さいたまのあつかいがひどい 旧作品No.36362 | pya! (ネタサイト)
地味に広島も手抜き臭いのは気のせいでしょうか。
日記。友人に付き合って稀覯本を漁ってきました。色々見た挙句、友人が2万円の字典をお買い上げ。他人事ながらも自分のことのように嬉しいのは我ながら得な性格。人の買い物を見てるだけってのは自分の財布が痛まないので経済的でいいですね。
- 作者: 宮崎市定
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1963/05/01
- メディア: 新書
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夢追いし旅人は行く 足音鳴らし 作る道
科挙
隋の文帝*1時代より1905年まで約1300年間行われた高等官吏資格試験。公平な実力試験によって広く人材を挙用することを目的とし、古典の教養を試験した。例えば、隋の進士科は詩賦と策を以て試し、唐の秀才科は方略策五道を課し、宋以後は、経義・詩賦・論策を併せ問うた。
唐代に一応整い、科目も6科を数えたが、秀才・明経・進士の3科が栄えた。応試資格は成績優秀の学館の生徒中より選抜された者、及び州県に自ら出願して考試を受けて及第し、中央に貢送された者(郷貢)などであった。試験方法は大義・帖経(経書についての一種の筆答試験)と策・文・詩賦・墨義(経書に関する一種の筆答試験)とに分かれた。ただ秀才科は策問を以て試み、頗る難関であったので自然と衰え、経学を主とする明経、詩賦を主とする進士の2科が栄えた。殊に進士科は出世が早いというので、次第に重きを加え、宋代に入り進士の名に統一された。試験は唐代のはじめ吏部考幼員外郎の司るところであったが、玄宗*2に至って礼部侍郎に移管された。
唐代科挙の特色はその運営面にあって、礼部所管の科挙試験に及第しても官吏となる資格が付与されたに過ぎず、更に吏部における採用試験ともいうべき身(人品)・言(言語)・書(筆跡)・判(法律問題)の試にパスしなければ実官に任じられることはなかった。
ところが宋太祖*3に至って殿試が創設された。殿試とは解試(地方試)・省試(礼部試)の後に、試場を宮中に設け天子自ら軒に臨み、天子自身の責任の下に行われる最終最高の試験であるから、進士出身官僚は天子の門生たる地位を誇りとして忠誠を誓い、以て近世独裁君主制の確立に一大影響を与えた。明清にも殿試は受け継がれたが、宋代科挙の特徴は実に解試・省試・殿試の三段階制の成立を以て最も大とする。宋初の科目には進士科の他に明経を含む諸科が存在したが、進士科のみが栄えた。殿試は仁宗*4朝より落第させぬのが原則となり、ただ省試の成績順列を上下変更するのみと定め、英宗*5の時科挙施行を3年に1回と決めた。
以上の宋代の新方針は明清の常法として受け継がれた。明清は殊に科挙応試の資格として府州県学の生徒(生員)であることを原則と定められた為、学校の科挙への隷属は著しく、学校は教育の場としては有名無実となった。(『新編 東洋史辞典』より引用)
『蒼穹の昴』上巻の底本。浅田次郎は大好きな作家なのですが、底本の内容に殆ど手を加えず小説に仕立てる悪癖*6があります。インスパイヤだの剽窃だの野暮なことを言わなければ、小説に出て来たシーンの詳細な「解説」が各所に散りばめられていて楽しく読めます。『蒼穹の昴』で科挙の奥深さに興味を持った人に最適の本ではないでしょうか。
文章は明治の読書人の面目躍如といった感じの硬骨な文体。色気はありませんが、骨太で隙のない好感の持てる文章です。清朝末期の形式主義の塊のような科挙システムの復元がメインで、中国「黄金時代」の唐宋代の記述が薄いのは残念ですが、新書にそこまで求めるのは酷でしょう。肩の力を抜いて、中華四千年の叡智の結晶を是非堪能してみて下さい。勉強しなくちゃと襟を正したくなること請け合いです。
以下、清朝末期科挙制度の概略。
受験勉強が始まるのは「お受験」も真っ青の数え3歳の春。「上大人孔乙己化三千七十士尓小生八九子佳作仁可知礼也」*7の習字から始まります。それが終わると次は「天地玄黄〜」で始まる千字文で漢字を憶え、四書五経の暗記に入ります。本文併せて431,286字*8を丸暗記し終わりスタートラインに立つのが大体15.6の頃。以降は2000年の間に膨大に積み重ねられた注釈を学び、詩作を磨き、繁文縟礼の極みの八紘文に習熟しなければなりません。
青春全てを犠牲にして一通りの学問を修め「童生」と呼ばれるようになった若人が最初に挑む関門は、州府県学の入学試験たる「院試」の予備試験の「府試」の予備試験の「県試」。ああややこしい。これら三段階の試験に合格し晴れて入学が叶えば「生員」と呼ばれる準官吏の身分を習得し、不逮捕特権などの厚遇を得ます。
艱難辛苦のその果てに辿り着いた学校はと言えば、現代四流駅弁大学すら立派に見える程の適当な講義しか行われておりません。当然誰もそんな授業に真面目に出席するわけもなく、三年に一度の定期試験「歳試」を適当にやり過ごしながら、科挙の受験資格を獲得できる「科試」に備えます。
科試に合格し「挙子」となって初めて科挙が始まります。第一の関門は地方予選「郷試」。三年に一度の郷試の合格率は約百倍の狭き門。しかし、それを通り抜ければ、「挙人」の称号身分を手にし、たとえそこで挫折したとしても、食うに困らぬ地方下級官僚の役職は保障されるようになりす。余談ですが、英語でこの挙人のことをMasterと呼称します。現在で言うところの修士さまだと思えば、その偉さも分かりやすいでしょうか。余談②一定以上の学問があって、中央政界からは落伍している。という必要要件を満たすからか、中国の著名な書道家には結構この挙人止まりの人が多いです。
遂に迎えた科挙のクライマックス「会試」。郷試の翌年に首都北京で行われるこの一大イベントには毎回1000人近くが集い、300人弱の合格枠を目指し鎬を削ります。これに受かれば、後は「貢士」として皇帝自らの最終面接「殿試」に望むだけです。宋の太祖が始めた殿試も清代にはほぼ形骸化しており、余程の失態や不正のない限り落第は出さず、ここに日月天地すら動かす力を持つとすら言われた「進士」*9さまの誕生です。
落ちこぼれてると1人胸に秘めていた 僕に太陽は当たらぬと思い込んでいた
公務員試験に教採、司法試験に医師国家試験と現代日本にも科挙を思わせる実務の才能との懸隔甚だしい、試験のための試験が横行していますが、どうせ無駄なことやるなら本場さながらの壮大で荘厳で権威のあるお祭りにして欲しいと思うのは負け犬の僻みでしょうか。
何処で間違えたか安定のレールを踏み外し、負け組み街道まっしぐらの私ですが、胸に滾る立身の志を如何に鎮めるべきでしょうか。大人しくまだ見ぬわが子に「状元及第」の夢を託すか、それとも、老童生となって見果てぬ夢を追うか。後者を選んで、魯迅の『孔乙己』の如き野垂れ死にをするのもある種男子の本懐かもしれませんね。
今日の一行知識
日本人で科挙に合格したのは阿倍仲麻呂ただ一人。*10
しかも、多分に伝承臭いとのこと。朝鮮半島出身の進士が多いのに比べると、日本人が如何に野蛮で学のない民族かが分かるニダ。
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