新宿きた結果wwwwwwww:哲学ニュースnwk
何年後かに笑い話にできるといいですね。
朝方5時にLINEの着信音でたたき起こされる悪夢。今後は絶対寝るときマナーモードにするぞ。
競馬成績・・・R2収支-26770
DQⅪS進捗
- 始祖の森再探索中。称号:時を超えた旅人
予想は派手に裏切って期待は必ず応えて
武部勤
昭和十六(1941)年~。日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(8期)。社団法人日米平和・文化交流協会理事。一般財団法人東亜総研代表理事。公益財団法人全日本ボウリング協会元会長。農林水産大臣(第33代)、自由民主党幹事長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第63代)を歴任した。衆議院議員の武部新*1は長男。タレントの田丸麻紀*2は義理の娘(次男の妻)。
北海道斜里郡斜里町生まれ。父親*3は中華料理店主人。北海道斜里高等学校卒業後、早稲田大学第二法学部(夜学)に進学。その後、3年次に進級する際に第一学部に転部し、1964年に早稲田大学第一法学部を卒業する。卒業後、三木派事務所に就職。
1971北海道議会議員選挙に網走管内選挙区から出馬し、初当選。以後当選4回。4期目の任期途中の'83道議を辞職し第37回衆議院議員総選挙に旧北海道5区から保守系無所属で出馬するが、落選。その後中曽根派の幹部だった渡辺美智雄*4の知遇を受け、'86第38回衆議院議員総選挙に再び旧北海道5区から自民党公認で出馬。選挙戦では渡辺の後ろ盾もあり、初当選を果たした*5。当選後しばらくは無派閥を通していたが、渡辺が中曽根派の代替わりにより自ら派閥を率いるにあたり、渡辺派に入会した。'91.11自民党農林部会長代理に就任。
’94羽田内閣総辞職に伴う首班指名選挙において、自民・社会・さきがけ3党は日本社会党委員長の村山富市*6を擁立するが、元首相の中曽根*7や渡辺らは猛反発し、旧連立与党側が擁立した、自民党を離党して立候補した海部俊樹*8への投票を呼びかける。武部も党本部の決定に造反し、海部に投票した*9。'95渡辺美智雄の死去を受け、同じ渡辺の側近であった山崎拓*10を派閥領袖にすべく、山崎派結成のために奔走する。
小選挙区比例代表並立制導入に伴い、第41回衆議院議員総選挙以降は北海道12区から出馬。
2000第2次森内閣不信任決議案に加藤紘一*11、山崎拓らが賛成票を投じる動き(いわゆる加藤の乱)が表面化した際、加藤や山崎の動向を率先して党内に触れ回り、森派会長の小泉純一郎*12を加藤派・山崎派の造反議員の中でも取り分け痛烈に非難し、この頃は反小泉の急先鋒であった。結局、野中広務*13や古賀誠*14らが党内の引き締めを図り、加藤らの造反劇は失敗に終わる。'01自由民主党総裁選挙においても、山崎派の中では派閥を挙げての小泉純一郎支持の動きに最後まで反対したものの、結局派閥会長であり、小泉の盟友でもあった山崎の意向を汲み、小泉に投票した。第1次小泉内閣で農林水産大臣に就任し、初当選から15年目で初入閣。
'03衆議院議院運営委員長に就任。'04.9自由民主党幹事長に就任。党内でも武部の幹事長起用を予想した者は少なく、サプライズ人事であった。2005年10月の党役員人事でも幹事長に留任し、「偉大なるイエスマン」を自認した。第44回衆議院議員総選挙では選挙対策の先頭に立ち、郵政民営化法案の採決に造反した議員に党の公認を与えず、対立候補を送り込む選挙戦略を展開。総選挙後、2005年初当選組(小泉チルドレン)の教育係を務める。ポスト小泉をめぐる2006年自由民主党総裁選挙に出馬が取り沙汰されるも、不出馬*15。
幹事長退任後の2006年8月、ロシア・サンクトペテルブルクを訪問中に新人議員の育成を目的にした新たな議員グループを結成する意向を表明し、同年12月には新しい風を結成。なお、新しい風は純粋な派閥ではなく議員の集まりに過ぎず、武部も幹事長在任中以外は一貫して山崎派に籍を置いている。
'09年の第45回衆議院議員総選挙では北海道12区で民主党の松木謙公*16に初めて敗北を喫したが、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活し、8選。
'12次の選挙には出馬せず、引退を表明。地盤は長男である武部新が引き継いだ。
'18年春の叙勲で旭日大綬章を受章。(wikipediaより修整引用)
小泉純一郎政権を支えた「偉大なるイエスマン」武部勤の一代記。小泉劇場直後で小泉チルドレンを率いて派閥の領袖になるのではとすら噂された得意の絶頂期に書かれた一冊だけあって徹頭徹尾の礼賛モード。日本にはこんな国士がいたのかと感涙にむせぶこと間違いなしです。一体いくら積んだんだか(ボソ)
そんな邪推をさておけば現代政治史の大家大下英治の筆になるだけあって政治家武部勤の履歴書としてだけでなく、単純なエンターテイメントとしても超一級品500ページ近い超ボリュームも一切苦にならず読み切れます。中でも読みごたえがあるのは、農水相として迎えたBSE問題と幹事長として迎えた郵政解散。「偉大なるイエスマン」と揶揄された武部勤がどれほどの不屈の精神でタフなネゴシエーションを決着に導いたかということを学習させてくれます。つーか、同時代人としての記憶にあるあの失言とやらかしのオンパレードをよくぞここまでの英雄譚に美化できたなと筆者の力量に感服です。
結論:伝記作家の選定には絶対に金をケチらないこと。
去るもの追わず来るもの拒まず
この本で実に印象的だったのは、後援者たちへの目配り。本来は市民Aで終わるはずの自分が、名指しで中川一郎や渡辺美智雄、山崎拓、そして小泉純一郎なんかの偉人たちと並列で語られるんだから後援者冥利に尽きるだろうなあと。ああ、もし前原誠司がなにかの間違いで天下取ってたら俺もこんな風に端役の通行人Aででも登場できてたんでしょうか。なんだかちょっと悔やまれます。
BIGMAMA New Album「-11℃」クロスフェード(2018/10/31 RELEASE)
*1:自由民主党国会対策委員会副委員長。第3次安倍第3次改造内閣環境大臣政務官。日本興業銀行に就職したのち、父勤の後継者として政界進出。自民党二階派の若手ホープとして活躍中。
*2:オスカープロモーション所属。代表作:安岡八重子(『カーネーション』)・長野かける(『帰ってきたロッカーのハナコさん』)(女優)、『笑いの金メダル』(司会)他。
*3:益太。珍満店長。新潟県長岡市から上京し各種の職業を転々としたのち、釧路の中華料理店ライオンに招聘され移住。召集されるも復員後自身の店「珍満」を持った。
*4:宮沢内閣外務大臣。従二位勲一等旭日桐花大綬章。父喜助、母マツ。栃木県議を経て河野一郎の庇護下で衆院議員に当選。河野の死後は中曽根派に合流し農林族議員として頭角を顕す。ニューリーダーの一角としてポスト竹下を伺うほどの勢威を誇るもリクルート事件に連座し逼塞。以降も中曽根派を継承し何度も総理総裁の座に挑戦するも志半ばで病死。
*5:当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・新井将敬・石破茂・笹川堯・井出正一・村上誠一郎など
*6:社会民主党名誉党首。第81代内閣総理大臣。大分県漁村青年同盟の書記長として活躍し、大分県議を経て衆院議員に当選。社会党右派として累進し党首に至る。55年体制崩壊後は細川連立政権に参加するも羽田連立政権からは離脱、自社さ連合政権として総理大臣に擁立された。阪神淡路大震災やオウム事件などの国難に遭遇しその指導力のなさが露呈、外交面でも村山談話など多くの禍根を残した。
*7:康弘。第71-73代内閣総理大臣。従一位大勲位。父松五郎。戦前から内務官僚として頭角を顕し、戦後政界進出。正力松太郎に寵愛され、自民党の若手タカ派の筆頭格として累進し、河野派を分裂させ中曽根派の領袖となる。田中角栄の傀儡として少数派閥ながらも総理に就任すると、角栄が病気に倒れたこともあり独自性と強権を発揮し、長期政権を築いた。その治世ではロン・ヤス関係と呼ばれる日米の蜜月関係の下バブル経済が大輪の花を咲かせた。
*8:日本ソフトテニス連盟会長。第76-77代内閣総理大臣。早稲田雄弁会から議員秘書を経て政界進出。自民党三木派に所属し累進、ネオ・ニューリーダーと呼ばれる存在になる。有力者が軒並みリクルート事件で失脚する間隙をついて総理就任。脆弱な党内基盤の中女性人気を集めるなど奮闘し衆議院選にも大勝するも、湾岸戦争への対応のまずさや政治改革法案廃案などにより海部おろしに遭い退陣。55年体制崩壊後は自社さ連立政権に反対し離党し、旧連立与党の統一候補となるも敗北し、新進党自由党保守党保守新党と渡り歩いた。
*9:決選投票で村山が海部を破る
*10:近未来政治研究会最高顧問。宮沢内閣建設大臣。父進。福岡県議から中曽根の推挙により国政進出。YKKの一角として頭角を顕すも加藤の乱に連座し逼塞。小泉政権下では盟友として重用され幹事長職など要職を歴任するも、愛人スキャンダルにより失脚落選。再選し非主流のハト派として策動するも以前の影響力は取り戻せぬまま石原伸晃に派閥を禅譲し引退。
*11:宮沢内閣官房長官。正三位旭日大綬章。父精三。外務官僚として活躍したのち父の死去に伴い政界進出。YKKの筆頭格として頭角を顕し、宏池会のプリンスとして次期総理にも擬せられるも、加藤の乱により失脚。秘書の脱税疑惑により議員辞職後、再選するも政権中枢への復帰はならず迷走。野党との連携による新党結成を目指すも挫折し落選。
*12:第87-89代内閣総理大臣。父純也、母芳江。福田赳夫の秘書を経て政界進出。YKKの一角として頭角を顕し、幾度も総裁選に挑戦するも敗戦。森政権後崩壊後の総裁選では圧倒的不利な下馬評を小泉旋風で吹き飛ばし首相戴冠。官邸主導型の政権運営により聖域なき構造改革や日朝平壌宣言などの功績を挙げた。小泉劇場により抵抗勢力を駆逐し郵政民営化の実現を花道に勇退。政界引退後も脱原発を掲げ精力的に活動中。
*13:小渕内閣官房長官。正三位勲一等旭日大綬章。園部町長や京都府議を経て衆議院議員当選。反小沢の急先鋒として頭角を顕し、55年体制崩壊後の自民党混乱期での活躍により発言力を増し、小渕首相急死後には森幹事長を擁立するなどキングメーカーの座を手にした。続く小泉政権下では、その権勢を橋本派の同輩に憎まれ、「毒まんじゅう」の呪詛を残し政界引退。
*14:日本遺族会顧問。第2次橋本内閣運輸大臣。宏池会に所属し道路族として累進し、加藤の乱で野中の走狗として鎮圧に奔走した功により幹事長就任。小泉政権下では抵抗勢力の筆頭格として存在感を増し、続く麻垣康三の争いではキングメーカーとして活躍するも、野党転落後は自派閥からも離反者を多く出すなど影響力を逓減させ政界引退。
*16:北海道通信社社長。菅改造内閣農林大臣政務官。父慶喜。自由党を経て民主党に参加し衆議院議員に当選。菅政権で農水省の政務官となるも菅おろしに参画した為民主党を除名。以降は新党大地→維新の党→民進党→希望の党→国民民主党と転々としつつ当落選を繰り返している