脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『昭和の宰相1〜犬養毅と青年将校〜』

痛いニュース(ノ∀`) : 10代少女、ネット見て作った爆弾で恋敵の家を大爆破、女性の家が全壊・・・英 - ライブドアブログ
ザ・スパイスガールズ。毛唐は女の子も大層おそろしおす。


 2月ぶりにネット復旧したので、トイレと飯以外自室に籠り切りの週末過ごしたら、さすがに同居人に呆れられました。目指せミスター小森霧

勝つことより負けない事が大事なのも分かってる

犬養毅
 安政二(1855)〜昭和七(1932)年。明治・大正・昭和期の政党政治家。庭瀬藩岡山県郷士源左衛門*1の子。号を木堂。慶応義塾中退。
 1875上京し修学の傍ら『郵便報知』への寄稿、『東海経済新報』の創刊などに当たり、矢野文雄*2の招きで一時官途に就くが「明治十四年の政変」で下野。’82立憲改進党創立に参画し『郵便報知』『朝野新聞』に拠り反政府運動に従う。’90第1回総選挙以来当選18回、党首大隈重信*3の謀将として党務に専念し、第二次松方内閣との提携、憲政党の実現に活躍。第一次大隈内閣では尾崎文相*4の公認を勤め、分裂後憲政本党立憲国民党に在り改革・非改革紛争の渦中に立って藩閥に対決の姿勢を崩さず、大隈が去り改革派もまた立憲同志会に転じた後は国民党総務・総理として実権を収める。その間、第三次桂内閣打倒の護憲運動では政友会と結び、続く第一次山本内閣を政友会が支持するとこれと離れ、また長州藩閥後援の第二次大隈内閣に対しては大隈の懇請を斥けて中立の線に自重した。のち普選運動高揚の中で再出発を期し、1922立憲国民党革新倶楽部と改称、第二次山本内閣の逓相就任後、’24清浦内閣打倒護憲三派の一角を成して第一次加藤高明内閣の逓相となる。’25普選法成立を機に政・革合同を図り自らは政界を引退したが、’29政友会総裁に選ばれ、次いで’31組閣、満州事変勃発後の困難な政局に処するうち、’32五・一五事件で射殺された。「憲政の神様」として尾崎行雄と並び称され、その足跡は前半で尾崎のそれと重なり後半で時に相交わるが、一貫して追求した民党合同による藩閥との対決の構想は現実には彼を少数派に追いやり、万年野党であることの焦慮が彼に次善策として藩閥中の薩派との提携を取らせた。従ってその軌道の複雑さは尾崎らの比ではなく、また策士・狭量などの世評の因を為した。書・刀剣など東洋趣味に長じ国士的風格を備え、中国革命派の孫文*5らに関心と援助を寄せた。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より引用)

 各首相の動向を中心とした昭和初期の政治史。表題こそ犬養がフィーチャーされていますが、余り目立たず、床次や森、久原らの党利党略しか頭にない党人連中の策動ばかりが目立ってしまっています。軍部と政友会・憲政党の三つ巴の主導権争いは必見。第二次世界大戦突入の原因を語るならこの時代は外せないでしょう。クローズアップされることも少ない時代ですが、その分新鮮に感じられます。是非ご一読を。

みんながいたからオレはここまで来れたんだ

 戦争への軍靴の音といった側面で語られることの多いこの時代ですが、実際には日本で唯一まともな二大政党制が機能していた時代です。我々ももう少し若槻・田中・浜口らに学ぶべきでしょう。自民党信者ですが、一切政権交代の行われない生体というのは流石におかしすぎます。民主党がもう少しまともな政党なら、憲政の常道復活を謳う気にもなるのですが・・・。

RICA the BEST

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【サイボーグ009MAD】 みんながいたから - ニコニコ動画

*1:当済。父健蔵。備中国賀陽郡庭瀬村の大庄屋。

*2:清国特命全権公使。父光儀。号は龍渓。代表作:「経国美談」「浮城物語」「新社会」他。

*3:第8・17代内閣総理大臣。侯爵。父信保、母三井子。慶応義塾創始者。非薩長初の首相として組閣するも党内対立により辞任、大正期に再び組閣し第一次世界大戦を泳ぎきるも大浦事件により国民の支持を失い挂冠。

*4:行雄。第二次大隈内閣司法大臣。父行正。通称:「憲政の神様」。政党人として護憲運動や普選運動に参画、藩閥軍閥の横暴に対抗。

*5:SunWen。字は逸仙。広東省香山の人。初代中華民国臨時大総統。号は中山。三民主義を提唱し辛亥革命の理論的指導者となるも中華民国の主導権は軍閥に奪われ、第一次国共合作を以って革命の伸展を図るも「革命未だならず」の言葉を遺し志半ばに死去。