痛いニュース(ノ∀`) : 【格闘技】 「躊躇なく折りました」 相手選手の腕を折り、中指を立てた青木真也の行為に賛否…TBS「Dynamite!!」 - ライブドアブログ
決着後のパフォーマンスこそ多少下品なものの、最後のカタストロフィーに至るまでの試合運びも見事な名試合だったと思うのは、私がどっか壊れてんでしょうか。
ようやく年の瀬進行も一段落。世間様に比べれば非常にのんびりした職場なので弱音を吐いては笑われるのでしょうが、忘年会行脚からそのまま突入したのは失敗だったなと。あと一日がんばるぞー。
SRWZ進捗
- スペシャルモード第53話「月面決戦」残敵掃討中。トップエース:ランド=トラビス@ガンレオン。
武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者: 笹本正治
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
- クリック: 8回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
心は、空を裂く号令を聞いた跳ね馬のように乱暴だけど
武田信玄
大永元(1521)〜天正元('73)年。戦国時代の大名。武田信虎*1の長男、母は大井信達*2の娘*3。甲斐国石水寺出身。諱:晴信、号:徳栄軒。
1536元服、将軍足利義晴*4の偏諱を受け従五位下大膳太夫。'41父信虎を追放して自立し、'42信濃国諏訪、'45伊那を取り、筑摩郡の小笠原長時*5、埴科郡の村上義清*6を圧迫する。'49義清と上田原に戦い敗れたが、'49塩尻峠に長時を破り、'51長時を越後に逐い、'53義清を越後に走らせる。'53・'55・'57・'61・'64の5回川中島に上杉謙信*7と戦い北信を制圧する。'54駿河国善徳寺で北条氏康*8・今川義元*9と会盟し、'58以後氏康を助けてしばしば関東に出兵し謙信と対抗する。義元敗死後、今川氏との和親を説く嫡子義信*10と対立、'67自殺させ、'68-'69駿河に進出する。その間、後北条氏と抗争し駿河及び小田原に戦い、西上野を版図に収める。'71北条氏政*11と和し、将軍足利義昭*12・本願寺の顕如*13・朝倉氏・浅井氏らの反織田信長*14勢力と結び、'72西上の大軍を起こす。遠江国三方ヶ原で徳川家康*15を破り、転じて三河国野田城攻囲中に発病、'73帰国の途中信濃国伊那の駒場で死んだ。卓抜な戦略・戦術家で、'47「甲州法度之次第」を発布、家臣団の編成と統制、検地・治水等、領国経営に見るべき施策が多い。法名は法性院信玄。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)
最強の戦国大名の呼び声高き信玄公ですが、実際の事績となれば、知られているのは局地戦たる川中島の戦い、多少詳しい人でも神君家康を一敗地に見えさせた三方が原の戦いを知ってる位でないでしょうか。そんな彼の生涯を事細かに学術と娯楽とを両立させつつ語ってくれる名著です。あまり知られることのない信州攻略の歴戦の雄姿は心躍らせざるを得ません。流石に、行政や学問、信仰の話題になると退屈な史料紹介に終わってしまっている気もしますが、それでも十二分に楽しんで読めるレベルは維持しています。昨今の直江兼続ブームで甲信越の戦国史に興味持った皆さんが歴史ファンから歴史家への階梯を上がる最初の一段にするのに最適な一冊ではないでしょうか。是非ご一読を。信長や謙信のような破綻した天才でこそありませんが、自分のできることを最大限の努力で一つずつ成し遂げた秀才の姿は我々に何かしらを語りかけてくれるような気がします。
ここに留まることを許しはしない
信玄は徳川家に再雇用された遺臣たちの手によって誇大に語り継がれた幻影である。というのが個人的な意見です。甲信駿に西上野と三カ国半を領し、領内に善政を布いたその功績を貶める気は更々ありませんが、所詮は飽くまで旧時代の枠組みに囚われた「凡人」でしかないように思います。彼にとって幸福だったのは信長と本格的な抗争を始める前に死ねたことと、「お得意様」だった徳川氏が天下を取ってくれたことでしょう。一言で戦国ブームと言っても一昔前の「信長の野望」世代とは違い、今の人気の中心は信玄死後の安土桃山時代。このまま静かに忘れ去られていくというのが、彼にとっては平穏な終わり方かもしれませんね。
帰ってきた今日の一行知識
武田信玄は上杉謙信を終生「長尾」と呼び続けた
信玄のアイデンティティーの一つに「甲斐源氏の名族」という自負があった為、ライバルの謙信が名門上杉家の名跡を継いだという事実が受け入れられなかった様です。信玄も所詮は愛すべき小人物だったんですね。
*1:甲斐国守護。陸奥守。父信縄、母岩下氏。旧名:信直。国人衆や今川・上杉氏との抗争に勝利し、甲斐統一に成功。次いで信州進出を目指すも、相次ぐ戦乱に人心は離反し、子の晴信により追放。
*2:上野城主。父信包。今川氏に臣従し国主の信虎に反攻するも、両氏の和睦の結果、娘を差し出し信虎に臣従。その後も再度反旗を翻すも今諏訪の戦いに敗れ隠居。
*3:大井夫人。武田信虎正室。子に定恵院、信玄、伊春、信繁、信廉。
*4:室町第12代将軍。右近衛大将。父義澄、母日野永俊女。細川高国に擁立され将軍就任。幕府の実権を握った細川晴元と対立和解を繰り返し、度々京を逐われた。
*5:信濃守護。大膳大夫。父長棟、母浦野弾正忠女。信州の名族の筆頭格として信玄の信濃侵攻に対抗するも、塩尻峠の戦いなどに敗れ、越後に逐われた。
*6:北信濃の戦国大名。周防守。父顕国、母斯波義寛女。北信濃の実力者として、信玄の信濃侵攻に抵抗。上田原の戦いや砥石崩れなどで何度も信玄を撃退するも、真田幸隆の調略により裏切りが相次ぎ、終には越後に逐われ謙信を頼り、川中島の戦いの発端となった。
*7:輝虎。関東管領。弾正少弼。父長尾為景、母青岩院。養父:長尾晴景→上杉憲政。旧名:景虎→政虎。兄の暗愚により家臣団に担がれ家督相続。家臣団の内訌を治め越後統一に成功後、上杉憲政を保護し関東管領職に就任。西の一向一揆や南の武田信玄と抗争を繰り返しながらも、念願の関東制覇に向け何度も遠征「越後の龍」の雷名を轟かすも果たせず。第二次信長包囲網に参加し、西上を図るも志半ばに病死。
*8:相模の戦国大名。左京大夫。父氏綱、母養珠院。扇谷上杉家を滅亡させ、山内上杉氏を越後に逐い、古河公方を傀儡とし、南関東の覇権を掌握。甲駿相三国同盟を結び、上杉謙信の度重なる侵攻を撃退、「関東の獅子」との異名をほしいままとした。
*9:駿遠三守護。三河守。父氏親、母寿桂尼。京の五山に学び学識を深めるも、兄氏輝の急死後家督争いに勝利し家督相続。小豆坂の戦いに勝利し、織田氏の影響を排し三河制圧に成功。甲駿相三国同盟を結び、後顧の憂いを断ち上洛を目指し尾張に侵攻するも、桶狭間の戦いで戦死。
*10:武田氏家臣。父信玄、母三条の方。信玄の嫡男として後継者に擬せられるも、妻の実家たる今川氏との外交方針で父と対立。廃嫡幽閉後に自殺。
*11:相模の戦国大名。相模守。父氏康、母瑞渓院。里見を破り南関東の統一に成功。織田・徳川と結び、上杉・武田の度重なる侵攻を撃退、関東の覇王の座を確固たるものとする。子の氏直に家督を譲ったのちも実権を握り、秀吉と対立し小田原攻めを招いた。敗北後は責を一身に受け自害。
*12:室町幕府第15代将軍。権大納言。父足利義晴、母慶寿院、養父近衛尚通。旧名:義秋。兄義輝が凶刃に斃れた際、細川藤孝に擁され還俗。朝倉氏を頼るも成果無く、明智光秀の斡旋により織田信長に頼り将軍就任。信長との蜜月は長く続かず、二度の信長包囲網を企画するも全て破れ室町幕府は滅亡。以後は毛利氏や豊臣氏の庇護を受け天寿を全うした。
*13:本願寺第11世門主。諱は光佐。父証如、母庭田重直女。京の公家や幕府要人との縁戚を背景に寺勢を拡大、朝廷・幕府より富貴と讃えられる本願寺の全盛期を現出した。織田信長の畿内進出に対抗し、二度の信長包囲網に参加し、十年の長きに亘る石山合戦を戦い抜くも時勢には抗せず敗北。信長の軍門に降り、続く秀吉政権でも圧迫を受け寺勢は縮小、彼の死後に本願寺は東西分裂した。
*14:尾張の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。尾張の大うつけと蔑まれながらも、家督争いに勝利し、尾張を統一。桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼし虎口を逃れて以降、美濃制圧、足利義昭を擁して上洛と破竹の勢いで近畿を制圧。実質的な室町幕府の後継者となった。信長包囲網を打ち破り国内に敵なしとなって以降は第六天魔王を自称し、中世の旧秩序の破壊に邁進するも、覇道の半ばで本能寺の変にて惟任光秀の凶刃に斃れた。
*15:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。当初は織田家後に今川家の人質として不遇の少年期を過ごす。今川家の客将として活躍し、桶狭間の戦いのどさくさに紛れ、念願の独立を果たす。その後、清洲同盟を背景に版図を広げ、信長横死後は秀吉に臣従しながらも、五大老の筆頭として強い影響力を保った。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝利して徳川幕府を開闢。