脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『憑神』

 二日目にして早くも大儀くなってきました。なので飛ばさずマイペースでいかせてもらいます。というわけで今回は私のお気に入りの作家浅田次郎氏の最近作の『憑神』(2005)をレビューしてみたいと思います。幕末の激変期に新しい時代に適応できず申吟する「古い」武士の姿を描いた作品です。全般的にコメディータッチなので『壬生義士伝』のようなかっこいい武士たちを求めると落胆することしきりでしょうが、最初は哀愁漂う主人公が最後にはきちんと決めてくれます。作者の得意な誰も不幸にしない「力づくでのハッピーエンド」の一つの典型といっていいんじゃないでしょうか。あとこの作者全般に言えるのですが、緻密な構成とは正直無縁な人ですが、場面場面での盛り上げ、見得のきり方は一級品なので、「小説の神髄は燃えにあり」って人は必読の書だと思います。破滅へと走りながらも、最後には考える最高の終劇に駆け込む様は、なんかもう無意味に叫びたくなってきます。

それでは以下ネタバレ注意

貧乏神

 さて今作の主人公別所彦四郎ですが、貧乏御徒士組の次男で婿入り先から離縁された肩身の狭い出戻り男です。三十過ぎの下級武士に再就職先のあるわけもなし、兄夫婦の冷たい視線に耐え、空しく日々を過ごしていたある日、草に埋もれ忘れられた禁断の祠「三巡稲荷」を拝んでしまい、三柱の悪神に取り憑かれてしまう。不幸のどん底の彼はこの苦難を乗り越えれることができるのか。さあお立会い。
 というわけで第一の刺客、その名に似合わぬ大店の粋な旦那姿で現れたこの貧乏神、彼の洒脱な遣り取りの描写は作者が若いころ河竹黙阿弥に耽溺していたというだけあって、絶品です。貧乏侍と粋な大旦那のコミカルな掛け合いをいつまでも楽しみたいところですが、そんなことでは話が進みません。以前の職場で可愛がってやってた役立たずの小文吾が実は強力な法力の持ち主で、その力を借りて、貧乏神を他人に押し付けることに成功します。ここら辺伏線の張り方は稚拙で小文吾の登場も唐突なんですが、それを感じさせないのが力量でしょうか。

厄病神

 虎口を切り抜け次に出会うは厄病神。恨み骨髄の嫁の実家に貧乏神を押し付けて難を逃れたものの、元妻子を路頭に迷わせてしまい、罪の意識に煩悶する彦四郎の前に横綱級の貫禄を漂わせた力士姿の大男が現れます。とり憑いた相手を死なない程度の難病に罹らせるという難儀なこの悪神には小文吾の法力も通用しません。かと思えば家督を継いだ兄の不行跡がばれ、このままだと貧乏ながらも300年続いた御影鎧番(戦時に将軍の影武者を務める役)の職を失うという苦境に立たされてしまいます。涙もろい厄病神九頭龍を泣き落とし、宿替えを承諾させた彦四郎が侍の仁義を貫く為兄を想う心を私の情と切り捨てて、厄病神を兄へと押し付け、家督を簒奪するその姿は悲しくも美しいです。

死神

 どん尻に控えしは、生きとし生きるものの最大の恐怖を司る死神です。昨今の時流に乗って、ロリロリ美少女な姿で顕現した死神ですが、ぶっちゃけ可愛くありません。正直厄病神の九頭龍の方がけなげで萌えます。慣れないことはするモンじゃありません。閑話休題。死神も手なずけることに成功した彦四郎ですが、誰に死を押し付けるか、倫理と恐怖と打算の相克に決断が遅れます。しかし時代は彼を待ってはくれません。沈み行く将軍家は一戦も交えず官軍への恭順を決断します。侍の時代の終焉を悟った彦四郎は、存在意義を失った御影鎧をその身に纏い、幕軍残党の集う上野山へと走ります。新時代を生きれぬ旧弊達の意地の神輿になるために、失われ行く時代の実を結ばぬ烈花を咲かせるために、死をその胸に抱いて

まとめ

 この作者のいつもの癖ですが、主人公が話の進展につれてどんどんかっこよさがインフレして、開始時とラストシーンで同一人物に見えない。悪神達が交代する度主題が変わり、テーマが一貫してないなどの欠点はありますが、それを補って余りある描写力が作品に勢いを与えます。怒涛の終盤はもちろん、鬱展開の序盤、中だるみの中盤も、ストレスなく読ませる筆力は嫉妬を超えて絶望すら感じさせてくれます。全体のストーリーが各場面の描写の下位に置かれている異端の作風を武器にする浅田次郎を私はこれからも応援していきます。

今日の名言

 おのれを徒花と信じぬがゆえに、徒花はなお美しい 研屋喜仙堂主人
 日本人の美学の極致