脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『大隈重信と第一次世界大戦〜明治・大正の宰相 第6巻』

エムブロ!|エラー!
十五年戦争中の亡国の宰相連を除けば、戦前は米騒動&シベリア出兵の寺内正毅、戦後は片山哲&村山富市社会党コンビ。鳩山由紀夫大先生もポテンシャルは相当高そうですが、くれぐれも期待に応えないでくださいね。


 二周りは上のお姉さま方が主力のわが職場に入ってきた24歳の男の子と飲みました。感想:嗚呼、若い子はいい。


SRWZ進捗

Burning Heart Over the World !

大隈重信
 天保九(1838)〜大正十一(1922)年。明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保*1、三井子*2の長男。
 1844藩校弘道館に入学したが、朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち、学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキ*3に会い、世界への眼を開かれ政治家になることを決心し、自ら英学塾を設けて青年を教育した。'63下関外国船砲撃で長州藩援助を企て、'64長州征討で、藩主鍋島直正*4を担いで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗、また'67将軍徳川慶喜*5に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが、捕らえられ謹慎処分を受けた。
 '68.3徴士参与職、外国事務局判事として長崎に在勤、キリスト教徒処分で英国公使パークス*6とわたりあって勇名を馳せ外国官副知事に抜擢された。'69会計官副知事、次いで大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くし、'70参議に昇進。'73大蔵卿に就任してから'81.10政変で辞任するまで、地租改正・秩禄処分や殖産興業政策を進め、大隈財政を展開して資本主義の基礎を築いた。この時三菱汽船会社を援助し、三菱財閥との密接な関係を作ったことはよく知られている。'81.3「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し、更に開拓使官有物払い下げに反対して薩長派と衝突し、'81.10政府を逐われた。(明治十四年の政変)
 '82.4立憲改進党を結成して総理となり、'82.10東京専門学校(現:早稲田大学)を創立し、「学の独立」を掲げて青年教育に当たった。'88外相となり、黒田内閣で条約改正を担当したが反対され、'89.10玄洋社*7に爆弾を投げつけられて右脚を失い辞職。'98板垣退助*8と共に憲政党を結成、史上最初の政党内閣を組織したが、党内抗争と薩長派の妨害で4ヶ月で総辞職した。1907政界を引退して早大総長となり、文明協会を創立して欧米の名著を翻訳出版し、雑誌『新日本』・『大観』を発行、多数の著書を刊行するなど、文化運動に励んだ。大正初年に憲政擁護運動が起こると政界に復帰し、'14.4第二次大隈内閣を組織して第一次世界大戦に参加、'15中国に21ヶ条の要求を押し付けて内外から批判され、'16.10辞職した。大隈は磊落・楽天的な人柄で「民衆政治家」と親しまれたが、他方では「早稲田の大風呂敷」などという陰口もされた。(『朝日歴史人名辞典』より引用)

 本巻の管掌はシーメンス事件から寺内内閣組閣まで。大正前期の列強国入学試験受験時代。伝記と戦記に定評のある豊田穣の筆になるだけあって、大隈重信伝と第一次世界大戦記に終始している感もありますが、真の列強への最後のワンステップを拙速に駆け上がろうとした皇帝ヴィルヘルム2世の蹉跌や、若くして維新の三傑に伍し、伊藤・山県らと切磋琢磨し、そして最後には原敬の壁として立ちはだかった偉大なる「ライバル」大隈重信のサブストリームの誇りなど見所は満載。大隈伝のクライマックスが隈板内閣成立と崩壊だったり、第一次世界大戦では日本は完全なるモブだったりするのはケンチャナヨ。正直1910年代前半の日本政治史の教科書とするにはかなり脱線していますが、シリーズのコンセプトだの前任者の志だのを度外視すれば非常に楽しめる一冊です。面白いは正義の精神で楽しみましょう。

Fly awy Top of the World !

 日清日露の両戦役の勝利で生まれ変わった「一等国」日本の本格雄飛の時代。というか、ヨーロッパの旧き大国の凋落の時代。がこの時代ですが、それから丁度100年になりなんとする現在、再び同じ構図が訪れているのではないのでしょうか。崩壊する古き超大国アメリカと着々と時代の覇権へのステップを登る新興国中国。果たして日本はこれから迎える波乱の時代をどう乗り越えるのでしょうか。できれば海が本格的に時化る前に有能な船頭に交替してもらいたいんですがね。

帰ってきた一行知識

歴代宰相で最長身は大隈重信の180cm
因みに次点は中曽根康弘の178cm*9。因みに最近20年のアメリカだと小ブッシュが180cmな以外みんな180代後半*10。こう見るとやっぱし日本人は小柄なんですね。

*1:石火矢頭人。300石。父満辰。

*2:父杉本牧太。

*3:Guido Herman Fridolin Verbeck。明治学院神学部教授。オランダ改革派教会の宣教師として来日。布教の傍ら、長崎で英語や工学などを教授し、大隈や副島らの雄飛の下地を作った。

*4:第10代佐賀藩主。大納言。父斉直、母池田治直女。旧名:斉正。号:閑叟。藩政改革を成功させ佐賀を雄藩にのし上げる。幕末期には。穏健派だったため積極的な活動こそ見られないものの、その開明先進的知識を活かして後進の育成に尽力。明治初年の薩長土肥の一角を担う礎を築いた。

*5:徳川幕府第15代将軍。公爵。父水戸斉昭、母文明夫人、養父一橋昌丸→徳川家茂。旧名:昭致。権現様の再来とすら謳われる英明を愛され、徳川家定の後継に擬せられるも、南紀派の妨害により失敗。家茂の死後将軍職を継承するも、時既遅く時流に押され大政を奉還。徳川幕府250年の歴史に幕を下ろした。

*6:Sir Harry Smith Parkes。英国駐清公使。中国領事館に勤務し、アヘン戦争やアロー戦争で活躍。その功績を認められ駐日全権公使として赴任。親薩長の立場を貫き明治新政府樹立と本国イギリスの権益確保に尽力した。

*7:来島恒喜。中江兆民に師事し、筑前共愛会や玄洋社に参加。大隈の拙速な条約改正交渉に反対して爆弾を以って襲撃し、その場で自害。

*8:第二次伊藤内閣内務大臣。伯爵。父乾正成。土佐陸軍を率い戊辰戦争で活躍。明治新政府の要職を歴任するも征韓論に破れ下野。自由民権運動にその身を投じ、自由党を建党。政党政治の実現に尽力するも、党内抗争によりその影響力は漸減、立憲政友会の成立と共に政界引退。

*9:以下177cmの近衛文麿(180cm超説もあり)や175cmの森喜朗安倍晋三麻生太郎辺りが続きます。

*10:パパブッシュ188cm、クリントン189cm、オバマ186cm。