脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

上意下達と毛沢東と伊達小次郎について

中四国各県における対立図:ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd
よく分かってらっしゃる。文化的には中国山地を隔てた山陰地方より瀬戸内で繋がる愛媛香川の方が近いんですよね。道州制導入するなら今の不自然な分割方式を止めて、昔の一畿七道制に戻して欲しいものです。


 夏到来!暑いのキライ。

無言のヘブン光と嘘にまみれただ一人君は愛を唱う

上意下達

ALL I WANT - 脱積読宣言

上意下達
1君主の心が下々の者にまで行き届くこと。
2組織の上級者や政府の意向が、下級者または民衆にまで行き届くこと。
(『大漢語林』より引用)

 上意下達は改革が行いやすく、意思統一の為しやすい良い組織の必須条件の一つですが、世には上意下達を金科玉条に独裁を図る能無しワンマン社長のなんと多いことか。この言葉を世に出した頼山陽先生の嘆き顔が目に浮かびます。
 そもそもこの言葉の初出は頼山陽著『日本政記』「正親町天皇天正五年条補足の「当国之創建也、上意下達、下情上通、歓然無間、而天下治」*1です。ここでは、上下相和すことの必要性が強調されています。世の中小企業のシャチョさん、無駄に威張らずきちんと部下の意見も聞きましょう。

日本政記 (1976年)

日本政記 (1976年)

毛沢東+王逸

アゲ♂アゲ♂EVERY騎士 - 脱積読宣言

毛沢東 Mao Ze-dong
 光緒十九(1893)〜1976年。中国の政治家。中国共産党主席。字は潤之。
 湖南省湘潭県の人。湖南第一師範に入り、「五・四」時期、長沙で活動。1921中国共産党創立大会後、各地で労働運動を指導。'23.3全大会で中央委員。五・三〇事件後、湖南の農民運動に着目。'27「湖南農民運動視察報告」を発表。国共分裂すると、湖南・江西で蜂起して、井岡山地区に根拠地を樹立。'28朱徳*2軍と合流、紅軍第4号を編成し、政治委員となる。以来、江西省を中心に活動し、'31中華ソヴィエト中央政府主席となる。国民党軍の包囲を受け、'34長征。'35遵義会議で秦邦憲*3らの軍事路線を批判し、指導権を掌握。'35以来陝西北部に根拠地を移し、抗日民族統一戦線を提唱し、西安事件後に第二次国共合作を成立させた。日中戦争が始まり、'38「持久戦論」「新段階論」や「実践論」「矛盾論」を発表。'40「新民主主義論」を発表、理論面でも指導的地位を確立。'41整風運動を起こし、'45.7全大会で中央委員会主席に就任。'49「人民民主独裁論」を発表、中央人民政府主席となる。'53過渡期の総路線を提起、社会主義化の道を示し、農業集団化などを推進。'57講演「人民内部の矛盾」で社会主義社会での矛盾の存在を強調。'58.8全大会で人民公社化を含む大躍進政策をとる。その失敗の為、'59国家主席劉少奇*4に譲る。大躍進政策の調整過程で、ソ連社会主義のコースを取る劉少奇らに対し、'63農村社会主義教育運動、また'66文化大革命を提起。'69.9全大会で実権派劉少奇訒小平*5らを排除し、毛・林彪*6体制を打ち立てる。林彪の反逆を抑え、続けて実権を握り西側諸国との協調路線をとるも'76北京の自宅でゲーリック病により死去。(『コンサイス人名辞典 外国編』より引用)

王逸 Wang Yi
 生没年不詳。字は嘉六。直隷省河間府の人。
 貧乏緑営の家に生まれるも、その秀才を見込まれ近隣の名家王家の養子となる。1886直隷郷試に経魁で及第、翌年の会試会場で梁文秀*7と義兄弟の契りを結び、第三等探花で進士登第。'87翰林院出仕。李鴻章*8に心酔し彼の幕下に加わり、袁世凱*9と並ぶ北洋軍の重鎮となるも、日清戦争での平壌会戦の敗北により失脚。李鴻章の命により袁世凱の暗殺を企てるも失敗し下野。放浪の末、毛沢東の家庭教師となる。
初登場:『蒼穹の昴』第一章「科挙登第」
登場作品:『蒼穹の昴


 王逸というとまず思い浮かぶのは後漢の詩人ですが、毛沢東が彼の詩を賞玩したという話は寡聞にして存じ上げませんので、ここでは浅田次郎の小説『蒼穹の昴』に出てきた毛沢東の家庭教師王嘉六を取り上げます。

 探花登第の駿才王逸が毛沢東と出会ったのは、世紀末押し迫る戊戌の頃と推定されます。袁世凱暗殺に失敗し、投獄され命からがら脱獄に成功したものの、生きる希望を失い野垂死のうとしていた王は偶然沢東と出会い、彼に拾われ毛家の家庭教師となりました。以降の事跡は浅田氏の小説では杳として知れませんが、後年の毛沢東の多筆と論旨の精巧ぶりは王逸の教育の確かだったことが伺われます。
 さて、白太太や乾隆帝から「龍玉の守護者たるべし」の宿命を託された王逸。そのことを念頭に於いて『中原の虹』以降の龍玉を行方を妄想すれば、父張作霖の復讐に燃え、抗日の鬼と化した張学良は、自身の政治生命と引き換えに第二次国共合作を斡旋しますが、この時、おそらく龍玉は学良の手から毛沢東に渡ったと思われます。この時、嘉六・史了の義兄弟の数十年ぶりの再会があったとしたらロマンチックですね。是非浅田氏の筆で描かれるこの情景を読んでみたいものです。

 さて、蛇足ですが、現在の中国の体たらくを見るに最早北京に天命ありとは到底思えません。おそらく1960年頃に龍玉の守護者王逸は天寿を全うし、林彪が逃亡の際龍玉を持ち逃げし、哀れ龍玉はモンゴルの地で一握の炭と化してしまったのではないでしょうか。さすれば、天命なき大国中華人民共和国はどんな断末魔を迎えるのでしょうか。いまから楽しみ不安でなりません。

蒼穹の昴(4) (講談社文庫)

蒼穹の昴(4) (講談社文庫)

伊達政道

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伊達政道
 永禄十一(1568) 〜 天正十八('90)年。戦国時代の武将。伊達輝宗*10の次男。母は最上義守*11の娘(最上義光*12の妹)・義姫*13。同母兄に伊達政宗*14。幼名:竺丸。通称:小次郎。
 1587蘆名氏の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名氏の当主として推薦されたが、蘆名氏の執権である金上盛備*15の策略によって、佐竹義重*16の子・蘆名義広*17が当主となった。'90政宗豊臣秀吉*18小田原征伐に参陣するため、母の義姫の招きを受けて赴いたとき、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけたと言われている。政宗の命は助かったが、政宗は自分を毒殺しようとした弟小次郎を殺害した。1793勘当状態が解かれ、死後203年目にして法要が営まれた。(wikipediaより引用)


 100%後付の政道の諱より、幼名の竺丸や通称の小次郎の方が有名でしょうか。兄政宗と骨肉の争いを演じた彼の人生を駆け足で振り返って見ましょう。

 兄梵天丸に遅れること1年で奥州米沢に生を受けた竺丸。当初は兄弟仲良く育ち、天文の乱の痛手からようやく立ち直りつつあった伊達家の発展を二人で担うであろうと期待されていましたが、その兄弟愛が脆くも踏みにじられるのは元亀二(1571)年。兄梵天丸が流行病の天然痘に罹患、幾度も生死の境をさまよいながらも、母を始めとする家中一同の祈りを背に何とか生還。しかし、業病は命と引き換えに梵天丸の顔に消すことの出来ぬ傷跡を刻んでいったのでした。右目が腐り、眼球が眼窩から垂れ下がるという二目と見れぬ醜怪な容姿。母義姫の愛情が梵天丸を離れ、弟竺丸に一身に注がれることになったとて、誰が彼女を責められましょうや。嫡男とは言え、顔貌のコンプレックスから重度の対人恐怖症に陥った梵天丸か、五体満足で容貌怜悧、頭脳明晰の次男竺丸か。伊達家中に再び家督争いの火種が燻り始めます。
 それを救ったのは、父輝宗。先代の血で血を洗う天文の乱を見ながら育った彼には、家督争いの恐怖が身に染みていたようで、近習片倉小十郎の助けもあってコンプレックスを克服し、英明の質を見せ始めた梵天丸改め政宗への早期の家督継承を以ってこの争いに決着をつけました。
 さてそうすると、身の置き場所がなくなるのは竺丸改め小次郎。今更、兄政宗に忠誠を誓える訳もなく、さりとて謀反を起こせるほどの器量も後援もなし。穀潰し街道まっちぐらと相成りました。彼の扱いに困っていたのは兄政宗も一緒。何とかこの厄介者を片付けようと、当主亀王丸の急死で後継者問題に直面していた会津の蘆名に小次郎を押し付けようとしますが、北関東の奸雄佐竹義重の妨害により頓挫。これにより、完全に獅子身中の虫と成り果てた小次郎は、政宗毒殺未遂の嫌疑をかけられ誅殺されるのでした。

教訓:弟の出来が中途半端にいいとたちが悪い。

伊達政宗 (Truth In History)

伊達政宗 (Truth In History)

宇宙へ祈り空気に響き君の声はまだ届かない

上でも述べましたが、まこと上意下達と暴君独裁は紙一重。やはり毛沢東に対する王逸や伊達政宗に対する片倉景綱のような命を張って諫言してくれる部下は必要ですね。それがいないのなら、耄碌する前にさっさと引退して優秀な息子にでも家督を譲ってあげてください。老残を晒すだけならともかく、気づいたら政宗は独立して、手元には優柔不断の伊達政道しか後継者が残ってないなんてなことにもなりかねませんよ。

ANOTHER STORY(CCCD)

ANOTHER STORY(CCCD)

http://video.google.com/videoplay?docid=-1925468788351001939

帰ってきた今日の一行知識

文化大革命時、赤信号を「進め」の意味に変えようという運動があった。
革命の狂気。絶対にこの国を革命を謳う売国奴の手に渡してはなりません。

*1:書き下し:国の創建に当たりてや、上意下達し、下情上通し、歓然として間なく、而して天下治まる。意味:国を作るに当たっては、お上の意志を民がきちんと理解し、下々の思いを為政者が汲み上げ、不必要な間を作らず打ち解け合えば、国は治まる。

*2:Zhu De。第2-4代全人代委員長。字は玉階。南昌起義からの盟友として毛を支え続けた。

*3:Qin Bang-xian。中国共産党総書記。江蘇省常熟県の人。30年代前半の共産党極左路線の指導者。毛沢東台頭後は、新華社通信代表として活躍。

*4:Liu Shao-qi。第2代中華人民共和国国家主席湖南省寧郷県の人。大躍進政策など失策を続ける毛沢東に諫言を続け、反毛勢力「実権派」のリーダーと目されるようになった為、文化大革命で逮捕監禁憤死。

*5:Deng Xiao-ping四川省広安県の人。第3代中国共産党中央軍事委員会主席。3度の失脚を乗り越え、毛沢東後の中国最高権力者の座を保持。改革開放路線に舵を切る。

*6:Lin Biao。中華人民共和国元帥。湖北省黄安県の人。劉少奇亡き後、毛沢東の後継者に擬されるも、毛の不興を買い冷遇。毛暗殺計画露見後、モンゴル逃亡中飛行機墜落により死去。

*7:Liang Wen-Xiu。軍機章京。字は史了。直隷省静海県の人。母朱妾、妻楊氏→李玲玲。兄に文源。日本名:柳川文秀。岳父楊喜腊の下で変法自強運動の中核を為すも、戊戌の政変により失脚、日本に亡命。袁世凱死後、中国に帰還し国民党に参加。

*8:Li Hung-Chang。字は少筌。安徽省合肥の人。直隷総督。淮軍を組織し太平天国平定に功を挙げ、直隷総督に就任。私財を投じ北洋軍を建設、洋務運動を後援。当事者能力を失った紫禁城に代わり、対外交渉を一手に担う。

*9:Yuan Shi-Kai。字は慰亭。河南省河城県の人。中華帝国初代皇帝。李鴻章の後を襲い、北洋軍の全権を掌握。義和団の乱鎮定などに功を挙げ、辛亥革命を主導し、独裁体制を確立。

*10:陸奥戦国大名左京大夫。父晴宗、母久保姫。天文の乱後の乱れた家中の建て直しに粉骨するも、力不足を悟り政宗禅譲。隠居していたところを畠山義継に拉致され、諸共に銃殺。

*11:出羽の戦国大名修理大夫。父中野義清。天文の乱の混乱に乗じ伊達氏からの独立を果たす。

*12:山形藩初代藩主。右京大夫。父義守、母永浦尼。出羽統一を果たし、隣国伊達氏との小競り合いを続ける。豊臣政権下では徳川家康に接近し、関が原の戦いでは上杉軍と死闘を繰り広げ、その功で山形57万石を安堵される。

*13:伊達輝宗正室。子に政宗・小次郎。通称:「奥羽の鬼姫」。伊達・最上の友好に尽力するも、次男小次郎への過度の愛情が祟って実家に戻される。

*14:仙台初代藩主。権中納言。父輝宗、母義姫。通称:「独眼竜」。蘆名・二本松を滅ぼし東北に一大勢力を築くも、奥州征伐に屈服。豊臣政権下では家康と組んで数々の策動を為し、関が原の合戦でも上杉・最上と三つ巴の死闘を繰り広げるも、その野心を憎まれ仙台60万石の安堵に留まる。

*15:狐戻城主。遠江守(自称)。蘆名氏の執権として家中に重きを成すも摺上原の戦いで戦死。

*16:常陸戦国大名常陸介。父義昭、母岩城重隆女。通称:「鬼義重」。後北条・伊達両氏と激闘を繰り広げ、佐竹氏全盛期を現出。早くから秀吉に帰順し、その力を背景に常陸を統一。

*17:義勝。江戸崎の大名。若年と外様の出身が祟って家中掌握に失敗、蘆名氏滅亡を招く。以後は実家に戻り、江戸崎・角舘を経営。

*18:関白。従一位。父木下弥右衛門、母大政所、養父近衛前久。通称:「はげ鼠」。「信長四天王」が一。信長に重用され、織田家中で重きを成す。信長死後、織田政権後継者争いを制し、絢爛たる桃山時代を現出。近世への扉を開いた。