脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

テレビ新ヒーローティーエスエスと平安貴族の男色と巫女の性交について

都育成条例改正案、成立 本会議で可決 - ITmedia NEWS
認めましょう。我々は敗北しました。これ以上何も言うことはありません。ただ、一つやるべきことが残っています。それはこれに賛成したクズども*1をきちんと次回の選挙で落選させることです。投票権放棄は民主主義における最大の無責任です。これ以上老害の跳梁を許さぬ為にも、若人よ投票所へ行きましょう。


 肚と腰の据わらぬ大将を神輿に担ぐと舁き手はモチベーション維持が困難です。最後の最後まで決断しないのが政治家の仕事とはよく言ったものです。

どんなことでも相談してね友達よりもっと力になるよ

テレビ新ヒーローティーエスエス

1000%SPARKING! - 脱積読宣言

テレビ新ヒーローティーエスエス
 本拠地:広島市、結成年:平成12(2000)年、目的:悪い番組から子どもたちを守る、敵組織:電波ジャッカー、必殺技:地上波ビーム・地上波サーベルなど。
 テレビ新広島開局25周年イベントに登場した3人組のヒーロー。近未来からやってきた彼等は、広島県民の人気者だ。年1回行われるイベントでのヒーローショーの他、ミニ番組『テレビ新ヒーロー伝説!』(2001)へのレギュラー出演など、メディア露出の多さはかなりのもの。(『ローカルヒーロー大図鑑』より抜粋引用)
メンバー

  • 新広子*2
  • 島映造*3
  • 島豊映*4

 ローカルヒーローブームの波に乗っかって、我が故郷、広島は出汐に舞い降りた3人のヒーロー。出没し始めたのが私が上京してからなので、今一その活躍の全貌を計り知れませんが、自前の番組持ったりと中々活発に活動してた模様です。しかしこいつらの格好って、冷静に見ると戦隊ヒーローってか、ショッカー的な戦闘員よりな気が・・・

ローカルヒーロー大図鑑

ローカルヒーロー大図鑑

平安貴族+男色

若き健児の血は沸きて - 脱積読宣言

平安時代
延久十三(794)年の平安遷都を始期とし、鎌倉幕府が成立した建久三(1192)年を終期とするほぼ400年間で、平安京に政治・文化の中心があったという観点からこう呼ばれる。始期を天応元(781)年の桓武*5即位や延暦三(784)年の長岡京遷都、終末を寿永二(1183)年の十月宣旨や文治元(1185)年の守護地頭設置に求める見解もある。
 平安時代は4期に区分されることが多い。第1期は「万代宮」としての平安宮が確立する嵯峨*6・淳和*7天皇の時代から、前期摂関政治が出現し、政務・儀式の整備が図られた時期である。文化的には唐風の弘仁・貞観文化が生れた。第2期は光孝天皇*8より村上天皇*9に至る時代で、藤原北家の政治的進出、律令制度の再建が図られた時代で、国風文化の萌芽期に当る。第3期は円融天皇*10から後冷泉天皇*11に至る後期摂関政治期に当り、荘園公領制の進展に対応した政治システムの転換が見られる時期。女流文学をはじめ各分野で、日本文化の中で大きな比重を占める美的意識や感性を生み出した国風文化の中心の時代でもある。第4期は白河*12・鳥羽*13上皇を中心とする院政期で、院の権力の下に政治運営が展開される一方、武士が国家機構内に於いても無視できない勢力として台頭し、公家集団内部に於ける家職や家格の成立が、後世の朝廷を中心とする国政の運営の骨格を形作った時期である。院による造寺・造仏、説話集や平泉文化に代表される文化の地方への拡がりが見られた時代でもある。
 平安時代は、古代から中世への転換の時期として時代区分上の位置付けが論じられてきた。また、律令国家体制から中世国家の初期形態である王朝国家体制へ転換した時代として、10世紀初〜11世紀前半を前期王朝国家に、11世紀後半以降を後期王朝国家に区分する見解もある。また律令国家体制からの転換を10世紀後半に求める見解もある。(『岩波日本史辞典』より引用)

貴族
 血統性・門閥性を持ち、政治的・経済的特権を与えられた世襲的支配階級。日本における貴族身分は、8世紀初頭に完成された律令国家により確立された。律令制においては、三位以上の官人を「貴」、五位以上の官人を「通貴」と称す。通常、五位以上の者と、その親族であることにより付与された蔭位などの身分的な特権の範囲を貴族と称している。貴族は、朝廷の高級官僚であることが条件とされたので、京に集住した。9世紀以降公卿として国政に携わる上級貴族は家政機構を有し、国より給付された動産・不動産を核とした独自の家産経済を発展させ、荘園を領有し、寺社・院宮と共に荘園制を発展させた。8世紀には、藤原氏の他、大伴氏・阿倍氏和気氏・紀氏など多くの氏から貴族が構成されていたが、9世紀以降、藤原氏が大部分を占めるようになり、中でも藤原北家の諸流が中心となった。また、新しく皇親貴族の源氏が加わった。中世以降、政権を掌握した武士を武家と呼んだのに対し、朝廷に拠った廷臣を公家と呼ぶようになった。室町時代以降、朝廷の権力の退潮に伴い、公家の経済的基盤も弱体化した。1869版籍奉還に伴って貴族は華族と改められ、従来の公卿に加えて諸侯を華族とすることとなった。'74華族令が出され、明治憲法下で貴族院を構成した。(『岩波日本史辞典』より引用)

男色
 衆道・若道・若衆道とも。男性の同性愛嗜好のこと。院政期の藤原頼長*14が日記『台記』に記したのを始めとして、中世以来僧侶や武士の間で半ば公然の風俗として存在した。江戸時代になると女色と共に「色道二つ」と呼ばれ、その作法が様式化された。武士の間では小姓制度などの主従関係や朋輩関係を通じて展開し、一般社会でも男性同士の深い契りの持つ精神性が推奨された。井原西鶴*15の『男色大鑑』はその諸相を活き活きと伝えている。若衆歌舞伎の発展に伴い、男色を売買する風俗も盛んになったが、武家社会に儒教道徳が広まるにつれて批判が強まり、公然とした男色風俗は次第に衰えた。(『岩波日本史辞典』より引用)

 手に入らないとなれば、代替物に向かうのが男の性欲。女犯を禁じられた坊主どもが、その獣欲の対象としたのが、自分のところに腐るほどいるお稚児さん。かくして男色は衆道と名付けられ糞坊主共の必須教養となったのでした。
 で、時代は下って平安中期。浄土信仰の隆盛で出家する貴族の増えたこの時代、当然の様に男色文化が平安貴族層に輸入されます。男女交際が政争の具でしかなかった高級貴族にとっては純愛の対象として、新興の武士層にとっては自慢の肉体を実力者に売り込むチャンスとして、男色は重宝されたようです。本来こういった性の暗部は記録に特に公的文書には残らぬものですが、この時代には稀代の変態大学生「悪左府」頼長が居たおかげで、『台記』という日記にその記録が赤裸々に綴られています。我こそはと思う貴腐人の方は是非ご一読を。

復元の日本史 王朝絵巻―貴族の世界

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巫女+性交+神

心に私がふたりいる - 脱積読宣言

巫女
 ある儀礼を行うことにより神がかりとなり神の託宣を告げる女性で、特別の入巫儀礼を済ませて神の妻となった人。生涯独身であるが、世襲的な血脈相承の巫女においては必ずしもこの限りではない。文献に見える日本最古の例は『魏志』「東夷伝倭人の条の卑弥呼*16で、年老いて夫婿なく、男弟に政務を司らせ、自らは宮殿の奥深く籠って神に仕え、神託を請う巫女王である。神宮皇后*17は自ら神主として託宣されており、古代の女帝である推古*18・皇極*19・持統*20のそれぞれの天皇も神まつりする巫女の面影があり、原始・古代国家の成立に巫女王が大きな役割を果たしている。律令制に入っても、祭祀儀礼や宮廷芸能の中で継承され、大嘗祭の織女・五節舞姫・小忌湯の采女・斎内親王や斎院などが挙げられる。一方、民間にあっても古くから存在していたはずであるが、正史には大化の改新直前や奈良前期の行基*21の活動の中に巫覡の活動が見える。中世に入ると、男系武権の成立により女権が衰退し、巫女の活躍は芸能の世界に移り、今様のキネや白拍子に変身する。出雲の阿国*22の女歌舞伎は、出雲大社の歩巫女の芸能から始まったものである。また、地獄・極楽などの往生の諸相を、文芸ないしは絵解きによって全国を説いて歩く歌比丘尼熊野比丘尼がいたが、零落して遊女化することもあった。江戸幕藩体制下では宗教管理が厳しかった為、公認以外の宗教や民間信仰が禁止されたが、幕末から明治にかけて、奈良の農家に生まれ中山家に嫁いだ中山ミキ*23が霊感を得て天理教を、京都福知山の大工の婿取り養女の出口ナヲ*24大本教を、など新興宗教を起した。現在、東北地方には神口・生口・死口などの口寄せをする盲目のイタコがあり、オシラサマという人形を使って神降ろしの巫儀を行う。奄美沖縄諸島には、個別的な女占師で死者の口寄せをもするユタと、共同体の祭祀に携わる公儀の神職者のノロ・ツカサがある。(『日本風俗史事典』より引用)


1、かみ
 ア、あまつかみ。天の神。宇宙万物の主宰者。
 イ、かみの総称。
2、魂。霊魂。
3、心。精神。
4、霊妙で計り知れない働き。理性では計れない不思議な働き。
5、極めて尊く、侵すことのできないもの。
(『大漢語林』より引用)

性交
 男女の性的な交わり。交接。媾合。房事。(『広辞苑 第五版』より引用)

 巫女、それは神に嫁いだもの。同じ神に操を捧げたものとは言っても、飽くまで禁欲的な西洋のシスターさんとは違い、日本の巫女さんは実際に神と性交するんだから、儒教道徳やキリスト教道徳では制御しきれぬ、日本人の業というのを感じます。後世の白拍子や歩き巫女なんかも、神がおこぼれを下々に分け与えてくださったと考えれば、あながち破倫の所業というわけではないのかもしれませんね。日本の巫女さんが、西洋の修道女に比べて何処か淫靡なのは多分ここら辺に理由があるのではないでしょうか。

巫女さん入門 初級編

巫女さん入門 初級編

放っておけない訳じゃないけど

 遂に成立してしまった青少年健全育成条例。「検閲」の一語で、その悪法たる理由は説明し切れるとは思いますが、もう一つ、老害どもの自分たちだけにしか通用しない「常識」「道徳」の押し付けがあります。気色悪くて見たくないから男色は不道徳と決め付け、巫女さんに萌えるのを冒瀆と呼び、自分の子供にいつまでも子どもでいて欲しいから性交は結婚してからと制限する。なんという醜悪なる自己満足でしょう。あんた方は、未来からやってきたテレビ新ヒーローティーエスエスの親戚か何かですか?
 神ならざる我等には真の道徳・倫理の理解などは不可能で、せいぜいが慣習を無理やり常識と名付けて押し付けることが精一杯。例えば、今から見れば非常識の塊の平安貴族だってその当時はその文化を至上にして普遍の常識と信じていたはずです。常識は変わるもの。その当たり前すら理解できない人を老害と呼ぶのではないでしょうか。

UNDER17 BEST ALBUM3 そして伝説へ…

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帰ってきた今日の一行知識

日本でも同性愛が犯罪だった時期がある
文明開化のお題目で西洋道徳の無批判な導入に汲々としていた時期の明治六(1873)〜明治十三('80)年に存在した「鶏姦罪」がそれ。因みに刑は懲役90日*25の微罪。相変わらず日本人は性の逸脱に馬鹿みたいに寛容ですね。

*1:反対したのは共産党生活者ネットワーク・みらいと無所属(自治市民)の福士敬子のみ。

*2:TSS未来制作局タイムキーパー。悪い番組から子供達を守る為島兄弟を引き連れて未来からやって来た。必殺技は地上波ビーム。

*3:TSS未来営業局セールス担当。テレビのロマンを守る為に、過激なセックス描写の氾濫する現代にやってきた。必殺技は地上波サーベル。

*4:TSS未来技術局システム担当。テレビの平和を守る為に、バイオレンス描写の氾濫する現代にやって来た。必殺技は地上波ブーメラン。

*5:第50代天皇。諱は山部。父光仁帝、母高野新笠藤原百川に擁されて立太子。即位後は長岡京に遷都するも、早良親王の怨霊に苦しめられ、僅か十年で平安京に遷都。外には蝦夷征討などを行い、平安時代の幕を上げた。

*6:第52代天皇。諱は神野。父桓武帝、母藤原乙牟漏。弘仁格式の制定などで内政を安定させ、三筆の一角として弘仁文化の隆盛をもたらした。

*7:第53代天皇。諱は大伴。父桓武帝、母藤原旅子。薬子の変により立太子。令義解の編纂などで政治の安定に努め、地方政治の粛正や税収の適正化などにも着手した。

*8:第58代天皇。諱は時康。父仁明帝、母藤原澤子。傍流の親王として皇族の長老格として活躍していたところを藤原基経に擁され即位、宮中行事の再興に努めた。

*9:第62代天皇。諱は成明。父醍醐帝、母藤原穏子。忠平死後、摂関を置かず、天皇親政を実現、延暦の治と呼ばれる善政を敷いた。

*10:第64代天皇。諱は守平。父村上帝、母藤原安子。安和の変により即位。亡母の指名により兼通を関白に指名、兼家の恨みを買い以後彼との緊張関係を保ちながら治世をおくった。

*11:第70代天皇。諱は親仁。父後朱雀帝、母藤原嬉子。外戚道長の傀儡として君臨。頼通の娘寛子を娶るも子をなさずに病死。摂関政治崩壊の遠因となった。

*12:第72代天皇。諱は貞仁。父後三条帝、母藤原茂子。父に引き続き親政を行い荘園整理を断行。譲位後も権力を保持し続け院政の基礎を築き、半世紀弱に亙る長期政権を運営した。

*13:第74代天皇。諱は宗仁。父堀河帝、母藤原苡子。父の死後治天の君を継承し院政を発展させた。子の崇徳上皇を疎み、保元の乱の遠因を作った。

*14:左大臣従一位。父忠実、母藤原盛実女。「日本一の大学生」と称されるほどの学識を誇り父忠実や鳥羽法皇に愛された。兄忠通の義絶により氏の長者を継承し、「悪左府」と呼ばれるほどの冷酷果断な活躍を果たす。近衛天皇薨去の際、呪詛の疑いをかけられ失脚。その後、崇徳上皇と組んで保元の乱復権を図るも叶わず戦死。

*15:代表作:『好色一代男』・『日本永代蔵』・『世間胸算用』(浮世草子)他。

*16:倭国王。実務は弟に任せ、邪馬台国の祭祀王として君臨。魏と親交を結び倭王に封じられた。

*17:哀帝皇后。和名は気長足姫尊。父息長宿禰王、母葛城高顙媛。子に応神帝。夫の仲哀天皇の死後朝政を司り、三韓征伐を断行。

*18:第33代天皇。諱は額田部。父欽明帝、母蘇我堅塩媛。夫に敏達帝、子に菟道貝蛸皇女・竹田皇子・小墾田皇女・尾張皇子・田眼皇女。崇峻天皇暗殺後、蘇我馬子に擁立されて即位。聖徳太子の輔弼を得て、十七条の憲法や冠位十二階の制定など大和王権から古代国家への雄飛を遂げた。

*19:第35・37代天皇。諱は宝。別号:斉明。父茅渟王、母吉備姫王。夫:高向王→舒明帝、子に漢皇子、天智帝・間人皇女・天武帝。夫舒明天皇の死後即位。乙巳の変に伴い譲位するも、孝徳天皇死後に重祚中大兄皇子の輔弼を得て大化の改新を断行した。

*20:第41代天皇。諱は鸕野讚良。父天智帝、母蘇我遠智娘。夫に天武帝、子に草壁皇子。夫天武天皇の服喪の間、称制を行うも後継者に擬せられていた草壁皇子の死去により、孫の軽皇子成人までの中継として即位。高市皇子輔弼の下、藤原京遷都や大宝律令の編纂などを行った。

*21:大僧正。父高志才智、母蜂田古爾比売。道昭に師事し法相宗を学ぶ。関西を中心に布教し教団を形成、当初は僧尼令違反により弾圧を受けるも、その動員力を認められ大僧正に任命され、東大寺大仏の建立に協力した。

*22:出雲大社巫女。父中村三右衛門。出雲大社勧進の為、諸国を興行。その一座は評判となり、女歌舞伎を確立した。

*23:天理教々祖。父前川半七。夫に中山善兵衛、子に秀司・おまさ・おやす・おはる・おつね・こかん。天理王命の天啓を享け、天理教を創始。神祇管領吉田家により認可を受けるも、明治維新に伴い認可が失効。弾圧と戦いながら没した。

*24:大本教開祖。父桐村五郎三郎、養母出口ゆり。夫に政五郎、子に澄他。神憑りを得ておふでさきに開眼。金光教の傘下として布教を開始。出口王仁三郎の協力により独立、大本教を創始した。

*25:華士族へは譴責処分のみ。