脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

齊藤悠葵と柳澤健と政宗母子について

ネコとサラリーマンの労働環境を比較した結果wwwwwwwwwwwww:ハムスター速報
「キロいくらの社畜風情と人類の支配者たるおネコ様を比べる方が間違ってる」ってのは冗談としても、律義に守る方がマヌケ状態の労働基準法はどうかと思うの。


 理事会しゅーりょー。これで思う存分遊び倒す勉強に専念できるぞ。取りあえずは来月の『スーパーロボット大戦OG ムーン・デュエラーズ』の予習からかな。

志は誰も阻めぬ

齊藤悠葵

くもりガラスの向こう - 脱積読宣言
デッド・ライン、デス - 脱積読宣言
少女Q - 脱積読宣言
地獄の皇太子 - 脱積読宣言
残酷な天使のテーゼ - 脱積読宣言
STAND UP TO THE VICTORY〜トゥ・ザ・ビクトリィー〜 - 脱積読宣言

齊藤悠葵
昭和六十二(1987)年〜。福井県出身の元プロ野球選手(投手)である。身長186cm、体重86kg。左投左打。2005年高校生ドラフト3巡目指名。
 2005ドラフト3位で入団、ルーキーイヤーは初登板初先発初勝利を記録したが以降はフォームを崩し伸び悩んでいた。実況パワフルプロ野球に出たいと語っていたが、「実況パワフルプロ野球13決定版」で実現した。'08球速と制球を取り戻し、ルーキー以来の勝ち星を挙げた。'09開幕から先発ローテーションに加わり9勝11敗と好成績を挙げた。'10ローテーション落ちを経験するなど全体的に不振で、成績も4勝7敗防御率5.58と'09より数字を落とした。'10.8.4赤松真人*1が、'10.8.22天谷宗一郎*2がホームランボールをキャッチしているが、その時の投手がいずれも齊藤だった。この件について齊藤は二人に対し感謝のコメントを述べている。'12.5.9 2年ぶりに一軍登板を果たすと7回途中2失点の好投をみせるも敗戦投手に。'12.5.17今季初勝利を挙げたものの、'12.6.9 3回途中4失点で降板し、二軍に降格。'12.7リリーフで一軍復帰を果たすものの結果を残せず、結局6試合の登板に終わった。'13一軍登板なしに終わり、オフに背番号を36に変更。'14戦力外通告を受けた。よく読みで間違えられるが現:北海道日本ハムファイターズ斎藤佑樹*3ではない。ちなみに、本人はこの事をネタにして赤いハンカチで汗を拭うパフォーマンスを見せた事がある。(ニコニコ大百科より修整引用)

 誰が呼んだか「赤ハンカチ王子」。高卒新人初登板初先発初勝利ついでにそれが全国放送の巨人戦というド派手なデビューを飾った彼。08年から09年にかけては右の前田健太左の齊藤悠葵と並び称される次代のエースの筆頭格だったんですが、10年にマエケンが投手5冠で沢村賞と一気に大ブレークを果たして以降は見事に水をあけられ、13年以降は1軍登坂なし。一時は打者転向も打診されるなど迷走を続けた挙句に14年末戦力外通告。現在はスポーツ用品店アンダーアーマーの店長として活躍中。自身や親友マエケンのブログで元気な姿を見ることができます。結局1度も二桁勝利できず通算でも19勝にとどまった実績とそれに反比例する期待度と、個人的には長谷川昌幸と並んで暗黒期カープを象徴する永遠の期待のホープです。よく考えると、二人ともセカンドライフを実業家として満喫してるのも共通してるや。

柳澤健

真紅のリボンでそっと束ねて - 脱積読宣言

柳沢健
 明治二十二(1889)〜昭和二十八(1953)年。大正・昭和期の外交官、詩人。福島県会津若松市出身。東京帝大法科大学卒。
 逓信省朝日新聞社を経て外務省に入り、駐ポルトガル代理公使ほかを歴任した。島崎藤村*4三木露風*5に師事。1914第一詩集『果樹園』を刊行。'19『詩王』を創刊。ほかに『柳沢健詩集』('22)、紀行『南欧遊記』('23)など。(『新潮日本人名辞典』より引用)

 外交官兼詩人として著名だったらしい柳澤健氏。故郷会津地方の校歌の作詞も沢山ものにしてますが、今となっては知名度は殆ど残っていません。挙句の果てに同姓同名のノンフィクションライターが現役で活躍中とあって、グーグル大先生に聞くのもままならない有様。おとなしくNFライターの柳澤健氏の方にして『1976年のアントニオ猪木』のレビューでもしときゃあよかった。

泰国と日本文化

泰国と日本文化

伊達政宗+義姫

赤い月 - 脱積読宣言

伊達政宗
 永禄十(1567)〜寛永十三(1636)年。戦国時代・江戸前期の大名。出羽国米沢の城主伊達左京大夫輝宗*6の子。越前守・陸奥守・少将。幼名:梵天丸、通称:藤次郎、号:貞山。
 1585父が二本松の城主畠山義継*7に討たれると、政宗は蘆名・佐竹らを攻め、'86二本松を討つ。'89蘆名を滅ぼし越後・三春・出羽・白河に版図を拡大。'90小田原出兵にさいして豊臣秀吉*8に屈服し、所領を没収され、あらたに米沢を与えられる。'91大崎・葛西の一揆を討ち、奥州岩出山城に移封。'92文禄の役には朝鮮へ出兵した。1600関ヶ原の戦いには徳川家康*9について上杉景勝*10と戦い、白石城を攻撃。'02仙台城を築き移住し、米沢を蒲生氏郷*11に譲る。*12江戸幕府成立後、仙台藩62万石の大名。海外交易に力をいれ、幕府の協力のもとに'13家臣支倉常長*13を遣欧使節としてローマ法皇*14のもとに派遣したり、イスパニアと貿易をおこなおうとした。大坂の役では夏の陣で天王寺に奮戦した。和歌・茶道にも通じた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

保春院
 天文十七(1548)〜元和九(1623)年。通称:義姫・御東様・最上御前。出羽山形城主最上義守*15の女。義光*16の妹。
 輝宗に嫁し、嫡子政宗など二男二女をもうける。伊達・最上両家の攻争の渦中にあり、一時、山形に住んだこともあったが、最上家の改易後は仙台に戻り、1623.7.12七十六歳で没す。葬地は仙台覚範寺。(『戦国人名事典』より引用)

 みんな大好き独眼竜政宗の人生を語るには母義姫の存在を欠かすことはできません。そんな政宗義姫母子の愛憎に満ちた生涯を力不足を承知で略述してみたいと思います。
 父最上義守の親伊達家外交の一環として義姫が伊達輝宗に嫁いだのは永禄七(1564)年義姫17歳の頃。三年後には嫡子梵天丸や次男小次郎が誕生し、順風満帆な人生を送ります。更に、天正六('78)年には、夫伊達輝宗と兄最上義光の紛争を調停するなど、伊達最上両家の外交窓口としても活躍の姿が見られます。そんな彼女の人生が暗転するのは、寵愛していた次男小次郎ではなく疎んじていた長男の政宗家督を継承してから。愛する夫輝宗を不可抗力とは言え見殺しにされ、小次郎も頓挫こそしたものの蘆名家に体よく養子に出されようとするなど、政宗の「暴虐」に我慢の限界に達し、小田原参陣の際に毒殺を図るも失敗。小次郎の粛清を招き、自身も兄義光の待つ山形に出奔。政宗は父を見殺し、弟を誅殺し、母を追放した修羅として、以降「傾奇者」の道をひた走ることとなるのでした。
 というのが、巷間に流布する政宗義姫母子の悲劇ですが、現実はそうでもなかったようで、政宗は終生母義姫、のちの保春院を敬慕しており、愛情に満ちた書状が各時代ほぼすべてで残っています。義姫が山形に出奔した時期も実際には、通説の小次郎誅殺から遅れること4年の文禄四(1594)年に下っています。この頃は、豊臣政権下で伊達最上の水面下の暗闘が抜き差しならないレベルに達していた時期なので、政宗義姫母子の確執と見るよりは、「外交大使」の召還と捉えた方が正確だと思われます。実際山形藩の改易後、政宗は義姫を仙台に引き取っています。
 以上、とかく母子の確執の代名詞的に扱われがちな政宗義姫母子ですが、実際には仲睦まじい親子関係だったんですね。外野の無責任な邪推ほど残酷なものはありません。

伊達政宗―戦国をかける独眼竜 (講談社 火の鳥伝記文庫)

伊達政宗―戦国をかける独眼竜 (講談社 火の鳥伝記文庫)

帰って来た今日の一行知識

ドラフトで広島に入団した高卒左腕で通算勝ち星が一番多いのは齊藤悠葵の19勝
なんて惨状だ。「ラッキーストライク」の河内も結局16勝しかできてないんですね。カープはもう高卒左腕の指名自粛するべきだと思う。

*1:広島東洋カープ外野手。通算成績:396安打21本塁打141打点124盗塁打率.248(15年シーズン末まで以下同じ)

*2:広島東洋カープ外野手。通算成績:472安打26本塁打149打点77盗塁打率.260

*3:北海道日本ハムファイターズ投手。通算成績:14勝19敗防御率3.97

*4:春樹。父正樹、母縫。代表作:「破戒」、「夜明け前」、「春」(小説)他。

*5:操。勲四等瑞宝章。父節二郎、母(碧川)かた。代表作:「赤とんぼ」(作詞)、「修道院生活」(随筆)、『廃園』(詩集)他。

*6:米沢の戦国大名。父晴宗、母久保姫。天文の乱で疲弊した伊達氏の家勢を南奥州諸勢力との協調外交で復興させる。隠居後は、強硬外交に舵を切った政宗の尻拭いに奔走するも、その途上で粟之巣の変事で横死。

*7:二本松。右京大夫。父義国。二本松氏の家督を継ぐも、伊達政宗の侵攻により降服。和睦を斡旋した輝宗への御礼言上の際に輝宗を拉致しようとするも、駆けつけた政宗により輝宗もろとも殺害。

*8:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父竹阿弥→近衛前久。信長に見出され墨俣築城や美濃衆調略・小谷城攻略などで頭角を顕し、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い清洲会議賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどを経て信長後継の座を確保。関白に就任し天下人として全国統一に成功。次いで唐入りを目指し文禄慶長の役を起こすも志半ばに病死。

*9:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。桶狭間の戦いを機に今川家より独立。織田信長との清州同盟を背景に今川義元亡き後の東海道に一大勢力を築く。本能寺の変後、羽柴秀吉と織田政権の後継を争うも、小牧・長久手の戦いにより臣従。豊臣政権では五大老の筆頭として重きを成す。秀吉死後、関ヶ原の戦いで三成を破り徳川幕府を開闢。その後、大坂の役で豊臣氏を滅ぼし江戸250 年の太平の基礎を築いた。

*10:米沢藩初代藩主。権中納言。父長尾政景、母仙桃院、養父上杉謙信。旧名:顕景。武田氏との提携により御館の乱に勝利し上杉家を継承。本能寺の変後早くから秀吉に臣従し五大老の一人として豊臣政権で重きを為した。秀吉死後、増長を続ける家康と対立し、会津征伐を誘発。関が原の戦い後家康に降伏し米沢に転封。

*11:会津の大名。参議。父賢秀、母おきり。旧名:賦秀。織田信長に寵愛され娘婿となる。続く豊臣政権でも重用され徳川家康への抑えとして会津91万石を託されるなど将来を嘱望されるも40歳の若さで病没。

*12:原文ママ天正十九(1591)年の米沢から岩出山への移封とごっちゃになってます。そもそも氏郷は文禄四(1595)年に死んでるし。どうせゼミ生に下請けにだしてろくすっぽ校正なんかしてないんでしょうが著者も編集者もどんなド素人だ?

*13:仙台藩士。600石。父山口常成、養父支倉時正。旧名:長経。慶長遣欧使節団の団長として渡欧するも通商開始の目的を果たすことはできず、失意のまま帰国。帰国後は既に仙台藩でも禁教令が施行されており逼塞。

*14:Paulus V。第233代ローマ教皇。俗名:カミッロ=ボルゲーゼ。教会司法権の拡充などでヴェネツィア共和国ジェームズ1世と対立し、ローマ教会の権益拡大に尽力した。

*15:羽州探題修理大夫。父中野義清、養父最上義定。大伯父義定の死により若干2歳で家督継承。天文の乱に乗じて伊達氏から独立。娘義姫を伊達輝宗に嫁がせるなど親伊達外交を展開するも、反伊達家の息子義光により天正最上の乱で失脚隠居。

*16:最上。出羽山形藩初代藩主。右京大夫。父義守、母小野少将。天正最上の乱で父義守に勝利し家督継承。上杉・伊達両家との抗争により勢力を伸長し、小田原征伐で逸早く参陣し本領安堵関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉軍と交戦。その功により出羽山形57万石を得た。