脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『初代総理 伊藤博文』

痛いニュース(ノ∀`) : 中2少年、「命懸けの懸垂」でマンション7階から転落死 ネット動画の影響か - ライブドアブログ
自らの死を以って欠陥遺伝子を人類の遺伝子プールから追放した英雄に敬礼。


 最近光栄にも悲しき中間管理職暮らしを満喫させていただいているのですが、一つ疑問が。給料も権限も平社員から一切何も変わってない気がするのは何かの手違いでしょうか。それとも俺単なるトカゲの尻尾?

初代総理 伊藤博文〈上〉

初代総理 伊藤博文〈上〉

初代総理 伊藤博文〈下〉

初代総理 伊藤博文〈下〉

途切れ途切れだけど確かな言葉をあげたいんだ

伊藤博文
 天保十二(1841)〜明治四十二(1909)年。明治時代の指導的政治家。百姓林十蔵*1の子、萩の足軽伊藤直右衛門*2の養子。周防国熊毛郡束荷村出身。幼名:利助→俊輔、号:春畝。
 初め松下村塾に学び、木戸孝允*3に従い尊皇攘夷運動に参加。1863井上馨*4らと密かに渡英した。四国連合艦隊の下関砲撃の報を聞いて帰国、列国と講和を結ぶのに尽力。以後討幕運動に従い、薩長連合成立と共に高杉晋作*5の下に接薩副使となる。維新政府の成立に際して参与・外国事務局判事・大阪府判事・兵庫県知事・大蔵小輔兼民部小輔・工部大輔となり、'71岩倉具視遣外使節団の副使として欧米を視察、帰国後は征韓論を制圧し、参議兼工部卿となり、大久保利通*6の死後は内務卿として政府部内に地歩を固め、更に'81「明治十四年の政変」により対立者大隈重信*7を政府から追放し、最高指導者となった。'82憲法取調べの為渡欧し、プロシア憲法を学んで帰国。以後、華族制度・内閣制度の創設、大日本帝国憲法皇室典範の制定、枢密院設置など、天皇制確立の為に努力した。'85内閣制度創設と共に初代総理大臣となり、また枢密院議長として政治を運営した。'92第二次内閣を組織し、行政管理・条約改正・海軍拡張を行い、日清戦争を強行。'98第三次内閣を組織したが、憲政党の反対に遭い半年で崩壊。このことから政党組織の必要を感じ、1900立憲政友会を組織し、総裁となる。'00第四次内閣を組織したが、'01辞職、三度枢密院議長となる。日露戦争後、'06日韓協約を結び、初代韓国統監となり併合強行への第一歩を踏み出した。'09満州(中国東北地方)視察と日露関係調整の為中国に渡る際、ハルビン駅頭で朝鮮独立運動安重根*8に暗殺された。(『コンサイス日本人名事典 改定新版』より引用)

 当ブログでも何度か取り上げた記憶のある近代日本の誇る大偉人伊藤博文公の伝記。日本の誇る名伝記作家豊田穣の筆になるので安心して読める出来です。相変わらずの脱線癖も健在で上下巻合わせて二段組720Pの狂気の分量。生半可な気持ちで手を出すと火傷します。
 肝心の内容は、下層農民の出自、周旋屋としての才覚、極度の女好きをクローズアップ。その三つの共通点から、しばしば豊臣秀吉になぞらえられています。出世しきって周旋する相手がいなくなってから非常にグデグデするのも、下手に朝鮮に手を出したのが身の破滅に繋がったのも先人と一緒。その観点から、素直にその生涯を概説しているのですが、ほぼ明治史概観と同義の内容が公の偉大さを証明しています。スケールが大きすぎて逆に物語の主題にはしづらい気もしますが、この近代日本の生んだ最大最強の怪物に捧ぐ鎮魂歌、誰か真正面から格闘してみてくれませんか。

誰かを永遠に失ったことなんてまだないけれど

 名宰相と曲がりなりにも称えることのできる偉人も小泉以来絶えて早5年。政権交代の一大革命の果てに立った小鳩山もワーストの方で競える体たらく。その後を襲った菅は消費税10%の格言+ドリーマーの極みのマニフェストの現実路線への修整と少しは期待できるかもといった風情ですが、如何せん竹下の二の舞の匂いがぷんぷん。このまま破壊神小沢の光臨をまつしかないのでしょうか。伊藤公や臣茂みたいな怪物の再臨なんて贅沢は言いませんから、中曽根や橋龍・小渕くらいの可もなく不可もなくの及第点の宰相のおでましを願いたいものです。小沢の蹂躙に日本が耐えれたその暁には前原さん、それを託していいですか?

First Pain

First Pain

帰ってきた今日の一行知識

伊藤博文は若かりし頃暗殺事件に手を染めている
相手は偉大なる国学者塙保己一の息子塙次郎。しかも、暗殺の理由は詰まらぬ勘違い。彼が凶弾に斃れたのも単なる因果応報だったのかも知れませんね。

*1:養父:水井武兵衛。

*2:養父:伊藤弥右衛門。旧名:水井武兵衛。

*3:第二代内務卿。父和田昌景、養父桂九郎兵衛。旧名:桂小五郎。維新においては薩長同盟を実現にこじつけるなどの維新の三傑の一人に数えられるほどの功績を挙げる。新政府でも長州派の筆頭として廃藩置県を主導するなど新国家の基盤作りに尽力。

*4:第三次伊藤内閣大蔵大臣。侯爵。父光享。通称:聞多。高杉や久坂らと共に長州藩尊皇攘夷運動を主導。新政府では伊藤派のNo2として外交・財政に辣腕を揮い、元老として重きを為した。

*5:春風。父小忠太、母みち。号:東行。松下村塾三傑の一人と称えられるほどの俊才。奇兵隊を組織し長州藩守旧派を駆逐し、長州征伐撃退の原動力となる。

*6:第1・3・5代内務卿。父利世、母(皆吉)福。維新の三傑の一人として、明治初年度の国政を主導。西南戦争を鎮定するも、不平士族の恨みを買い紀尾井坂にて暗殺。

*7:第8・17代内閣総理大臣。侯爵。父信保、母三井子。佐賀藩の代表として明治初年度の外交財政を主導するも、明治十四年の政変で下野。立憲改新党を組織し政党勢力の代表として自由民権運動の進展に尽力。第一次の内閣は閣内不統一により短命に終わるも、第二次内閣では第一次世界大戦を戦い抜いた。

*8:안중근。黄海道海州府の人。字は応七。父泰勲。日露戦争以降の大韓帝国への日本の容喙に憤慨し、抗日義兵闘争を組織。遂にはハルピンにて伊藤博文を暗殺するに至り、刑死。