の必要を感じ、1900立憲政友会を組織し、総裁となる。'00第四次内閣を組織したが、'01辞職、三度枢密院議長となる。日露戦争後、'06日韓協約を結び、初代韓国統監となり併合強行への第一歩を踏み出した。'09満州(中国東北地方)視察と日露関係調整の為中国に渡る際、ハルビン駅頭で朝鮮独立運動安重根*8に暗殺された。(『コンサイスに本人名事典 改定新版』より引用)

 以前感想書いた「昭和の宰相」シリーズの明治大正編。近代日本の最も熱い時代だけに、宰相たちのスケールのその分大きくなっています。
 その筆頭を飾るは勿論この人。近代日本最高の偉人伊藤博文閣下。若干三十代にして早くも維新の元勲たちに伍して新時代のアウトラインを描きだす姿には心から頭が下がります。この巻で扱われているのは大政奉還〜第一次伊藤内閣発足まで。西南戦争を折り返し地点に前半は木戸大久保の改革派VS岩倉三条の保守派の争い、後半は伊藤を筆頭とする新政府に対する大隈板垣の民権派の抵抗という構図となっており、全体的に西郷や山県のような武断派の連中の出番は少なくなっています。ファンの方は残念でした。兎も角周りの勝手に振り回されながらも、頑張って内閣制度完成にこぎつけた伊藤の奮闘が実に涙ぐましいお話となっていますので、功績の割にはなんだか扱いの悪い偉人中偉人の青年時代の奮戦記として楽しむのが一番でしょう。十万円札は聖徳太子に譲るとしても、将来の五万円札の肖像は伊藤博文さんこそが相応しいと思います。

走り始めた伝説達とともに

 明治維新を成し遂げた英雄達は皆三十前後の若者だった。とはよく言われることですが、現在の閉塞状況を思うに、やはり破壊を伴う改革には既得権益とは無縁の徒手空拳の若者の失う物のない恐れを知らぬがむしゃらさこそが必要とされるのではないでしょうか。富の殆どを何の建設的生産能力を持たぬ老人に牛耳られている今こそ、団塊の世代のみなさんの愛した革命を起こすべき時です。学生紛争の闘士のみなさんはまさか今になって革命を否定したりはしませんよね。

Get over the Border!~JAM Project BEST COLLECTION VI~

Get over the Border!~JAM Project BEST COLLECTION VI~

帰ってきた今日の一行知識

「板垣死すとも自由は死せず」は板垣本人の弁ではなく、側近の発案によるもの
よく考えれば本人にそんな余裕あるわけありませんよね。この事件に事寄せて自由党の伸長を図った幹部たちの大宣伝で現在のように人口に膾炙するようになったのが真相のようです。

*1:養父:水井武兵衛。

*2:養父:伊藤弥右衛門。旧名:水井武兵衛。

*3:第二代内務卿。父和田昌景、養父桂九郎兵衛。旧名:桂小五郎。維新においては薩長同盟を実現にこじつけるなどの維新の三傑の一人に数えられるほどの功績を挙げる。新政府でも長州派の筆頭として廃藩置県を主導するなど新国家の基盤作りに尽力。

*4:第三次伊藤内閣大蔵大臣。侯爵。父光享。通称:聞多。高杉や久坂らと共に長州藩尊皇攘夷運動を主導。新政府では伊藤派のNo2として外交・財政に辣腕を揮い、元老として重きを為した。

*5:春風。父小忠太、母みち。号:東行。松下村塾三傑の一人と称えられるほどの俊才。奇兵隊を組織し長州藩守旧派を駆逐し、長州征伐撃退の原動力となる。

*6:第1・3・5代内務卿。父利世、母(皆吉)福。維新の三傑の一人として、明治初年度の国政を主導。西南戦争を鎮定するも、不平士族の恨みを買い紀尾井坂にて暗殺。

*7:第8・17代内閣総理大臣。侯爵。父信保、母三井子。佐賀藩の代表として明治初年度の外交財政を主導するも、明治十四年の政変で下野。立憲改新党を組織し政党勢力の代表として自由民権運動の進展に尽力。第一次の内閣は閣内不統一により短命に終わるも、第二次内閣では第一次世界大戦を戦い抜いた。

*8:안중근。日露戦争以降の大韓帝国への日本の容喙に憤慨し、抗日義兵闘争を組織。遂にはハルピンにて伊藤博文を暗殺するに至り、刑死。