脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

妙本寺

コロナ初期を振り返ってみる:哲学ニュースnwk
ようやくこうやって落ち着いて振り返れるようになったんだと感慨しきり。


 祝GW突入!ですが、当社と私は赤日関係なく通常営業してますんで、皆さん是非お声がけくださいましな。

"おはよう"って言ってテンション上げたら

妙本寺
 神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。池上法縁五本山の一つ。
 妙本寺のある谷戸は比企谷と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員*1一族の屋敷があった。比企能員源頼朝*2に仕えた有力御家人で、頼朝の乳母・比企尼*3の養子にあたり、妻*4源頼家*5の乳母、娘の若狭局*6は頼家の妻となって一幡*7を生むなど、源将軍家とは深い関係を有した。その結果、頼朝の妻・北条政子*8の実家である北条氏とは対立するようになった。1203頼家が病気で倒れると、千幡*9(後の源実朝)を推す北条氏と若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で、後継争いが勃発した。能員は密かに頼家と北条氏討伐を謀るが、これを事前に察知した北条氏によって名越で謀殺される。比企一族は比企谷の谷戸に籠って戦うが敗北し、一族郎党は屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。その際、若狭局は井戸*10に身を投げ、一幡は戦火の中で死んだと伝えられている。
 ただ一人生き残った能員の末子*11(後の能本)は助命され、和田義盛*12に預けられた後に安房国に配流となった。成人の後には京都に上り順徳天皇*13に仕え、承久の乱順徳天皇が配流になると佐渡まで供をしたといわれている。更にその後、彼の姪にあたる竹御所*14源頼家の娘・鞠子。寺伝では媄子)が4代将軍・九条頼経*15の御台所とになったことから、許されて鎌倉に帰った。しかし、'34竹御所が難産の末に男子を死産し、そのまま本人も死去した。その際に、持仏であった釈迦如来像を祀るための釈迦堂の建立を遺言したという。この遺言を承け、'35比企谷に新釈迦堂が建立され、竹御所はその下に葬られた。'43比企一族の出身といわれる仙覚*16が新釈迦堂の住持となり、'46頼経の命により万葉集諸本の校訂を成し遂げた。 その後'53能本は鎌倉を訪れた日蓮*17に帰依、'60父・能員と母の菩提を弔うべく新たに法華堂を建立し寄進した。その際に、日蓮が父に「長興」母に「妙本」の法号を授けたことから、寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝わっている。なお、日蓮没後には六老僧の一人・日朗*18が継承し、以後、比企谷妙本寺を本拠として長谷山本土寺や長栄山本門寺等を管轄した。このことから日朗門流は「比企谷門流」と呼ばれ、この3ヶ寺を併せて「朗門の三長三本」と称された。
 このように比企谷門流にとって三長三本は重要な拠点であったが、本土寺は遠く離れていた事から3世以降に専従の住持が置かれたのに対し、妙本寺と本門寺は1941まで1人の住持が2ヶ寺を管轄する「両山一首制」によって護持されていた。更に、1591両山12世・佛乗院日惺*19徳川家康*20の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷した為、貫首不在となった妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住持が就任する慣わしとなった。 門流の本拠が池上に遷ったとはいえ妙本寺と本門寺が同格であることに変わりはなく、最盛期には院家塔頭2院16坊を擁し、直末寺は比企谷池上両山併せて165カ寺、朱印領1貫500文を有する大寺として隆盛を極めた。その後、1842天保の改革にて廃寺となった感応寺の本堂の解体部材と厨子が遷された。この時運び込まれた解体部材は祖師堂下に貯蔵されていたが、'75.1.10大火により身延山久遠寺が灰燼に帰した際に、久遠寺祖師堂再建の為にこの部材が使用された。1941両山一首制から一山一首制に移行し、2004由緒寺院から霊跡寺院に昇格した。現住は82世・鈴木日敬*21貫首(東京都墨田区法性寺より晋山) 。(wikipediaより修整引用)


 祝GW突入!という訳で、地味に今まで行ったことのない鎌倉に行ってまいりました。とは言え、大仏や鶴岡八幡宮では芸もなかろうと思い、メジャーマイナーな寺院を探した結果妙本寺にたどり着きました。池上本門寺と並ぶ日蓮宗名刹な割には全く観光地化されてない上に、由来が比企能員の乱の鎮魂って辺りに天邪鬼な歴史屋の心は非常に惹かれました。
 で、実際に行ってみた感想は、良くも悪くも特筆すべきことのないきれいで歴史を感じさせるいいお寺。ここを目的地にするのは『鎌倉殿の十三人』で比企能員の信者になった人位でしょうが、住宅街からちょっと足を踏み入れるだけで深山幽谷を思わせる清冽な空気をまとうその雰囲気は、これぞ鎌倉って感じ。鎌倉逍遥の立ち寄り先の一つとしてはかなりいい感じではないでしょうか。

いつも通りのこの場所で始めよう

 この小旅行記も早8年目なんですが、今まで鎌倉に行ったことなかったのにちょっとびっくり。ホント自分は天邪鬼なんだなあと改めて。いつまでも若くないんだからそろそろ逆張り癖は改めないとあきませんね。


www.youtube.com

*1:上野国守護。右衛門尉。父藤原公員、養母比企尼。伯母の比企尼が頼朝の乳母だった縁から近侍。側近として累進し鎌倉殿の十三人に名を連ねるも、比企能員の変にて横死。

*2:鎌倉幕府初代将軍。右近衛大将。父義朝、母由良御前。平治の乱での敗北により伊豆に配流。以仁王の令旨に呼応し挙兵。富士川の戦いでの勝利などにより関東に独立勢力を確立。壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼすと鎌倉幕府を開闢。奥州合戦奥州藤原氏を滅亡させると、ほぼ日本の統一に成功した。

*3:比企掃部允夫人。子に丹後内侍・河越尼・比企三女。

*4:三浦氏。

*5:鎌倉幕府第2代将軍。左衛門督。父頼朝、母北条政子。父の急死に伴い将軍就任。鎌倉殿の十三人に後見され幕政を総攬するも、その暗愚から人心は離反。比企能員の変により失脚幽閉。実朝の将軍就任の混乱が収まった後北条一族により暗殺。

*6:源頼家夫人。父比企能員母ミセヤノ太夫行時女。子に一幡。

*7:源頼家、母若狭局。頼家の嫡男として将来を嘱望されるも、比企能員の変にて横死。

*8:安養院。源頼朝夫人。従二位。父時政。子に頼家・実朝・大姫・三幡。夫頼朝の死後、実家北条氏の覇権を守らんと子の頼家・実朝はおろか父時政までも粛清し、弟義時と共に摂家将軍藤原頼経を擁立し、幕府の実権を握り、承久の変鎮圧などの功を挙げた。

*9:鎌倉幕府第3代将軍。右大臣。父頼朝、母北条政子比企能員の変により将軍就任。畠山重忠の乱・牧氏事件・和田合戦などの混乱の中、和歌に耽溺し朝廷との協調路線を模索するも、頼家の遺児公暁の手により暗殺。代表作:『金槐和歌集』(家集)他。

*10:一説には池

*11:比企能員法名:妙本。比企能員の変に連座安房に配流。姪の竹御所が将軍夫人となったことで赦され帰鎌。日蓮上人に帰依し妙本寺の元となる釈迦堂を建立した。

*12:侍所初代別当。左衛門尉。父杉本義宗、母大庭景継女。頼朝の挙兵に呼応し合流。早期の帰参の功から侍所別当に任じられ、治承寿永の内乱では範頼の軍奉行として活躍、頼朝政権で重きをなした。続く頼家政権でも鎌倉殿の十三人の一人として活躍。他の御家人たちが次々と反乱を起こし粛清されていく中、宿老として北条義時と角逐するも、和田合戦にて敗死。

*13:第84代天皇。諱は守成。父後鳥羽帝、母修明門院。和歌管弦に耽溺し政治に関与することはなかったが、承久の変に連座佐渡に配流客死。

*14:九条頼経夫人。父源頼家、母若狭局、養母西八条禅尼。

*15:鎌倉幕府第4代将軍。権大納言。父道家、母(西園寺)掄子。頼朝の妹の曾孫という血筋から摂家将軍として招かれ、尼将軍政子の後見を受ける。政子兄妹死後元服得宗専制の非主流派の旗頭となるも、頼家の娘であった正室竹御所が子を為さず死去してからは影響力は低下し将軍退位、大殿として一定の影響力を保持するも宮騒動により失脚放逐。

*16:権律師。代表作:『萬葉集註釈』(解説書)他。

*17:父三国大夫、母梅菊。貧賤の家に生まれ口減らしの為出家。早くからその学才で頭角を顕し各地に遊学し、法華経を至高とする日蓮宗を創始。折伏を是とする攻撃的な布教方法や過激な幕府批判から弾圧され、流浪の生涯を送った。代表作:『立正安国論』、『開目抄』、『報恩抄』(宗論)他。

*18:本門寺第2代貫主阿闍梨。父平賀有国。日蓮に師事し、彼の布教に伴う法難の数々を共に乗り越え、日蓮宗の本山たる四長四本の基礎を築き、日蓮六老僧の一人に数えられた。

*19:日典に師事し頭角を顕し、妙本寺本門寺両山の貫主となる。徳川家康に重用され江戸に善国寺などを創建した。

*20:江戸幕府初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。桶狭間の戦いを機に今川家より独立。織田信長との清州同盟を背景に今川義元亡き後の東海道に一大勢力を築く。本能寺の変後、羽柴秀吉と織田政権の後継を争うも、小牧・長久手の戦いにより臣従。豊臣政権では五大老の筆頭として重きを成す。秀吉死後、関ヶ原の戦いで三成を破り徳川幕府を開闢。その後、大坂の役で豊臣氏を滅ぼし江戸250 年の泰平の基礎を築いた。

*21:法性寺の住職として東京東部の寺院の業界団体を主導。東日本大震災時の防災への貢献などの功により、妙本寺貫主に就任。