脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『近衛文麿と重臣たち〜昭和の宰相第2巻』

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これぞ野球人究極の死に様。かっての月見草も晩年の輝きは王長嶋を超えてますね。


 今まで4階に住んでたので無縁だった蚊が大量発生。夏本番の前に何か対策考えんとあきませんね。

強いのがエライわけじゃないのは分かってる

近衛文麿
 明治二十四(1891)〜昭和二十(1945)年。昭和期の貴族政治家。五摂家筆頭の関白家の出。近衛篤麿*1の長男。近衛秀麿*2の兄。東京市麹町区出身。京都帝国大学法学部卒業。
 30歳の若さで貴族院仮議長に推されるほどの出自に恵まれ、元老西園寺公望*3にその後継を嘱望されながら、次第に西園寺を離れて「革新貴族」の道を進む。その革新性は出自に伴う権力嗜好と、河上肇*4を慕って東大から京大に転じたことに見られる出自への感傷とが交錯して、心情的に皇道派・観念右翼に近く、革新意図の過剰と結果に対する無責任さとの同居を特色とする。しばしば生ずる意図と結果の分裂、その度に運命の語を口にして感傷に逃避する彼を世評は「近衛謝ろ」と訓じ、友人木戸幸一*5も「すぐ辞めたがる男」と評したが、現実は彼の投じた布石を跳躍台にして国内革新・対外侵略の歩が進められた。1918論文「英米本位の平和主義を拝す」を発表、後年の東亜新秩序への方向性を示す。ベルサイユ講和会議全権随員から帰国後’20森恪*6貴族院改革を唱えて憲法研究会を組織、’27同会を脱して火曜会を作る。’31貴族院副議長、’33同議長に進み、この間多くの革新勢力と接して革新貴族の姿勢を固める。革新のホープとしての期待の高まる中で’37第一次内閣を組織、日中戦争勃発に際し当初の不拡大方針が破れると’38「国民政府を対手とせず」と声明して自ら解決の道を塞ぐ。親軍新党運動は彼を中心に展開、総辞職後、枢密院議長。’40第二次内閣発足と共に新体制運動を進めて、政党解消・翼賛会の実現、また「松岡外交」を軌道に乗せて枢軸外交・南進策を確立した。その後の日米交渉過程で松岡洋右*7を更迭、第三次内閣を率い交渉成立に努めたが、東条英機*8陸相主戦論の前に総辞職。開戦後、戦局悪化と共に「国体護持の立前より最も憂うべきは敗戦よりも共産革命」との立場から和平の宮廷工作に当たる。敗戦後東久邇宮内閣の国務相、次いで内府御用掛として憲法改正に当たったが、GHQの戦犯出頭命令を受けて服毒自殺した。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より引用)

 五・一五事件で崩壊した政党政治の後を襲う中間内閣の時代。政軍協調を託されて戴冠した彼らですが、軍部の傍若無人な突き上げと保身と内紛で腰の引けた政党の所為で、結局何も出来ないままずるずる軍部の暴走に引きずられてしまいます。正直後の展開を知ってる身としては呼んでて辛いものがあります。特に歯痒いののは本巻の主人公近衛文麿のへっぴり腰。高貴な毛並みとそれだけは達者な弁舌で人気だけはあるものの、最後の最後は保身でするりと逃げる。改めて貴族に政治をやらすもんじゃないとつくづく。

戦うだけがバトルじゃないのも何となく分かってる

 この時代を顧みてつくづく思うのは、戦前から日本人は一切進歩してねーなということ。無責任に受けのいい綺麗事だけを垂れ流すマスコミ、問題先送りの天才官僚、自身の保身しか考えない財界、党争に明け暮れ現実とは乖離したままの政党。あの時代と今とで違うのはイケイケどんどんの明日無き暴走を続ける軍部がいないことぐらいでしょうか。あの日の悲劇を教訓にするためにも皆さんもっと歴史を楽しみましょう。

RICA the BEST

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【サイボーグ009MAD】 みんながいたから - ニコニコ動画

*1:第3代貴族院議長。公爵。父近衛忠房、母(島津)光子、養父近衛忠煕。「ノブレス・オブリージュ」を自任し、大アジア主義を推進、東亜同文会を創設。

*2:子爵。父篤麿、母(前田)貞。日本交響楽団を創設。日本オーケストラのパイオニア。代表作:「越天楽」(編曲)、「ちんちん千鳥」(作曲)、「オーケストラをきく人へ」(著作)他。

*3:第12・14代内閣総理大臣。公爵。父徳大寺公純、養父西園寺師季。伊藤博文の後継者として「桂園時代」を築く。総理辞職後は「最後の元老」として「憲政の常道」を実現するも、軍部の暴走を止めることはできなかった。

*4:代表作:「唯物史観研究」(論文)、「貧乏物語」(小説)、「資本論」(翻訳)他。

*5:平沼内閣内務大臣。侯爵。父孝正、母(山尾)寿栄。日記に『木戸日記』。「天皇の秘書」として太平洋戦争早期和平に尽力。

*6:田中義一内閣外務政務次官。父作太郎。東洋のセシル=ローズを自任し、対中国積極政策を唱導。政友会の要職にありながら一貫して親軍的立場を取り続け、結果として政党政治の崩壊を招く。

*7:第二次近衛内閣外務大臣。「満州の弐キ参スケ」が一。国際連盟脱退のパフォーマンスで得た国民的人気を背景に、「松岡外交」を展開、英米との決裂を決定的にした。

*8:第40代内閣総理大臣。陸軍大将。父英教。孫に由布子。永田鉄山の後継者として陸軍統制派を主導。天皇からの絶対的信任を背景に独裁体制を敷き、太平洋戦争開戦。戦後東京裁判によりA級戦犯筆頭として絞首刑。