脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

新撰組について

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親の四倍役満の割れ目で三十八万四千点か。一度でいいからあがってみたいな。


業務連絡。
落ちたーwwww


 友人一同へ。慰められるとマジへこむんで、暫く放置プレイでお願いします。尤も「ニートの世界にようこそ」「打ちませんか?」「好きです。付き合ってください」等の心温まるコメントは随時募集中です。特に最後の。

 笑えん時こそ、えへヘと笑うのが男の生き様。「空元気も元気のうち」と今日も楽しくいつもどおりの更新レッツゴー。(注、やけくそ気味の超長文なので、覚悟して読んで下さい。)

迷いの蜃気楼 薙ぎ払う剣は

 愚痴ってたら忘れてたので、此処で前口上を。以前書きかけで放置しておいた『新選組始末記』の感想が上手くコンパクトにまとまりそうな気配がなかったんで、開き直って『始末記』を底本にした「私説新撰組論」でも展開してやろうかと。例によって例の如く、史料検査ほとんどやってない甘々の文章なんで、質問突っ込みよろしくお願いします。なお基本アンチ気味の論考なんで、熱狂的ファンな方は読まない方が吉です。

新撰組
 幕末、京都における尊攘派を鎮圧した浪士組。文久三(1863)年に清川八郎らが幕府と協議して結成した浪士隊が京都に入り、清川らが江戸に引き上げたのちも芹沢鴨近藤勇らは京都に残留し、京都守護職支配下に近藤が局長となり、壬生に駐屯した。尊攘派池田屋事件などで鎮圧。戊辰戦争では甲州などで戦ったが敗北、解隊した。 (『岩波日本史辞典』より抜粋)

結成まで

 そもそもの起こりは寺田屋事件で寄る辺を失くした清河八郎が、自身の私兵団を作る為に提案した浪士隊。折からの尊王攘夷を謳う不逞浪人の扱いに困っていた幕府は、問題児は一箇所に集めた方が管理が楽とばかりに快諾します。ちなみにこのときの主導者は松平春嶽山内容堂
 この浪士組に集まったのは二百四十八人。近藤は土方・沖田・山南・藤堂・井上・永倉の七名を連れて参加しますが、取締役筆頭の芹沢とは対照的に、各隊*1に三人づつもいる伍長にすらなれぬ有様。当時の身分・扱いの低さが伺えます。
 そんな田舎郷士の運命が変わるのは京都についてから。偶然芹沢率いる水戸党*2と同宿*3になります。そこで芹沢に唆されたか、清河の指揮下を離れ、京都に留まる*4ことを決めます。捨てる神あれば拾う神あり、京都に残った浪士組に新規募集の人員を加え、京都所司代新撰組の誕生です。以下初期組織図(斜体は新規募集組)

水戸党粛清

 八月十八日の政変で長州が失脚して以来、京都での新撰組の権勢はいや増しに増します。中でも酒乱の芹沢を筆頭とする水戸党の横暴は相当なものがありました。押借・喧嘩・辻斬り・焼討ち何でもござれの彼らに、堪忍袋の緒を切らせたのは、松平容保近藤勇のいずれかは知りませんが、隊内で水戸派粛清の方針が固まります。

 手始めは新見錦。呼び出されのこのこ出かけた祗園の遊女屋で、放蕩による隊務怠慢と金銭の出入りの杜撰さを土方・沖田らに責められ、切腹。それから十日程たった後、遂に本丸芹沢が暗殺されます。
 文久三年九月十八日。今日も今日とてぐでんぐでんに酔っ払ってご帰宅の芹沢。四条堀川の太物問屋菱屋の主人から奪い取った妾お梅を侍らせ高鼾。隣室には側近の平山・平間がそれぞれ桔梗屋吉栄*5輪違屋糸里をお持ち帰りして熟睡中。そこに闖入したのは土方・沖田・山南・原田の近藤の腹心四人。同衾の女諸共三人を膾切り、芹沢・平山(・お梅)は即死。虎口を逃れた*6平間(・吉栄・糸里)も逐電。残る野島も同年年末に難癖をつけられ切腹。これにより、新撰組のイニシアチブは試衛館出身組が牛耳ることになります。
 

池田屋事件

 新撰組を語る上で避けて通れぬこの事件。てゆーか内部抗争除くとこれ位しか真っ当な戦果がないのが実情ですが。

 時は元治元(1964)年6月5日。祇園祭宵山の喧噪に紛れて集まる尊攘過激派数十名。其処で密談交わせしは、京都に火を放ち、その混乱に紛れて諸侯を暗殺、天皇陛下を拉致せんとの大悪事。それを未然に防がんと踊り入りたる新撰組京都所司代の不手際で、先陣近藤に付き従うは、沖田・永倉・藤堂・原田・谷の僅か数名。されど、そこは壬生狼と恐れられし新撰組。鬼神の如き働きで、敵の大将宮部鼎蔵*7吉田稔麿*8の両名を始めとした計十四名を惨殺。此方の被害は最激戦区を守りし藤堂・永倉両名重症の他死亡二名のみ。

 というのが一般的評価でしょうか。しかし、細かくみると大分怪しいところがあります。それじゃあ一つづつ潰していきましょうか。

 まずは京都大火の企て。そもそも池田屋事件の発端は宮部鼎蔵に宿を貸していた四条寺町の古道具屋桝田喜右衛門こと古高俊太郎の自白に寄るものですが、無茶苦茶な拷問での自白ですので、非常にでっち上げ臭さが漂います。なお勘違いが横行していますが、事件当日の会合は、古高拉致の善後策の検討です。要するに、機密が漏れるだろうから宿を替えろという指示伝達と屯所を襲撃して古高を奪回するかそれとも見捨てるかの検討をしていただけでしょう。会合の時刻場所がばれたのは自白ではなく、以前から潜り込んでいた密偵山崎の通報によるものだそうで、ますます襲撃の口実臭いです。

 次は少人数での襲撃の理由ですが、これはおそらく近藤の功名目的の抜け駆けでしょう。会津藩が三千とも言われる大軍を動員している以上、大人しく指揮に従っていては目立てないでしょうし。事実この先走りで遅れて参加するはずの桂小五郎を取り逃しています。正直危険を冒してまでも少数精鋭で襲撃する必要性を余り感じません。


 その後、新撰組禁門の変に参加しますが、いくら非近代戦とはいえ、何の訓練も受けてないヤクザが戦功を立てられるほど甘くはありません。結局さしたる戦功もないまま終戦します。
 その年の冬、近藤は永倉・尾形・武田の新撰組インテリ三人衆を連れ、江戸に長州征伐の為の将軍上洛の建白をしに行きます。もちろん成功するはずもなく終わるのですが、これで教養人の必要を痛感したか、同門の藤堂のつてを辿り、知勇兼備誉れ高き北辰一刀流の剣客伊東甲子太郎をスカウトします。これが崩壊への序曲とも知らず。
 翌慶応元(1865)年2月23日、試衛館時代からの盟友山南敬助を失います。罪状は脱走。伊東に唆されたとも、土方との反りが合わなかったとも、果ては隊再編成による屯所の本願寺移転が気に喰わなかったとの我が侭まで諸説紛々ですが、とまれ同年初夏我々のよく知る十番隊から成る新撰組が完成します。以下組織図。(斜体伊東一派*9赤字剣術師範頭兼任。青字文 学師範頭兼任。)

次回予告

 大概長くなったのでここらで一旦切ります。続きはまた明日。予定では「竜馬暗殺」「油小路事件」「新撰組終焉」の三作をお送りします。みんな絶対みてくれよな。

参考文献

新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫)

新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫)

定本新撰組史録

定本新撰組史録

新選組日誌 コンパクト版〈上〉

新選組日誌 コンパクト版〈上〉

新選組日誌 コンパクト版〈下〉

新選組日誌 コンパクト版〈下〉

今日の一行知識

坂本竜馬日露戦争前夜、皇后の枕元に立ったが誰だか分ってもらえなかった
 司馬遼太郎以前の知名度はそんなものだったようですね。個人的には現状の評価は、前田慶次並に過大評価だと思われます。

機動新撰組萌えよ剣TV 主題歌 時代の無双花

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*1:一隊約三十人の七隊に取締役二十三名。試衛館組は六番隊に編入

*2:新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助

*3:壬生村八木源之丞邸

*4:生麦事件の解決を口実に清河は浪士組を引きつれ江戸に引き上げますが、独断専行と危険思想を疎まれ、文久三(1863)年4月13日赤羽橋上にて暗殺。

*5:永倉の談では小栄

*6:吉栄は闖入直前に運良くトイレに起きた際、事の異常に気がつき遁走。平間・糸里は必殺死んだ振りで難を逃れます。所詮小物と見逃して貰えた臭いです。

*7:肥後の英傑。この人と会見出来て初めて志士の端くれ。と言われたほどの人物。

*8:松陰門下三秀が一人。因みに残り二人は久坂玄瑞高杉晋作

*9:高台寺党にあらず。伊東が上京の際連れてきた連中のこと