脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

カープのストッパーと松平瞳子と秀吉の男色について

ドルジ速報:おまいらが彼女に求める条件を遠慮なく書いていけ
本が好き。色々あるけど一番譲れないのは多分これに尽きるかと。


 忘年会シーズン到来。10日で5回ってのは流石にちとやりすぎた。醜態の報告はまた後日。


SRWZ進捗

  • スペシャルモード第51話「決別」カイメラ隊襲来。トップエース:ランド=トラビス@ガンレオン。

あなたの瞳に映ってる私はとてもきれいでなぜかせつなく

永川+小林+佐々岡+河野

2006-12-22

永川勝浩
昭和五十五(1980)年〜。広島県三次市出身。189cm、93kg。背番号20
新庄高校(1996-'98)→亜細亜大学('99-2002)→広島東洋カープ('03〜)
通算成績:試合357勝利25敗北32セーブ163ホールド35勝率.439投球回401.2奪三振449防御率3.18
'09成績:試合56勝利3敗北6セーブ36ホールド3勝率.333投球回56奪三振48防御率2.73
受賞歴

小林幹英
 昭和四十九(1974)年〜。広島県生まれ、新潟県育ち。広島東洋カープ一軍投手コーチ。
 現役時代は投球時にグラブを突き出す独特のフォームが大きな特徴だった。
 父が国家公務員で、幼少期は転勤で全国を転々とする。小学4年時から新潟市に定住。新潟東リトルリーグで本格的にプレーを開始した。
 新潟明訓高校では3年時に第73回全国高等学校野球選手権大会に出場するも開幕戦で岡本克道*1を擁した柳ヶ浦高校に敗れた。卒業後は専修大学へ進み、4年秋に東都大学リーグ2部で優勝し1部に昇格。卒業時はドラフト候補にも挙がったものの指名は見送られ、社会人のプリンスホテルへ。1996第67回都市対抗野球大会に出場後、'98年ドラフト4位で広島東洋カープに入団。
 '98シーズン開幕戦で初登板し、中日の山本昌*2に勝ち初勝利、セ・リーグ通算9人目の新人投手開幕戦勝利をマークした。その後セットアップ、クローザーに定着し、ルーキーながらリリーバーとして活躍。新人王こそ川上憲伸*3に及ばなかったものの、高橋由伸*4坪井智哉*5とともにセ・リーグ会長特別表彰を受ける。'99抑えとして期待されつつも伸び悩み、試行錯誤を繰り返した。右膝などの故障を経て、2001からは右の中継ぎとして再び年間50試合以上に登板するなど活躍を見せた。'02中継ぎの柱として活躍。ストレートとフォークボールに加え、スローカーブを駆使して50試合以上に登板し、シーズン終盤までルーキーイヤーを上回る防御率2点台前半から中盤を維持していた。最終盤で打ち込まれる試合が増え、最終的に防御率は3点台まで下がったものの、ルーキーイヤーに次ぐ成績でシーズンを終えた。
 '03年、春季キャンプ中に椎間板ヘルニアを発症し手術。リハビリと調整で一軍での登板はシーズン終盤になってからだった。'04故障などで登板機会は僅かに留まった。'05ファームで9月終盤まで防御率0点台中盤の圧倒的な安定感を見せ、13セーブポイントを挙げてウエスタン・リーグの最優秀救援投手のタイトルを獲得した。しかし度重なる故障による球威の衰えは隠せないままで、手薄だった一軍の中継ぎ陣に完全復帰するには至らず、僅か2試合の登板にとどまった。'05.10.7戦力外通告を受け、引退する意向を表明。同年オフより同チームのブルペン投手コーチに就任した。
 '06.10投手コーチを務めていた清川栄治*6が退団しオリックス・バファローズに移籍するのに伴って投手コーチに昇格。ブルペン投手コーチには小林に代わり、三軍コーチの澤崎俊和*7が昇格した。(wikipediaより引用)
選手歴:新潟明訓高校(1989-'91)→専修大学('92-'95)→プリンスホテル('96-'97)→広島東洋カープ('98-2005)
指導者歴:広島東洋カープ(2006〜)
通算成績:試合238勝利19敗北22セーブ29勝率.463投球回337奪三振356防御率3.90
受賞歴

佐々岡真司
 昭和四十二(1967)年〜。島根県那珂郡出身。中国放送野球解説者。
 町立雲城小学校3年で野球を始め、町立金城中学校では内野手であった。 島根県立浜田商業高等学校2年時に投手に転向。以来、県内屈指の投手として注目を集めたが、夏の甲子園・春のセンバツには共に縁がなかった。
 卒業後は、NTT中国野球部に入部。ソウルオリンピック代表にこそ選ばれなかったものの、アマチュア時代から既にそのスライダーの切れ味はプロでも通用すると言われていた。1989第60回都市対抗野球大会には、三菱重工広島の補強選手として出場し、初戦のNTT東日本戦で与田剛*8と息詰まるような投手戦を演じる。同年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。
 '90プロ1年目からスライダーを武器に二桁勝利・二桁セーブを挙げ、投手陣の主軸として活躍。しかし、史上初の新人で最優秀救援投手に輝いた与田剛に阻まれ、新人王の獲得はならなかった。'91先発のエースとして17勝をあげ、最多勝利、最優秀防御率の二冠を獲得。チームのリーグ優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVP、沢村賞ベストナイン(最優秀投手)と各タイトルを総ナメにした。
 それ以降は、先発、中継ぎ、抑えと頻繁に転向を繰り返すも、全体的に安定した活躍を見せた。'99.5.8中日ドラゴンズ戦ではノーヒットノーランを達成。2003.9.14横浜ベイスターズ戦では、史上6人目となる100勝100Sを達成した。'06.5.4東京ヤクルトスワローズ戦にて先発100勝目をあげる。先発100勝かつ100セーブという記録は、江夏豊*9以来史上2人目という快挙であり、各メディアで大きく取り上げられた。
 '07年、シーズン終了後、現役引退。12月1日付けで2008年、中国放送RCC。TBS系列)の野球解説者として契約。また、同系列のキー局・東京放送/TBSテレビ・ラジオの解説者も兼任することになった。(wikipediaより修整引用)
選手歴:浜田商業高校(1983-'85)→NTT中国('86-'89)→広島東洋カープ('90-2007)
通算成績:試合570勝利138敗北153セーブ106ホールド5勝率.474投球回2344.1奪三振1806防御率3.58
受賞歴

河野昌人
 昭和五十三(1978)年〜。佐賀市出身。
 龍谷高校では二年時に夏の選手権大会に出場。当時は外野手兼控え投手で初戦の越谷西高校戦にリリーフで2/3イニングの登板のみで試合は7対1で敗れた。三年夏は県大会で初戦敗退。
 1996ドラフト3位で広島東洋カープに入団。2000シドニーオリンピック野球日本代表に選出され予選リーグで3試合に登板し4イニングを無失点に抑えた。'00シーズンは9セーブを挙げ、ストッパーとして活躍も'01以降は右肘の故障・手術の影響もあり成績不振に陥る。特に'03ウエスタンリーグ大阪近鉄バファローズ戦の2回に記録した11失点・11自責点のイニング最多記録、4イニング18失点のリーグ記録を残した。シーズン終了後に広島を自由契約となり'04福岡ダイエーホークスにテスト入団、'04現役引退した。引退後は社会人野球のクラブチーム、佐賀魂で投手兼任コーチを務めた。
 '02.8.15中日戦で代打出場するなど、打撃の評価も高い選手だった。(wikipediaより修整引用)
選手歴:龍谷高校(1994-'96)→広島東洋カープ('97-2003)→福岡ダイエーホークス('04)→佐賀魂('06-'07)
指導者歴:佐賀魂('06-'07)
通算成績:試合110勝利7敗北16セーブ10勝率.304投球回184奪三振151防御率5.82


 三村達川山本三代に亘って続いたカープの投壊を象徴する毎年交代の守護神様。江夏津田大野佐々岡を輩出したストッパー王国の面影は今何処。1997-2006で佐々岡幹英澤崎河野シュール小山田永川大竹ベイル永川と実に9人が守護神役を拝命。標題の方々はそんな中の4人です。以下それぞれの思い出を紹介。

  • 佐々岡真司・・・1990・'95-'97チーム最多セーブ。大野2号。先発・中継ぎ・抑えとチーム事情に応じて大車輪の便利遣い。通算106セーブの赫々たる功績も、不思議と強烈な印象には乏しいお方。まあ抑えとして活躍したのがビッグレッドマシンの全盛期だったのだから仕方ない気はしますが。あの頃は最後まで野球中継見なくとも大体中盤で良くも悪くも試合決まってたからなぁ。
  • 小林幹英・・・'98チーム最多セーブ。序盤こそ中継ぎながらもGW明けで早8勝目の驚異的なペースで勝ち星を積み重ねる豪運も、終盤失速結局9勝止まり。憲伸由伸と同期だった所為で新人王取れなかったかわいそうな子。それでいてその後の運命は二年目のジンクスから立ち直れぬまま迷走の果てに炎上王として君臨。そしてひっそりと引退し、指導者手形で若くしてコーチへ。と、新人王の先輩二人と同じ轍とホンに不憫な子。しかしながら、指導者としては「新人王」トリオで、致命的な故障者も出さずに地獄の投壊に歯止めをかける大殊勲。アメリカ合理主義のブラウンからバキバキの精神主義者野村に監督が替わってもこの現状を維持できるか見もの。カープの未来は君たちの双肩にかかっている。
  • 河野昌人・・・2000チーム最多セーブ。達川政権下での酷使による絶望的投手不足を象徴するかのようにこの年は結局抑えを固定できず。この河野が僅か9セーブでチーム最多セーブ。当然の如くに以降もぱっとせぬままいつの間にかいなくなってました。
  • 永川勝浩・・・'03・'06-'09チーム最多セーブ。全カープファン待望の守護神誕生のはずなんですが、隔年で目覚める劇場神の血の所為で今二つ位頼れないお方。いい年はホント和製ランディ=ジョンソンの誇大広告が本気に聞こえる位バケモン染みてんですけどね。どうしても「なんで永川な〜ん」の悲鳴の方が印象に残ってしまいます。とまれ来年は綺麗な永川の年。CS進出の為にも踏ん張って下さいよ。目指せ打倒岩瀬。

カープは復活できるか

カープは復活できるか

松平瞳子+妹

2007-01-25

松平瞳子
 紅薔薇のつぼみ祐巳*10の1年後輩で乃梨子*11と同じく1年椿組に在籍。演劇部所属。長い髪の両側につくった縦ロールの髪型が特徴的で、作中では聖*12などに「電動ドリル」と例えられていて、ファンの間でも「ドリル」と呼ばれることが多い。
 祥子*13とは遠縁の親戚で、柏木優*14とは従兄妹*15に当たる。気の強い性格で祥子のことを慕っており、祐巳に対しては当初軽く見ていた節があった。しかし、次第に祐巳のペースに巻き込まれ、押し切られるように山百合会の仕事を手伝うことになる。
 演劇部では、1年生ながら文化祭公演のメインキャストに抜擢されるなど、女優としての才能に優れている。なお、初登場時と現在*16では、特に祐巳に対する姿勢に於いて性格がまるで別人である。
 クラスメイトや祥子には愛くるしく振舞うが、実は全て演技。実際は義理の両親を大切と思う繊細な性格だが、誰かに頼る事や同情される事を嫌う性格から本質を隠す。瞳子との不安定な関係を解消したいと願う祐巳からの姉妹の申し込みを、「自分に対する哀れみ」と誤解して断ると、突如、生徒会役員選挙に立候補するが落選。それまでの経緯からクラスで浮いた存在になり、挙句に祐巳に怒りをぶつけ、祥子の失望を買い孤立無援に陥ってしまう。葛藤の末、乃梨子の助けでなんとか立ち直って、祐巳に謝罪して妹にしてほしいと懇願し、自分の生い立ちを包み隠さず打ち明けた。そして、祥子の立会いのもと、祐巳のロザリオを受け取り正式に姉妹となった。(wikipediaより修整引用)
初登場:『マリア様がみてるチェリーブロッサム』「銀杏の中の桜」サクラチル 1(原作)、『マリア様がみてる〜春〜』第7話「チェリーブロッサム」(アニメ)
登場作品:『チェリーブロッサム』、『レイニーブルー』、『パラソルをさして』、『子羊たちの休暇』、『涼風さつさつ』、『レディ、GO!』、『バラエティギフト』、『チャオ ソレッラ!』、『プレミアムブック』、『特別でないただの一日』、『イン ライブラリー』、『妹オーディション』、『薔薇のミルフィーユ』、『未来の白地図』、『仮面のアクトレス』、『イラストコレクション』、『大きな扉 小さな鍵』、『クリスクロス』、『あなたを探しに』、『フレーム オブ マインド』、『薔薇の花かんむり』、『キラキラまわる』、『卒業前小景』、『ハロー グッバイ』、『リトル ホラーズ』
cv.釘宮理恵*17


1、いもうと。
2、少女。
3、嫁。また、妻。
(『大漢語林』より引用)

 波乱万丈艱難辛苦のその果てにようやく祐巳の妹におさまることの出来た瞳子ですが、元々の造形が「ライバルキャラ」だった所為か非常におさまりの悪い、ありていに言えば、失敗したカップリング臭の漂うスールとなってしまっています。キャラが二転三転の上最終的な着地点が素直で気の利く良い子では主人公の妹にしてはインパクトにかけます。この性格はどっちかってーとトラブルメイカ由乃の妹向きでなかろーかと愚考。個人的には今からでも「キラキラまわる」のラスト付近で片鱗を見せたベったべたのツンデレキャラにジョブチェンジした方がまだ話に絡みようがある気がします。折角中の人に釘宮使ってんですしね。
 自身は妹失格の嫌いのある瞳子ですが、自分の妹探しはどうなるのでしょうか。個人的に待望してやまない乃梨子主人公返り咲き編が描かれるのであれば、恐らく副旋律の主題となるであろうこの問題。あなたはどんな子がお好みですか。個人的には、祐巳とは別ベクトルで瞳子の演技の仮面を剥がしてしまうような我が道を行く豪傑を期待。ああ早く「マリみて」の新シリーズ読みたいなー。

秀吉+男色

2006-11-12
2006-02-18

豊臣秀吉
 天文六(1537)〜慶長三('98)年。安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡中村出身。父木下弥右衛門*18、母なか*19
 父は戦傷の為帰農し、1543没、母は秀吉と姉*20一人を抱え信秀*21同朋衆竹阿弥*22と再婚した。幼時は面相から小猿と呼ばれ日吉丸と称した。'51元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文を持って家出。行商ののち、今川家の家臣松下之綱*23、次いで織田信長*24に士官、'61織田家の弓衆浅野長勝*25の養女ねね*26を娶り、木下藤吉郎秀吉と名乗った。清洲城普請、墨俣築城、次いで京都警備、江北出陣と戦功を重ね、'73.8浅井氏の滅亡により小谷城と旧領十八万石、羽柴姓と筑前守の受領名を給わった。次いで湖辺今浜の古城址長浜城を経営、年貢・諸役免除など繁栄に尽力した。信長の天下統一が西国に及ぶと命に従って転戦。'82播磨・但馬・因幡・淡路を征し、備中高松城に毛利軍と対陣中に本能寺の凶変を知った。秀吉は逸早く和睦して軍を返し、山崎に謀反人明智光秀*27を討って信長の統一事業を継承。織田信孝*28柴田勝家*29滝川一益*30らの同僚の反発を抑え、'84織田信雄*31徳川家康*32の連合軍と小牧・長久手で戦った。長久手で家康に敗れたことは秀吉として最大の痛恨で最後まで東国と家康を意識せざるを得なくなったが、西国は大坂城を拠点として、'85.3紀州根来と雑賀を征し、四国長宗我部元親*33を服し、'85-'86九州北部の大友と南部の島津の対立に大友を後援して島津義久*34を降し、筑前博多の復興に尽くして凱旋した。博多は信長以来の堺に代わって秀吉の貿易政策の拠点、大陸侵略の基地となる。
 山崎合戦に勝利したとき、従五位下左近衛権少将となり姓も信長の名乗、平を受けたが、'85内大臣に任じ右大臣菊亭晴季*35の計らいで前関白近衛前久*36の養子となり、関白二条昭実*37を罷めさせ関白に進んだ。'86.2関白に相応しい邸宅として壮大な聚楽第の建設を始め、また方広寺大仏の造営に着手。'86.12太政大臣に進み豊臣の佳姓を賜った。'87.9.13聚楽第が完成し、ここに中秋の名月を賞した。'87.10.1秀吉の企画、茶頭千利休*38の演出の下広く庶民を集めて北野大茶会を催して一世を驚かし、'88後陽成天皇*39聚楽第行幸を仰いで、洛中地子銭を献上し、諸将からも誓紙を得て政権を固め、権力基盤となる検地も徹底させ大仏建立を口実に刀狩を行い兵農分離を進行せしめた。
 '90小田原に北条氏直*40らの征討を行い関八州を家康に与えて、一応国内統一を終えて凱旋した。この頃より秀吉の性急な行動に精神異常が加わったかに見え、'91.2最も寵愛した利休を自刃に追い込んでいる。'91.8甥の秀次*41に関白職を譲って太閤と称した。'93側室淀殿*42に実子秀頼*43が生まれると、'95.7秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑。文禄・慶長の役('92-'97)の朝鮮侵略は失敗、晩年は伏見城に於いて幼い秀頼の前途のみを案じた暗澹たる最期であった。死後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。(『朝日歴史人名事典』より修整引用)

男色
 男同士の性愛。中世には、女性を排した寺院内で、稚児が先輩の僧侶の寵愛の対象となった。戦国期には武士の間で、主君が家来の少年を寵愛し、両者間の関係のあるべき姿を主張した若衆道まで成立した。江戸時代には男色は一般化し、美少年の若衆歌舞伎が幕府に禁止されたり、陰間という男娼が登場したり、男色物と呼ばれる仮名草子浮世草子も盛んに刊行された。江戸前期まで行われていた殉死の風習にも、主君と家臣間の男色関係に絡んでの例があった。(『日本史広辞典』より引用)

 信玄×高坂弾正、信長×前田利家、信長×蘭丸などカップリングのネタに事欠かない戦国時代。十六人の愛妾*44を抱える好色家秀吉ならさぞかしそっち方面でも艶福家かと思いきや、実は彼は男性関係は非常に清潔だったりします。これは武士階級に男色の浸透しきった戦国時代に於いては非常に珍しいことです。どれくらい珍しいかと言うと、「あまりにも男に興味を示さない秀吉を心配した部下*45が容姿端麗の美少年を寝所に派遣したところ、暫くしてキョトンとして帰ってきた。事情を聞くと、手も触れられず、代わりに「お前に姉はおらぬか」と訊かれた」という逸話が残っている位です。異父弟の秀長も男色に興味を示さなかったと言いますし、百姓階層には男色の風習がなかったことの傍証となるのではないでしょうか。
 九州遠征の際の「女狩り」や小田原攻めへの淀殿の帯同などの奇矯な行動も、男色の習慣がなかった所為だと考えると理解もしやすいのではないでしょうか。通常の武将だと小姓相手に持て余した性欲を発散できていたのが、彼には果たせなかった。そう考えると彼の女漁りも何だか哀しくも微笑ましいものに思えるから不思議です。

秀吉の枷 上 (文春文庫)

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  • 作者:加藤 廣
  • 発売日: 2009/06/10
  • メディア: 文庫

笑い怒り泣いて拗ねてきっともっと強くなれる

帰ってきた今日の一行知識

「妹」は古代恋人を呼ぶ言葉
万葉集に「吾が妹は〜」なんて歌が多く載ってます。日本人の「妹萌え」の性癖はそんな昔からあったのね。

*1:通算成績:試合291勝利17敗北16セーブ51ホールド5勝率.515投球回295.2奪三振298防御率2.98

*2:通算成績:試合539勝利205敗北159セーブ5勝率.563投球回3147.2奪三振2192防御率3.44

*3:NPB通算成績:試合257勝利112敗北72セーブ1ホールド1勝率.609投球回1642.1奪三振1328防御率3.22 MLB通算成績:試合32勝利7敗北12セーブ1勝率.368投球回156.1奪三振105防御率3.86

*4:通算成績:試合1261打席5271安打1408本塁打264打点753盗塁23打率.299

*5:通算成績:試合997打席3628安打956本塁打32打点255盗塁49打率.293

*6:通算成績:試合438勝利13敗北10セーブ12勝率.565球回364奪三振375防御率2.94

*7:通算成績:試合180勝利24敗北17セーブ15勝率.585投球回360奪三振243防御率4.70

*8:通算成績:試合148勝利8敗北19セーブ59勝率.296投球回247.1奪三振212防御率4.58

*9:通算成績:試合829勝利206敗北158セーブ193勝率.566投球回3196奪三振2987防御率2.49

*10:紅薔薇さまリリアン女学園高等部3年生。「姉」:小笠原祥子、「妹」:松平瞳子。父福沢祐一郎、母(祝部)みき、弟に祐麒。ミスシンデレラに選ばれるほどの劇的な邂逅を経て祥子の妹になり、永きすれ違いを乗り越えて瞳子の姉となった。当初こそ薔薇の館には場違いな「一般人」な感が強かったものの、数々の経験と仲間達のフォローで押しも押されぬ紅薔薇さまに。その親しみやすい雰囲気で、「祖母」の蓉子の理想を継ぎ、「開かれた山百合会」を目指し奮闘中。

*11:二条。白薔薇のつぼみリリアン女学園高等部2年生。「姉」:藤堂志摩子。大の仏像マニア。その為の旅行で本命の受験に失敗し、滑り止めだったリリアンに進学。その経緯とカトリックには似合わぬ趣味から、周囲とは距離を置くも、「姉」志摩子との出会いとその周りのおせっかいな仲間達の尽力で無事リリアンに馴染んだ。非常にクールで大人びた性格と、友情が絡むと暴走する熱血とで、次代の山百合会の中心となることが期待される。

*12:佐藤。前白薔薇さまリリアン女子大学文学部米英文学科2回生。「妹」:藤堂志摩子。人見知りで独りよがりな性格で、栞との悲恋などから一度は道を踏み外しかけるも、「姉」や蓉子の友情により克服。現在では人懐っこい陽気な性格に変貌し、一般生徒からの人気も高い。

*13:紅薔薇さまリリアン女子大学1回生。「姉」:水野蓉子、「妹」:福沢祐巳。父小笠原融、母(菊亭)清子。小笠原グループの一人娘で、名家の令嬢揃いのリリアンにあってもとびっきりの「お嬢様」。その出自と完璧主義的な性格から孤高の存在として敬遠されるも、蓉子の努力と祐巳の天然とで性格も丸くなった。

*14:大学2回生。元花寺学院高等部生徒会長。文武両道眉目秀麗の完璧超人。バイセクシャルを公言し、婚約者祥子の不興を買うも、後に和解し婚約を発展的解消。

*15:瞳子の母は、優の父の妹

*16:祐巳とのデート後

*17:アイムエンタープライズ所属。代表作:アルフォンス=エルリック(『鋼の錬金術師』)、三千院ナギ(『ハヤテのごとく!』)、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール(『ゼロの使い魔』)他。

*18:昌吉。織田弾正家足軽組頭。名主級の豪農の家に生まれ、近隣の足軽を統括する立場で活躍するも、戦傷により引退。

*19:天瑞院。木下弥右衛門・竹阿弥夫人。父関兼員。通称:「大政所」。子に日秀・豊臣秀吉豊臣秀長・朝日姫。

*20:智。三好良房夫人。父木下弥右衛門、母大政所。通称:「日秀尼」。子に豊臣秀次豊臣秀勝・豊臣秀保。

*21:尾張戦国大名三河守。父信定、母含笑院殿。尾張の虎と呼ばれる武勇で、尾張・南美濃・三河西部に勢力を拡大。しかし、今川義元斎藤道三の逆襲により一時の版図を失い、勢力挽回を期しつつも病死。

*22:水野昌盛。織田信秀同朋衆。父為春。前妻と死別後、秀吉の母なかと再婚。不仲により秀吉が出奔したのちの消息は不明。

*23:久野の大名。石見守。父長則。今川家に仕え、頭陀城々主を務める。今川氏滅亡後は家康に帰順。一時主君だったことから、秀吉に招聘され、遠江で一万六千石の大名に抜擢。

*24:尾張戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。尾張の大うつけと蔑まれながらも、家督争いに勝利し、尾張を東統一。桶狭間の戦い今川義元を滅ぼし虎口を逃れて以降、美濃制圧、足利義昭を擁して上洛と破竹の勢いで近畿を制圧。実質的な室町幕府の後継者となった。信長包囲網を打ち破り国内に敵なしとなって以降は第六天魔王を自称し、中世の旧秩序の破壊に邁進するも、覇道の半ばで本能寺の変にて惟任光秀の凶刃に斃れた。

*25:浅野城主。父長詮。養女ねねが秀吉の正室となったことにより、親族衆として豊臣家中に重きを為す。

*26:豊臣秀吉夫人。父杉原定利法名:「高台院」、通称:「北政所」。秀吉の正妻として「尾張派」の筆頭格となり、淀殿ら「近江派」と対立。結果として家康と結び、淀殿・秀頼=豊臣家の滅亡に手を貸すこととなった。

*27:惟任。近江坂本城主。日向守。父明智光綱、母お牧の方、養父明智光安土岐頼芸の流浪に従い朝倉家に身を寄せていた際、従兄妹の濃姫との縁で信長に足利義昭を紹介。その功で織田家に招かれ、文武に亘る活躍で織田四天王の筆頭として累進。それで増長したか、本能寺の変で信長を討ち、将軍職を継承するも、思わぬ秀吉の反撃に遭い、山崎の戦いで敗死。

*28:岐阜城主。侍従。父織田信長、母坂氏、養父神戸具盛。伊勢の名門神戸氏を次ぎ、近畿南部の経営に尽力。四国征伐の準備中に本能寺の変が勃発、総大将として逆臣光秀を討つも、続く清洲会議では織田家経営の主導権を秀吉に奪われた。その後、柴田勝家と結び秀吉に対抗するも賤ヶ岳の戦いに敗死。

*29:北ノ庄城主。修理亮。父勝義。当初は信行の家老として信長と争うも、稲生の戦いで敗北して以降は、織田四天王の一人として、瓶割り柴田の雷名と共に数々の武勲を挙げる。本能寺の変後はお市の方を娶り、織田家の宿老として秀吉に対抗。しかし、時勢には抗えず賤ヶ岳の戦いに敗死。

*30:大野の大名。伊予守。父資清。鉄砲衆として仕え、清洲同盟締結などに功があったことにより累進。武田征伐後上野を領するも、本能寺の変後の混乱で、後北条氏に上野を奪われたことにより失脚。秀吉政権下でも復権ならず失意のまま病死。

*31:宇陀松山初代藩主。父織田信長、母生駒吉乃、養父北畠具房。旧名:具豊→信意。名門貴族北畠氏の名跡を継ぎ、伊賀攻略などを担当。本能寺の変後、当初は秀吉と後に家康と組んで織田家家督を狙うも悉く失敗。以降は出家し風雅な文人としての天寿を全うした。

*32:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。当初は織田家後に今川家の人質の不遇の少年期を過ごす。今川家の客将として活躍し、桶狭間の戦いのどさくさに紛れ、念願の独立を果たす。その後、清洲同盟を背景に版図を広げ、信長横死後は秀吉に臣従しながらも、五大老の筆頭として強い影響力を保った。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝利して徳川幕府を開闢。

*33:土佐の大名。土佐守。父国親、母(斎藤)祥鳳。姫若子と呼ばれる柔惰な性格ながらも、長浜の戦いでの初陣で豹変。鬼若子、後には土佐の出来人と呼ばれる活躍で土佐統一。本能寺の変後の混乱に乗じ四国統一に成功するも、秀吉の四国征伐により敗北、臣従し土佐一国を安堵された。

*34:薩摩守護。修理大夫。父貴久、母雪窓夫人。旧名:忠良→義辰。薩摩・大隅・日向の三州を制圧し、大友・竜造寺と共に九州三強の一角にのし上がる。耳川・沖田畷の両合戦で両家を降し、九州統一目前に迫るも、九州征伐により薩摩一国のみの安堵となる。その後も、豊臣政権に反抗的な態度が憎まれ、名目上の家督を弟義弘に奪われるも、最期まで実権は握り続けた。

*35:右大臣。従一位。父公彦。旧名:実雅。秀吉と親しく、関白就任を周旋するなどして累進するも、秀次事件に連座し失脚。

*36:関白。従一位。父稙家、母(久我)慶子。旧名:晴嗣→前久。上杉謙信と親交があり、越後に下向し関東平定に協力。永禄の変で三好三人衆に通じたことを復権なった義昭に憎まれ失脚。義昭追放後は織田信長に接近し復権するも、本能寺の変により再度失脚。

*37:関白。従一位。父晴良、母伏見宮位子女王。信長→秀吉→家康と時の権力者と良好な関係を築き、武家と公家の橋渡し役として活躍とした。

*38:田中与兵衛、母月岑妙珎。茶聖とも称される侘び茶の創始者織田信長豊臣秀吉に重用され、特に豊臣政権の前期には「内々のことは全て利休に相談せよ」といわれる程の権力を握った。庇護者であった秀長の死後失脚し賜死。

*39:第107代天皇。諱は周仁。父陽光院、母新上東門院。秀吉政権下では朝廷権威復活の流れに乗り古の天皇の如き崇敬を得るも、江戸幕府には一転して抑圧されその権威は再び地に堕ちた。

*40:相模の戦国大名左京大夫。父北条氏政、母黄梅院、養父今川氏真家督を相続するも実権はなお氏政が握り続けた。小田原の役でも、家康の娘を妻とした縁で最後まで和睦を主張し続けるも、強硬派の氏政・氏照兄弟を止められず開戦敗北。その穏健姿勢が認められ死を免れ高野山に追放となる。

*41:関白。正二位。父三好吉房、母日秀、養父宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉。旧名:信吉。四国の名族三好氏の名跡を継ぎ、秀吉の数少ない一門衆の一人として賤ヶ岳の戦い・雑賀攻め・四国征伐などで活躍。嫡男鶴松を失った秀吉の養子となり、関白職を継ぐ。しかし、再び実子秀頼が生まれた秀吉に疎まれ、賜死。

*42:茶々。豊臣秀吉の側室。父浅井長政、母お市の方。子に鶴松・豊臣秀頼。秀頼の実母として豊臣氏の家政を壟断。大政所ら尾張派との対立を家康につけ込まれ、豊臣氏の滅亡を招く。

*43:大坂藩主。右大臣。父秀吉、母淀殿。父秀吉の残した豊臣氏を継ぐも、天下の大権は既に徳川氏に移っており、大坂の役にて戦死。

*44:名前が判明しているのは十人。淀殿(茶々、浅井長政長女)、松の丸殿(龍子、京極高吉女)、三の丸殿(織田信長五女)、加賀殿(摩阿、前田利家女)、三条殿(お虎、蒲生賢秀女)、姫路殿(織田信包女)、かい姫(北条氏長女)、山名氏(山名豊国女)、お種殿(高田次郎右衛門女)、南殿(詳細不明。長浜時代の愛妾)。

*45:蒲生氏郷説と女官説あり