脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

淫売と松浦と徳川初代将軍について

ブログちゃんねる:ブラックジョークを延々とあげていくスレ
日本にも早くこの文化が根付きますように


 先日イラン事書いた途端鬼のような寒さ。コート何処仕舞ったっけ。

時代をちょっと先取るぞ

淫売

聖少女領域pt2 - 脱積読宣言

淫売
 女が男から金銭などの代償を得て肉体を提供する行為。または、その行為をする人のこと。現代の「売春」あるいは「売春婦」と同義語。昭和初期までは「売春」より「淫売」の方が一般的に使われていた。(『いろの辞典 改訂版』より引用)

 なんとも大時代な罵倒語で、現代日本語に直すと、ヤリマンとかビッチになるでしょうか。最近ではとんとこんな古風な表現を使いこなせる作家もおらず、大昔の小説なんぞを読んでてこの表現がでてくるとなんだか嬉しくなってしまいます。しかし、淫売→売女→アバズレ→サセ子・・・と、この手の表現の変遷を追うと、現代日本語のサイクルの速さに驚かされますね。

松浦

SAVIOR IN THE DARK - 脱積読宣言

松浦
 長崎県北部・佐賀県西北部を占める肥前国の旧都。玄界灘に臨み、大陸文化の移入地として古い歴史を持つ。1878松浦郡を東西南北松浦郡に分割、南北2郡を長崎県、東西2郡を佐賀県とした。(『コンサイス日本地名事典 第3版』より引用)

 松浦地方と聞いて、一番最初に思いついたのが室町期の松浦党だったのは、我ながら流石に病んでます。

 そんなこんなで、ネタにしようもないので、大人しく松浦地方の歴史概説。
 『魏志』「倭人伝」に「末盧国」として出てくるのが多分初出。朝鮮半島対馬壱岐→松浦半島と続く中国北部からの文化流入路として、大層発展していたと思しき古代松浦地方ですが、大宰府の完成により、外交ルートを博多に握られてからはあまりパッとした活躍を見せません。
 そんな松浦地方が再度脚光を浴びるのは中世鎌倉後期。海賊松浦党が蟠居する前期倭寇の根拠地としてです。その後、倭寇の跳梁の影響で高麗が滅び、李氏朝鮮倭寇との宥和政策に乗り出すと、松浦地方は再び中国朝鮮との私貿易の玄関口として発展しましました。
 江戸期以降は分厚い対外研究史もあるし、個人的にあまり興味もないので省略。松浦静山鍋島閑叟開明藩主を輩出するなど、「先進」地域だったのは間違いなさそうです。

壱岐・対馬と松浦半島 (街道の日本史)

壱岐・対馬と松浦半島 (街道の日本史)

徳川初代将軍

GONG - 脱積読宣言

徳川家康
 天文十一(1542)〜元和二(1616)年。江戸幕府の初代将軍。三河国岡崎城松平広忠*1の長男、母は刈谷城主水野忠政*2の娘於大(伝通院)*3三河国岡崎出身。幼名竹千代、のち元信・元康、院号は安国院、諡号東照大権現
 1547尾張国織田信秀*4、次いで駿河国今川義元*5の下で人質となる。'57今川氏の重臣関口義弘*6の娘(築山殿)*7を妻とする。'60桶狭間の戦いで義元が戦死してから岡崎に帰り今川氏を離れる。'62織田信長*8と結び、'63.9-'64.3の三河一向一揆を鎮圧し、その勢力範囲を着々と拡大。本多作左衛門*9・高力左近*10・天野三郎兵衛*11らがこれを助けた。'68武田信玄*12との間に大井川を境に駿遠分割の議が出、家康は遠江を占領した。この頃勅許により松平を徳川氏と改める。'70居城を浜松に移し、信長の要請により援軍を送り、'70.4越前国朝倉義景*13を、'70.6近江国浅井長政*14姉川で破る。'72信玄と浜松城の北、三方ヶ原で交戦し大敗する。'73信玄が没すると信長と共に'75信玄の子勝頼*15長篠城外の設楽原で破り、'82.3信長と連合して甲州に入り勝頼を自殺せしめた。'82本能寺の変で信長が没した後、甲斐国を抑えて豊臣秀吉*16と対立していたが、'86和睦し、以後秀吉の全国統一に協力した。'90北条氏を小田原に攻めこれを滅ぼし、その功により関八州を与えられ武蔵国に入り、江戸を居城とした。秀吉の死後、1600関ヶ原の戦いで宇喜多・島津・長宗我部・石田・小西らの西軍を破り対抗勢力の一掃に成功。'03征夷大将軍に任じられたが、'05将軍職を子の秀忠*17に譲り大御所と呼ばれた。引退後は駿府に住した。'14-'15大坂の役で豊臣氏を滅ぼし天下統一に成功した。'16.3太政大臣となり、'16.4.14没した。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より引用)

 不遇の人質時代、織田信長の盟友、豊臣秀吉と互角に戦った海道一の弓取り、煮ても焼いても食えない狸親父、江戸三百年の泰平の基礎を築いた大御所、武士の模範東照大権現etcと、様々の側面で語りつくされた感のある徳川家康ではありますが、「徳川初代将軍」としてのアプローチは意外に少ない気がします。それもそのはずで、家康が将軍位にあったのは慶長八(1603)年二月から十('05)年四月までの僅か二年と二ヶ月の間のみなのです。その間の大きな政策といえば、武家伝奏長崎奉行の設置、千姫輿入れ、糸割符制導入位です。武家諸法度などの江戸幕府の基礎たる諸制度は殆どが二代秀忠の時代に定められています。家康と家光に挟まれて、極端に影の薄い秀忠ですが、足利二代の義詮と共に再評価の急がれる人物ではないでしょうか。

徳川将軍の意外なウラ事情(愛蔵版)

徳川将軍の意外なウラ事情(愛蔵版)

たまにはセンチになっちゃう時もある

 日本史を見直す度に思うのが、「日本人はホントに二重権力構造が大好きだなあ。」ということです。家康が徳川初代将軍の座を早々に退き、大御所として権勢を揮ったのなどその典型でしょう。名目上の玄関大宰府博多と実用的な勝手口松浦をの様に、本音と建前を使い分ける日本の「曖昧」文化には是非様々あるでしょうが、そろそろ淫売の如くに中華帝国や欧米文化に軽々しく股を開くのをやめて、日本古来の文化たる「院政」を見直すべき時代になっているのではないでしょうか。どれだけ憧れても、中国人にも白人にもなれるわけはないのですから。

Yeah! めっちゃホリディ

Yeah! めっちゃホリディ

YouTube

*1:父清康、母青木守隆女。今川氏に臣従。

*2:下野守。父清忠。旧名:妙茂。織田信秀の西三河進攻に協力。

*3:松平広忠久松俊勝。母於富。子に徳川家康松平康元・康俊・定勝、松平忠正夫人、松平康長夫人、松平家清夫人。

*4:尾張戦国大名三河守。父信定、母含笑院。息子に信長。通称:「尾張の虎」。

*5:駿河戦国大名。治部大輔。父氏親、母寿桂尼。今川かな目録を制定。通称:「海道一の弓取り」

*6:親永。用宗城々主。義理の兄に今川義元

*7:瀬名。徳川家康正室。子に徳川信康、亀姫。信康の武田通謀疑惑に連座し処刑。通称「駿河御前」

*8:尾張美濃の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。第六天魔王を自称し、中世秩序を破壊。

*9:重次。父重正。三河三奉行が一。「日本一短い手紙」で有名。通称「鬼作左」

*10:清長。岩槻藩初代藩主。父安長。三河三奉行が一。通称「仏高力」。

*11:康景。興国寺藩々主。父景勝。三河三奉行が一。

*12:晴信。甲斐の戦国大名。大膳大夫。父信虎、母大井の方。通称「甲斐の虎」

*13:越前国守護。左衛門督。父孝景、母高徳院。旧名:延景。

*14:北近江の戦国大名備前守。父久政、母小野殿、妻お市の方。旧名:賢政。子に淀殿、小督の方、井頼。

*15:甲斐の戦国大名。母諏訪御料人。旧姓:諏訪。通称:四郎。武田二十四将が一。

*16:関白。父弥右衛門、母大政所。旧姓:木下→羽柴。通称:藤吉郎、「豊太閤」。

*17:徳川第2代将軍。太政大臣。母宝台院。江戸幕府の諸制度の基礎を築く。