まとめたニュース : 【朗報】参政党、160人擁立へ!!!左翼に染まった自民党、覚悟しろ!!!
中革連があの惨状な今高市総理続投への一番の生涯は参政党になりそうですね。参政も国民も自民単独過半数だけはなんとしても避けなければならないとはいえ、やってることえげつないなあ。
昨日今日始まったことではありませんが医療業界はもう少し時間を守るって風習を導入すべきだと思うんだ。そんなんだから暇を持て余した老人の集会場になるんです。
とんぼが群れながら夢の終わりへ急ぐ
毛利元就
明応六(1497)~元亀二(1571)年。戦国時代の武将。弘元*1の二男、母は福原広俊*2の娘*3。幼名:松寿丸・少輔次郎。治部少輔・右馬頭・陸奥守。
1511元服し、元就と称す。'16兄興元*4の死により甥幸松丸*5の後見となる。'23幸松丸の死により家督を継承、安芸郡山城主となる。初め尼子晴久*6、のち大内義隆*7に属す。'40出雲の尼子義久*8軍の侵入を防ぐ。'44三男隆景*9を小早川氏、'47二男元春*10を吉川氏の養子として領域を拡大。大内義隆が陶晴賢*11の反で倒れたのち、'55晴賢を安芸厳島に撃滅、'57大内義長も滅ぼし周防・長門をも合せて支配する。次いで備前・備中・石見・出雲などに進出。'63出雲白鹿城を占領し、'66出雲富田城の尼子義久を降伏させ、一〇か国を支配する有力な戦国大名となる。'68豊後の大友宗麟*12とも戦った。安芸郡山城で没。(『新潮日本人名辞典』より引用)
偉大なる郷土の英雄毛利元就伝を堪能しようのコーナー。感想はこれ元就伝じゃなく「戦国期における毛利家国人支配の研究」じゃん。という訳で、個人的な武勇や策謀はほとんどクローズアップされず、残された行政文書や私文書から毛利家が一地方領主から安芸の国人の代表を経て地域の覇者へと上り詰めていく過程を骨太な議論で活写しています。遺されている文書の時期の制約からほとんど主人公が毛利隆元になっちゃってるのはケンチャナヨ。とりあえず郡山合戦も厳島の戦いも月山富田城の戦いもほぼ数行の淡泊な記述でさらっと流されてるのは流石に硬派が過ぎる。そんな中でも子の隆元や孫の輝元との、「引退させろ」「あれだけ全部に口出しして業務を属人化しといて引退なんかされたら困る」の微笑ましいやり取りはいつの時代も変わらないんだなあとほのぼの。早期引退を目指すワンマン経営者の皆さん最高の反面教師がここにいますんで是非ご一読を。
誰かに会おう気持ちは十分あるのに
広島市の郷土の英雄はと言われると真っ先に出てくるのは毛利元就なんですが、毛利家は江戸時代山口に行っちゃったから今一馴染みが薄いんですよね。本拠地も安芸高田市だし、一番有名な古戦場は廿日市市だし、そもそも戦国期には現市内の三角州はまだ形成されてないし。かといって広島城を築いた福島正則や広島藩主の浅野氏がそうかって言われるとこれもなんだか違うよなあと。近代も有力政治家は岸田さんまでほとんどが市外出身ですし、まじで悩みます。そう考えると山本浩二や新井貴浩なんかのカープ関係者が郷土の偉人扱いされるのも仕方がないのかなあと。
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*1:安芸吉田郡山城主。備中守。父豊元。大内氏勢力下の国人領主として吉田郡山城を支配。管領細川氏と守護大内氏の対立の板挟みに懊悩し隠居。
*2:安芸小国郷地頭職。下総守。父朝広。毛利豊元の側近として活躍。続く弘元の代では外戚として権勢を揮い福原氏の毛利家における筆頭家老の座を確立した。
*3:毛利弘元正室。父福原広俊。法名:祥室妙吉禅定尼。子に興元・宮姫・元就。
*4:安芸吉田郡山城主。父弘元、母福原広俊女。大内氏と細川氏の板挟みから逃れるために隠居した父に代わって家督継承。父の死後は大内義興から偏諱を賜るなど大内氏に臣従。安芸国人一揆を形成するなど精力的に活動するも松尾要害での高橋氏との抗争中に陣没。
*5:安芸吉田郡山城主。父毛利興元、母高橋久光女。父の早逝により叔父元就の後見の下家督継承するも夭折。
*6:出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後守護。修理大夫。父尼子政久、母山名幸松女。旧名:詮久。祖父の隠居に伴い家督相続。西では大内氏、のち毛利氏と抗争しつつ、山陰山陽8ヶ国守護に任命されるなど中国地方東部に一大勢力を形成した。
*7:周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護。兵部卿。父大内義興、母東向殿。陶興房の輔弼を受け九州地方に進出し大友義鑑と抗争。和睦後は東進し吉田郡山の戦いの勝利などで安芸を勢力圏に収め尼子晴久と角逐。東シナ海の貿易の利益を独占して得た財力を以て朝儀復興に尽力し、山口遷都計画などを画策するも大寧寺の変により横死。
*8:出雲守護。右衛門督。父晴久、母尼子国久女。父晴久の急死により家督を相続するも、新宮党の粛清や元就の調略により動揺していた家中を制御することができぬまま勢力は漸減。第二次月山富田城の戦いに敗れ毛利氏に降伏。大名家としての尼子氏を滅亡させ幽囚の身となるも天寿を全うした。
*9:筑前の大名。中納言。父毛利元就、母妙玖、養父小早川興景。元就の計略により小早川水軍を継承。兄隆元死後は兄の元春と対立しつつも両川体制を築き、政務外交面で輝元を補佐。本能寺の変後逸早く秀吉に臣従し、陪臣ながらも五大老に数えられ、秀吉の養子の秀秋を後継者とするなど豊臣政権下で重きをなした。
*10:安芸日野山城主。駿河守。父毛利元就、母妙玖、養父吉川興経。父元就の計略により吉川氏に入嗣し家督継承。兄隆元死後は弟の隆景と対立しつつも両川体制を築き輝元を補佐、山陰方面の主将として活躍した。本能寺の変後は輝元隆景の秀吉への臣従方針に反発し隠居。九州出兵には従軍するも陣没。
*11:周防富田若山城主。尾張守。父問田興之、母陶弘護女、養父陶興房。旧名:隆房。大内義隆の寵童として重用され重臣の陶家を継承。武断派の筆頭として活躍するも、第一次月山富田城の戦いに敗北し義隆が文治政策に転換した為大寧寺の変を起こし、家中の実権を掌握。大友宗麟との提携により中国地方への勢力拡大を企図するも厳島の戦いに敗死。
*12:義鎮。九州探題。左衛門督。父義鑑、母坊城氏。二階崩れの変により家督継承。大寧寺の変を後援し大内氏と和睦し、北九州に勢力を拡大。キリシタンを保護し南蛮交易を積極的に行い得た財力を以て朝幕に献身、九州探題の役職と左衛門督の官位を得、毛利氏龍造寺氏と角逐。耳川の戦いで島津氏に敗れると勢力は漸減。島津の圧迫に対抗するため秀吉に臣従し九州出兵を招いた。

