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ぶっちゃけ東京は千代田区だけあれば他いらない。
咽喉にくる猛烈な風邪を治して出勤してみれば、席を並べる同僚が全員揃って見事なしゃがれ声。これって間違いなく震源地俺だよなあ。
SRWZⅢ天獄篇進捗
- 作者: 安田元久
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 1986/11/01
- メディア: 単行本
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我が身さえこそ動かるれ
後白河天皇
大治二(1127)〜建久三('92)年。在位久寿二('55)〜保元三('58)年。鳥羽天皇*1の第4皇子、母は待賢門院藤原璋子*2。諱:雅仁、法名:行真。
1155.7近衛天皇*3が没するにおよんで、鳥羽法皇・美福門院*4・藤原忠通*5らにおされて即位したが、'56.7鳥羽法皇の死をきっかけに、崇徳上皇*6・藤原頼長*7との間に保元の乱を戦い勝利した。その結果、荘園整理の基準を自らの即位時点にもとめるなどの強硬な保元の整理令(新制7か条)をくだし、また摂関家の勢力削減を行ない、絶えて久しかった大内裏造営を実現するなど、皇室権力を強化しようとした。しかし'58在位わずか3年で二条天皇*8に譲位して上皇となり、以後、二条・六条*9・高倉*10・安徳*11・後鳥羽天皇*12の5代34年間にわたって院政を行なった。源義朝*13を平治の乱で滅した平清盛*14の勢力が巨大になると、'77近臣藤原成親*15・西光*16・法勝寺執行俊寛*17らに平家追討の謀議を行なわしめたが失敗(鹿ケ谷の事件)。以後比叡山・摂関家と平氏の対立を深めるべく策謀をめぐらし、一時清盛によって幽閉された。'80第2皇子以仁王*18をして諸国の源氏に平家追討の令旨をださせた。これをうけた源頼政*19の挙兵は失敗したが、源義仲*20・頼朝*21の挙兵によって平氏追討に成功した。その後義仲の暴政を嫌って、頼朝に義仲追討の院宣を与えてこれを討ち、さらに頼朝の東国政権を否定すべく弟義経*22をもってこれを討とうとするなど、権謀術数を用いて王朝権力の確保をはかった。頼朝は後白河院を「日本一の大天狗」と評した。'69法皇となり、蓮華王院・長講堂・法住寺御堂などの造寺造仏を盛んに行ない、熊野詣は32回におよんだという。また音楽的才能がゆたかで、笛・今様を好み、『梁塵秘抄』を撰している。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)
平清盛・木曾義仲・源義経・源頼朝らを手玉に取った「日本一の大天狗」の伝記。保元の乱・平治の乱・治承寿永の内乱の全てに中心人物として関与した怪人なので、伝記ではなく平安時代最末期の時代史としても優秀。そのスケールの大きさから黒幕的な扱いの多い彼ですが、実際には時代と人間関係に流されて右往左往している内に気が付けばばっちり動乱の特異点として君臨する羽目に、ってのが現状だった模様です。現実社会でもスケールは別にしていますよねこういう人。てなわけでこの人の本質は前半部分で見せつけてくれる今様狂のダメ人間が本来だったのではないかと感じさせてくれます。誰かこのアプローチで一本創作してくれませんかねえ。ただ問題は先年の『平清盛』の爆死を見るに、誰にも需要がなさそうなところでしょうか。
真に美しく舞うたらば華の園まで遊ばせん
やっぱり日本史の華は中世史と信じてやまない人間からすればその序章たるこの時代の面白さは声を大にして喧伝したいんですが、上記の通りあんま省みられてないのが哀しいところ。みんな戦国や幕末だけじゃなくってもっと他の時代にも興味持とうよ。
- アーティスト: 夏志聡
- 出版社/メーカー: Yumemino-Onsenmura
- 発売日: 2012/02/22
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帰って来た今日の一魚知識
雅仁親王は今様の歌い過ぎで咽喉を潰して死にかけた
今様狂もここまでくれば殿堂もの。今の「歌い手」さんたちもこれくらいの打ち込み様はしてもらいたいもんですね。
*1:第74代天皇。諱は宗仁。父堀河帝、母藤原苡子。白河法皇の死後治天の君となり、崇徳・近衛・後白河の3代28年に亘り院政を行なった。摂関家の抑圧に成功し、その治下では寄進地系荘園が乱立した。
*2:鳥羽天皇中宮。父公実、母藤原光子。子に崇徳帝・禧子内親王・通仁親王・君仁親王・上西門院・後白河帝・覚性法親王。
*3:第76代天皇。諱は躰仁。父鳥羽帝、母美福門院。鳥羽上皇の寵愛を受け即位、後継者に擬せられるも夭折。
*4:藤原得子。鳥羽天皇皇后。父長実、母源方子。子に叡子内親王・八条院・近衛帝・高松院。
*5:関白。従一位。父忠実、母源師子。父の失脚により摂政関白に就任。鳥羽院政開始による忠実復権により義絶され氏長者を弟頼長に奪われ、摂関家内での熾烈な主導権争いを繰り広げた。保元の乱の勝利により名実ともに摂関家を掌握すると、後の五摂家に繋がる繁栄の基礎を固めた。
*6:第75代天皇。諱は顕仁。父鳥羽帝、母待賢門院。父鳥羽天皇より「叔父子」と忌み嫌われ、治天の君の座から排斥。鳥羽上皇の死後、頼長らと結び保元の乱を起こすも敗北し、讃岐に配流客死。将門・道真すら従える「日本一の大怨霊」となった。
*7:左大臣。従一位。父忠実、母藤原盛実女。「日本一の大学生」とも讃えられる英明を父忠実に愛され、兄忠通から氏長者の座を簒奪。激しい後継者争いを繰り広げるも、「悪左府」と綽名される生来の驕慢から人心は離反し、保元の乱にて戦死。代表作:『台記』(日記)。
*8:第78代天皇。諱は守仁。父後白河帝、母藤原懿子。美福門院に養育され、父後白河法皇とは距離を置いた独自路線の親政を行う。平清盛を重用し、平氏政権の基盤を準備した。
*9:第79代天皇。諱は順仁。父二条帝、母伊岐致遠女。父の早逝により弱冠数え2歳で即位も後白河法皇の圧力により僅か3年弱で叔父の憲仁親王に譲位。その後元服も待たず夭折。
*10:第80代天皇。諱は憲仁。父後白河帝、母平滋子。平氏政権と後白河法皇の対立の狭間で苦難の治世を送った。
*11:第81代天皇。諱は言仁。父高倉帝、母建礼門院。平氏政権に擁立されて即位するも、木曾義仲に逐われて都落ち。壇ノ浦の戦いにて入水。
*12:第82代天皇。諱は尊成。父高倉帝、母七条院。兄安徳天皇の都落ちにより即位。祖父後白河法皇の死後、親政のち院政を行ない、各種改革に尽力。鎌倉幕府との対決姿勢を取り続けるも承久の変の敗北により隠岐に配流客死。
*13:播磨守。従四位下。父為義、母藤原忠清女。関東に一大勢力を築き、保元の乱で戦功を挙げ累進。信西との対立から藤原信頼と結んで平治の乱を起こすも敗死。
*14:太政大臣。従一位。父忠盛。伊勢平氏の棟梁として日宋貿易を牛耳り、西国に巨大勢力を築く。保元・平治の両乱の勝利により平氏政権を樹立し、後白河法皇と対立。治承三年の政変により法皇を失脚させるも、以仁王の令旨により反平氏の挙兵が相次ぐ中、福原遷都を置き土産に病死。
*15:権大納言。正二位。父家成、母藤原経忠女。信頼亡き後の後白河院政の院近臣のリーダー格として活躍。平治の乱・憲仁親王擁立・嘉応の強訴などで度々解官の憂き目に遭うも、後白河法皇の寵愛は揺るがず都度復権。鹿ケ谷の陰謀に連座し処刑。
*16:藤原師光。左衛門尉。父麻植為光、養父藤原家成。信西の側近として累進、平治の乱後は信西の後を襲い「第一の近臣」となるも鹿ケ谷の陰謀に連座し処刑。
*17:僧都。父寛雅、母宰相局。後白河法皇の側近の一人として活躍するも鹿ケ谷の陰謀に連座し鬼界島に配流客死。
*18:父後白河帝、母藤原成子。平氏政権の不興を買い親王宣下も受けれず逼塞。全国の反平氏勢力に令旨を下して挙兵するも戦死。
*19:備後権守。三位。父仲政、母藤原友実。平治の乱で平清盛に与したことにより、平氏政権で累進するも、以仁王の令旨を発して蜂起戦死。鵺退治の逸話で著名。
*20:木曾。征夷大将軍。従四位下。父源義賢、母小枝御前、養父中原兼遠。以仁王の令旨に呼応し挙兵。倶利伽羅峠の戦いでの大勝などにより、平氏を逐って入京し、「旭将軍」の雷名を轟かすも、後白河法皇との対立や京での乱妨により人心は離反。粟津の戦いで戦死。
*21:鎌倉初代将軍。右近衛大将。父義朝、母由良御前。平治の乱での敗北により伊豆に配流。以仁王の令旨に呼応し挙兵。富士川の戦いでの勝利などにより関東に独立勢力を確立。壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすと鎌倉幕府を開闢。奥州合戦で奥州藤原氏を滅亡させると、ほぼ日本の統一に成功した。
*22:源。伊予守。従五位下。父源義朝、母常盤御前、養父一条長成。奥州藤原氏の庇護下で成長。以仁王の令旨に呼応し、兄頼朝に合流。一ノ谷・屋島・壇ノ浦などでの劇的な勝利を演出し、平家を滅亡に追い込むも、後白河法皇への接近を憎まれ失脚。奥州藤原氏の下に亡命するも、庇護者だった秀衡の病死により居場所を失い、衣川の戦いで戦死。