脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『近衛内閣』

【衆院選】 大阪維新の会、全国の小選挙区に候補者を擁立へ・・・民主党候補にぶつける方針:黒マッチョニュース
橋下閣下の全国区雄飛は寿ぐべきことなのですが、先の統一地方選の際の維新の会の候補者連中見てると、青臭い理想論しか吐けない政治ごっこ大好きなお坊ちゃんばかりだったので、今回も同じ轍を踏むんではないかと。


 大学時代のサークルの後輩連と飲み会。財布にはちと痛かったですが、気を一切遣わないで済む飲み会ってのは楽でいーなー。

魔装機神Ⅱ進捗

  • 第21話「エランの目的」ラスフィトート現臨失敗。トップエース:ライコウ=ゼフェンバー@スヴェンド・ニーダム

近衛内閣 (1982年) (中公文庫)

近衛内閣 (1982年) (中公文庫)

真っ白なまま迷子みたい

近衛文麿内閣
 〈第一次〉昭和十二(1937)〜昭和十四('39)年。成立1ヶ月後に発生した盧溝橋事件を契機に日中全面戦争に踏み切り、国民精神総動員運動・企画院設置・国家総動員法公布などにより総動員体制の確立を図った。汪兆銘工作による戦争終結を目指したが、実現せぬまま総辞職。
 〈第二次〉昭和十五('40)〜昭和十六('41)年。国内的には新体制運動を展開し大政翼賛会を発足させ、国民動員体制の確立を期し、対外的には北部仏印進駐・日独伊三国同盟締結により日米体制の悪化を招いた。'41春日米交渉を開始したが、近衛*1首相と松岡洋右*2外相が対立し、総辞職に至った。
 〈第三次〉昭和十六('41)年7月18日〜10月18日。外相に豊田貞次郎*3を起用し、日米交渉を継続したが、日本の南部仏印進駐に際してアメリカは在米日本資産凍結、対日石油全面禁輸を実施、日米関係の悪化は決定的となり、'41.9.6御前会議で対米開戦の方針を決定したが、近衛は開戦に踏み切れず総辞職。(『岩波日本史辞典』より引用)


 第一次近衛内閣発足から第二次近衛内閣発足までを、近衛の側近風見章が赤裸々に語る伝記風回顧録。時期的には日中戦争勃発〜泥沼化にかけての日本が本格的に後戻りできなくなった頃の物語なので、当事者たちの意見は貴重なのですが、いかんせん当事者すぎて自己弁明に終始しているのがちょっと。近衛およびその側近連は必死で不拡大及び日支友好を志向していたのに、国内外の連中みんな非協力的だったから何も出来なかったってのは、言い訳にしても見苦しいものがあります。陸の杉山・海の米内ともに口ではいいこと言いながらも実際には全く現場への抑えが効いてなかったり、外務省及び政党は軍部に萎縮しまくりで完全にお客様だったり、内閣は内閣で完全につんぼ桟敷だったりと、関係者が揃いも揃って当事者意識と能力を喪失しているのが可笑しいやら情けないやら。こりゃあ勝てるわけないや。

 

まわる空気まぐれにまた風が吹く

 有事においては何もしないのが最大の悪行とはよく言われますが、昭和初期の政治家連を見ているとそれが痛感できます。願わくは、今この時代が後世の文筆屋に指差して笑われるような時代になりませんことを。まだ、間に合いますよね?

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帰ってきた今日の一行知識

近衛がソ連に仲介を頼んでいた終戦工作の条件はポツダム宣言受諾よりも厳しいものだった
曰く、全ての海外領土及び琉球諸島、小笠原列島、北千島の放棄に加え、日本軍将校の労働力としての提供。結果的には、怪我の功名で失敗してよかった、って感じですね。ほんまこの人はしれっと売国行為に走るから困る

*1:文麿。第34・38-39代内閣総理大臣。公爵。父篤麿、母(前田)衍子。孫に細川護熙五摂家筆頭の名門華族の出自と西園寺公望の寵愛から「革新貴族」の代表格として大正デモクラシー期及び昭和初期の政界に存在感を示した。圧倒的な国民的人気を背景に首相就任するも支那事変の事態収集失敗により退陣。その後、日米関係改善を期待され再度戴冠するも外務省や陸軍の暴走を掣肘できぬまま下野。敗戦後、一時首相候補に擬されるも戦犯指名を受け自殺。

*2:第二次近衛内閣外務大臣。外交官として要職を歴任した後、満鉄副総裁に就任。政界進出後は「満蒙生命線」をキャッチフレーズに積極外交を主張し一躍時の人となる。国際連盟脱退時の全権としての活躍により、その人気は絶大なものとなり、昭和10年代前半の「松岡外交」を主導することとなった。日独伊三国同盟・日ソ中立条約の締結や、大東亜共栄圏建設の提唱は日本の孤立を深め、独ソ開戦による自身の外交方針の破綻により失脚。

*3:第三次近衛内閣外務大臣。海軍大将。父信太郎。オクスフォード大卒の天才肌として海軍の要職を歴任し、日独伊三国同盟締結に大きな役割を果たした。その功により政界進出し、各種大臣職を歴任するも時流には抗いがたく敗戦。