脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『明治・大正の宰相 第8巻〜加藤高明と大正デモクラシー』

http://alfalfalfa.com/archives/14138.html
ー8点。俺の青春は悲しくなんか無いもん(泣)。つーかこの判定、男子校で文化部って時点で敗北確定なのは気のせい?


 最近だんだん色々と投げ遣りになってきました。見るものさえ見届ければもう京都はいいや。さあー広島と東京どっちにかえろーかなー。

いちかばちかの勝負だぜ

加藤高明
 万延元(1860)〜大正十五(1926)年。明治・大正期の外交官・政治家。尾張藩海東郡佐屋の代官手代上席服部重文*1の子。尾張国佐屋出身。幼名:総吉。東京大学法学部卒業。
 1872加藤家を継ぎ、'74高明と改名。三菱会社に入社し、岩崎弥太郎*2の知遇を得、'83イギリスに遊学。'85帰国するや三菱本社副支配人として郵船会社に入り、弥太郎の長女春路*3と結婚。'88陸奥宗光*4の請を容れ、大隈重信*5外相の秘書官兼政務課長となり条約改正の立案に参加。'90大蔵省に入り、参事官・局長を歴任。'94駐英特命全権公使として赴任、日英提携・対露強攻策を主張。1900第四次伊藤内閣の外相となり日英同盟を推進した。'02高知県より衆院議員に当選、伊藤*6・大隈の反桂*7提携を図る。'04東京日日新聞社長となる。'06第一次西園寺内閣の外相となったが鉄道国有化に反対して僅か55日で辞任。一貫して三菱をはじめとする財閥の利害を代表していた。'08駐英特命全権大使となり、日英条約改正・日英同盟改訂に尽力、男爵となる。この間に桂と和解接近した。'13第三次桂内閣の外相となり、桂と共に立憲同志会を組織、桂の死後総裁となる。'14第二次大隈内閣の外相となり、第一次世界大戦に際し、対華二十一ヶ条の要求を提出した。その後'16憲政会を組織し総裁となり、憲政の常道・元老政治の打破・選挙権の拡張を唱え元老と対立、以後苦節10年の在野時代が続く。'24革新俱楽部・政友会と共に護憲三派を結成して清浦内閣に対抗し、'25遂に自ら首相として内閣を組織し、普通選挙法・治安維持法を制定。'26閣内紛争により総辞職。直ちに憲政会単独内閣を組織したが、病に罹り首相在任中に死去した。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

長きに亙った明治大正の宰相伝も遂にラスト。棹尾を飾るのは苦節十年の憲政会総裁加藤高明。時期は高橋是清内閣成立から第一次加藤内閣崩壊まで。ワシントン軍縮会議と関東大震災に普選法&治安維持法成立が主な出来事のこの時代を加藤高明=憲政会の苦難を主題に描いています。その為、特筆大書されているのはワシントンでの加藤×3のドタバタ劇に普選法成立をめぐる枢密院や貴族院抵抗勢力との虚々実々の駆け引き。いかんせん主人公が無愛想で傲岸な三菱の走狗となんとも人間的魅力に欠けたお方なので少し感情移入は難しいですが、大正デモクラシーの最後になってようやく実を結んだ憲政の常道の産みの苦しみを応援してあげましょう。

すべてがまた伝説に変わる

 十年を越える責任無き野党生活に大企業のひも付きで野合の極みの集合離散と某民主党を髣髴とさせる加藤憲政党ですが、憲政党と政友会がそうであったように、自民党民主党も責任ある二大政党制を構築できるのでしょうか。こないだの参院選で少し曙光の差し込んできた気もしますが、まだまだその道のりは険しそうです。少なくとも前原と輿石が同じ政権にいるようではあきません。もう小選挙区比例区で違う政党の名前書くのにも飽きました。躍進著しいみんなの党を見習って、前原G辺りで新党結成の気概を見せて欲しいものです。

Get over the Border!~JAM Project BEST COLLECTION VI~

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帰ってきた今日の一行知識

普通選挙法では当初華族には選挙権・被選挙権共に無い予定だった
飽くまで衆議院なんて庶民のもの俺等にゃあ関係ねーぜって感覚だったんですね。現代の学生諸子もかっこつけの韜晦で貴重な一票を無駄にしませんように。棄権は創価老害を増長させるだけですよ。

*1:父作助。

*2:三菱財閥初代総帥。父弥次郎、母美和。吉田東洋後藤象二郎の信任を得、土佐藩の海運と財政を掌握。廃藩置県後は海運会社三菱商会を開設。台湾出兵江華島事件西南戦争で巨利を得て、三菱を日本最大の政商に押し上げた。

*3:母(高芝)喜勢。子に厚太郎。

*4:第二次伊藤内閣外務大臣。伯爵。父宗広、母(渥美)政子。海援隊に参加し、元勲たちの知遇を得、新政府で累進するも、自由党土佐派の反乱謀議に連座し失脚投獄。失意のところを伊藤博文に拾われ活躍。不平等条約改訂や日清戦争戦後処理などに辣腕を揮い「カミソリ大臣」の雷名を轟かせた。

*5:第8・17代内閣総理大臣。侯爵。父信保、母三井子。佐賀藩の代表として明治初年度の外交財政を主導するも、明治十四年の政変で下野。立憲改新党を組織し政党勢力の代表として自由民権運動の進展に尽力。第一次の内閣は閣内不統一により短命に終わるも、第二次内閣では第一次世界大戦を戦い抜いた。

*6:博文。第1・5・7・10代内閣総理大臣。公爵。父林十蔵、母(秋山)琴子。馬関戦争和平交渉で頭角を顕し、新政府でも重職を歴任、山県と共に高杉・木戸亡き後の長州閥の筆頭格となる。内閣制度確立や憲法制定・政党制の定着など日本の憲政の発展に尽力。日清戦争で日本を勝利に導き「東洋のビスマルク」の名声を轟かすも、韓国統監となったことを憎まれ暗殺。

*7:太郎。第11・13・15代内閣総理大臣。陸軍大将。公爵。父与一右衛門、母(中谷)喜代子。ドイツで軍学を学び、日本陸軍の軍制確立に貢献。山県の後継者として首相戴冠。当初は「二流内閣」と揶揄される弱体内閣だったが、日露戦争の勃発と勝利によって、権力を確立。西園寺と共に「桂園時代」と呼ばれる長期政権を樹立。最後は大正政変により失脚憤死。