脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『明治・大正の宰相 第7巻〜原敬の暗殺と大衆運動勃興』

http://hamusoku.com/archives/3278118.html
はやぶさ帰還騒動は正直醒めた目で見てたのですがこれは反則。願わくはこの一枚が来るべき大宇宙時代のメモリアルフォトになりますように。


 ようやく我が家にもガスが通りお風呂に入れるようになりました。銭湯もいいけどやっぱり内風呂だね。


いたスト ポータブル進捗

独りじゃない幻じゃない

原敬
 安政三(1856)〜大正十(1921)年。明治大正期の政党政治家。南部藩々士原直治*1、リツ子*2の次男。本宮村生まれ。幼名:健次郎。号:一山・逸山。
 1871南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るが、学資に窮して受洗、'74神父エブラルの従僕として新潟に赴く。'75帰郷。分家して平民となり、'76司法省法学校に2位で合格。'79食堂の賄への不満が暴発した騒動で退校処分。'79郵便報知新聞社に入社、社説も執筆し、甲府の『峡中新報』にも寄稿。'82退社。'82立憲帝政党系の『大東日報』主筆となり井上馨*3に知られる。'82末外務省御用掛、'83清仏関係の緊迫によりフランス語の能力を買われ天津領事。李鴻章*4と交渉。清仏戦争の記録は詳細、本省への報告は的確であった。'85在仏公使館書記官、'89帰国し農商務省参事官、次いで大臣秘書官。陸奥宗光*5農商務大臣に傾倒し、'92陸奥辞任に伴い辞職。'92陸奥外相に招かれて外務省通商局長、'95外務次官、'96朝鮮公使。
 '97陸奥の死を機に官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社、'98社長。新機軸により同社の発展に尽くした。1900伊藤博文*6立憲政友会創立準備に参画、'00.9設立されると政友会に入り総務委員幹事長。'00.12星亨*7が辞任した逓相を継ぐが、'01.6内閣総辞職で辞任。大阪の北浜銀行頭取となり、'03.5まで務める。'02岩手県より立候補して衆院議員。以後没するまで連続当選。伊藤立憲政友会総裁下では伊藤と桂太郎*8首相の2度の妥協による政友会の動揺を最小限にとどめた。以後西園寺公望*9総裁を助け、'06.1桂と交渉して第一次西園寺内閣を成立させた。自らは内務大臣として内務省の改革、「政友会知事」の増加に努め、郡制廃止法案で山県系を震撼させ、内閣の柱石となる。第二次西園寺内閣と大正政変('13)後の第一次山本内閣の内務大臣として行財政整理を推進した。シーメンス事件で内閣総辞職後は第3代立憲政友会総裁として寺内内閣の準与党となり党勢を回復、'18.9政権を獲得。四大政綱(国防・産業・交通・教育)を掲げ、積極政策を展開、選挙資格などの選挙制度を改正したり、港湾の充実、高等教育機関の増設、海軍の充実に努め、国勢調査を創始した。外交はアメリカとの協調を重視し、西原借款を停止し、シベリア撤兵に着手した。一方、普通選挙は時期尚早とし、民本主義には理解を示さず、社会主義は抑圧した。この間政友会々員の横暴、恐慌後の不況、社会政策の不十分などがあり、その施策は独裁的と見られ、'21.11.4中岡艮一*10の凶刃に斃れた。高い識見と卓抜な指導力で党勢を伸ばし、本格的政党内閣を成立させたことが最大の功績。生涯受爵を拒む。(『朝日歴史人名事典』より引用)

 原内閣成立からワシントン軍縮会議まで。先代先々代の負の遺産第一次世界大戦戦後処理、米騒動、シベリア撤兵の詳細がメインテーマとなっています。平民宰相・反藩閥という非常に見てくれのいい看板を掲げた民衆の英雄の本性は政友会の主支持層のブルジョワへの露骨な利益誘導を推進する権謀術数の徒。というのが今回の内容。涼やかな表面とどす黒い本性というのはダークヒーローとしての貫禄十分。暗殺という結末も、本格的政党政治の先駆者というポジションも英雄譚の題材には◎。原敬を主人公とした、大正ロマン直前の激動の時代を描く大河小説なんて面白そうとは思いませんか?誰か手を出して下さいな。

僕らは今伝説を生きる

 自民党一党支配も終わりを告げ、本格的二大政党制の始まったはずの現代日本。なのに漂うこの閉塞感はなんでしょう。鳩山が知れきった頓死を遂げ、後を襲った菅も早くも波乱の雲行き。この暗黒時代を乗り越えれば、きちんと平成ロマンは待ち受けているのでしょうか。元首が暗愚でやる気がなくて、政治的に停滞してるほど文化の華は咲き誇るって前例を見る限り期待してもよさそうです。まあ爛熟しすぎてあっさり腐ってしまいそうですけどね。

Get over the Border!~JAM Project BEST COLLECTION VI~

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帰ってきた今日の一行知識

原敬は西園寺や近衛の貴族出身を除けば戦前の首相の中で一番の名門出身
南部藩の家老家出身てのは中下級武士出身の他の元老連の追随を許しません。彼が叙爵を拒めたのは出自への誇りが背景にあったからなのかもしれませんね。

*1:盛岡藩家老。300石。父直記。学者として活躍。世子に軍学を講じた。

*2:山田氏出身。子に恭・敬・誠。

*3:第三次伊藤内閣大蔵大臣。侯爵。父光亨。イギリス留学により新知識を吸収し、馬関戦争の後始末や薩長同盟成立に奔走。新政府でも盟友伊藤の下で外交財政に多大な功績を残す。伊藤亡き後は元老としても活躍。

*4:Li Hung Chang。北洋通商大臣。安徽省合肥の人。字は少荃。曾国藩に師事し淮軍を創設。太平天国の乱鎮圧の功により北洋通商大臣となり、清国末期の外交を一手に握る。洋務運動を推進し「眠れる獅子」清国軍の象徴として君臨するも日清戦争の敗北で失脚。

*5:第二次伊藤内閣外務大臣。伯爵。父伊達宗広、母(渥美)政子。海援隊に参加し維新の元勲らの知遇を得、新政府でも要職を歴任するも、藩閥の横暴に憤慨し下野。土佐派の反乱計画に連座し投獄されたところを伊藤に拾われ、以降彼の右腕として頭角を顕す。不平等条約改正や日清戦争などで多大な功績を挙げ「カミソリ陸奥」の名をとどろかせた。

*6:第1・5・7・10代内閣総理大臣。公爵。父林十蔵、母(秋山)琴子。イギリス留学によって得た新知識を武器に馬関戦争の戦後処理などで活躍。明治新政府でも要職を歴任。維新の三傑の死後は名実共に新政府のリーダーとなり、憲法制定・内閣制度確立に尽力し初代首相に就任。日清戦争に至るまでの新日本雄飛の時代を先導した。政党制度の定着に奔走したり、韓国併合に反対するなどリベラルな方針を貫くも、韓国初代統監となったのを恨まれハルビンにて暗殺。

*7:第四次伊藤内閣逓信大臣。自由党の闘士として藩閥政治を糾弾。強引な政治手法が売りで利益誘導を基礎とする積極財政を推進、数々の疑獄で汚名を流す。最後は東京市会の腐敗の責任を着せられ暗殺。

*8:第11・13・15代内閣総理大臣。陸軍大将。公爵。父与一右衛門、母(中谷)喜代子。ドイツで軍学を学び、日本陸軍の軍制確立に貢献。山県の後継者として首相戴冠。当初は「二流内閣」と揶揄される弱体内閣だったが、日露戦争の勃発と勝利によって、権力を確立。西園寺と共に「桂園時代」と呼ばれる長期政権を樹立。最後は大正政変により失脚憤死。

*9:第12・14代内閣総理大臣。公爵。父徳大寺公純、養父西園寺師季。リベラルな思想を伊藤に愛され政友会総裁を継承。桂と共に「桂園時代」を築いた後に元老就任。山県・松方死後は「最後の元老」として大正デモクラシーを裏から支えた。近衛を自身の後継に擬するもその期待は裏切られ、軍部の暴走を掣肘できぬまま引退病死。

*10:山手線大塚駅転轍手。父精。反原派の上司に影響され原敬暗殺の凶行に及び、無期懲役。出獄後は満州で陸軍司令部に勤務。