脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『われ巣鴨に出頭せず』

ヒロイモノ中毒 【悲報】映画「空母いぶき」、原作への敬意も何も無い
周りがこのノリだったんなら、そら佐藤浩市も無邪気に質の悪い悪ふざけするわ


 駅前の公営駐輪場を定期利用しようとシルバー人材の方々のたむろする詰所へ。そこでお値段訊きましたら帰ってきた答えは「2万円」。「ふざけんな!」って叫びかけたら、横から「月間じゃなくて年間で」のフォローが。みんなもっと単位系は丁寧に扱おうよう。


競馬成績・・・2019収支-32030

SRWT進捗

われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇 (中公文庫)

われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇 (中公文庫)

男なら男ならどこで果てよと何を叱ろう

近衛文麿
 明治二十四(1891)~昭和二十(1945)年。昭和期の政治家。東京生れ。近衛篤麿*1の長男、同秀麿*2の異母兄。京都帝大卒。
 1916貴族院議員。'19西園寺公望*3の随員としてパリ講和会議に陪席、'33貴族院議長となる。二・二六事件直後組閣の大命を拝辞。'37再度の大命に、'37.6第一次近衛内閣発足。直後に勃発した日中戦争では、「国民政府ヲ対手トセズ」と声明を発して戦争の早期和平に失敗。'39.1辞職し枢密院議長に転ずる。'40新体制運動を組織し、'40.7第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立、日独伊三国同盟締結を行うが南部仏印進駐で対米関係を悪化させ、'41.7松岡洋右*4を更迭して第三次内閣を組閣。しかし日米交渉妥結の展望を失い'41.10総辞職する。閑居中に戦局不利となると戦争終結の上奏文を提出。'45戦犯容疑で指名され服毒自殺した。著に『清談録』('27)など。(『新潮日本人名辞典』より引用)

 最近マイナス方向への再評価著しい近衛文麿を主人公にした伝記。伝記にあるまじき主人公補正で、「清廉な正義感で情熱的に国務にあたるも周囲の無理解から挫折し、誤解から来る濡れ衣を払おうともせずに粛然と自死を選んだ高潔な国士」といった描写がされています。ちょっと見方を変えるだけでここまで評価が変わるもんかとちょっと感動。敵役としてはお馴染みの東条英機は勿論、かつての親友が闇落ちして敵に回るという実に王道な展開で木戸幸一が立ちはだかります。となれば、この二人って昭和天皇の大のお気に入りで、逆に近衛はその不遜な態度から地味に敬遠されてたってことを鑑みると真の悪は昭和天皇って構図になるはずなんですが、流石にそこまでは踏み込めてません。まあ、近衛も昭和天皇が忌み嫌ってる皇道派の連中を懲りずに何度も推挙してるんだからそら嫌われるわなと。つーか、どんな思考回路してたら真崎や荒木の陸軍大臣案が通ると思えるんだろうか、お公家様の考えることは庶民には分りません。
 そんな訳で、どれだけ意識が高くて、人望が厚くて、人脈が豊富でも空気が読めないだけでここまであかんくなるんだという事を分からせてくれる一冊です。世の中にはその名前を出した瞬間すべての交渉が一瞬で決裂するレベルで嫌われてる奴がいるってことをしっかり覚えときましょう。

運否天賦は風まかせ男だよやってきな

 結果責任でぼろくそに叩かれがちな近衛文麿ですが、やろうとしてたこと自体は比較的真っ当だったりします。上述の通り、はなから通る訳ない人事案とセットにしたり、面倒くさくなって途中で放り投げたりしまくってるから全部メタメタになってるだけで。やっぱり世の中最後に物を言うのは決然と押し貫く意志力ですね。

青春歌年鑑[戦前編]2 昭和9年~12年(1934年~37年)

青春歌年鑑[戦前編]2 昭和9年~12年(1934年~37年)


男なら 林伊佐緒・近衛八郎・樋口静雄

帰ってきた今日の一行知識

近衛文麿天皇に拝謁するときも組んだ足を崩さなかった

普通は直立不動でひたすら恐縮するのが一般的なところを。流石は五摂家筆頭の貴公子ですね。・・・そら嫌われるわ。

*1:貴族院第3代議長。公爵。父忠房、母貞姫、養父近衛忠熈華族の代表として藩閥政府に対抗し、貴族院に大きな地歩を占める。大陸進出に積極的で東亜同文会を結成するなどオピニオンリーダーを務めた。

*2:ABC交響楽団主宰。子爵。母(前田)貞。クライバーに師事し、指揮者として名声を博する。新響・近響・ABC響など数々の交響楽団を創始するも経営者としては無能ですべて石もて逐われた。代表作:「ちんちん千鳥」、「立命館大学校歌」、「法政大学校歌」(作曲)他。

*3:第12・14代内閣総理大臣。公爵。父徳大寺公純、母(末弘)斐子、養父西園寺師季。フランスに留学し東洋自由新聞を発刊するも周囲の圧力により廃刊。その後伊藤博文に見出され累進、伊藤の後継者として政友会総裁となり桂園時代を現出。2個師団増設問題で下野すると元老として憲政の常道確立に尽力。「最後の元老」となってからは増大する陸軍の勢力を掣肘せんと奮闘するも志半ばに病死。

*4:第2次近衛内閣外務大臣。勲三等旭日中綬章。外交官や満鉄理事として活躍したのち政治家に転身。満蒙生命線を掲げ幣原外交を糾弾。首席全権として国際連盟を脱退すると国民的英雄となり、松岡外交を主導し日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結するも独ソ戦開戦により失脚。戦後A級戦犯として逮捕獄死。